ヘーゲルの国家論――「法の哲学」ノート(1)
ヘーゲルの「国家論」が他の多くの凡庸な政治学者や国家論者に比較して卓越している点は、何よりもヘーゲルが哲学者として「哲学の観点と方法」をもっていたことにある。そのことによって、彼の『法の哲学』は――この書が「自然法と国家学概要」という別名を副題にもっていることからもわかるように、――――「法」の研究が単なる実証法の研究に終わることなく、その根底にある絶対的な「自然法」の論理を明らかにすることになった。
そして同時に、近代においては「法」の概念が「国家」と必然的に結びついていることを、あるいは、「法の概念」が必然的に国家として帰結するというその論理を明らかにしている。他の一般の法学者、国家学者と比較して、ヘーゲルをして並はずれて優れたものとしているのは、いうまでもなくこの哲学における彼の能力である。
歴史学についても同じことが言える。歴史を単なる実証学としてしか記述できない凡庸な歴史家と違って、彼が歴史的発展の論理をとらえようとしていることも、彼の歴史学の特徴である。それを可能にしたのが、彼独自の哲学的方法、いわゆる弁証法的認識法であり、そのことによって近代において哲学は科学として復活することにもなった。
法哲学の中で、国家を一つの有機体としてとらえることができたのも、彼が生命を把握する論理をもっていたためである。生命をとらえる論理とは何か。それは一つの事柄における対立する契機の存在とその運動である。この両者の矛盾が運動を引き起こす。ヘーゲルの功績は、これを明確に認識し、その矛盾と進展の論理を体系として論理学の中に定式化したことにある。それは自然における法則そのものであり、彼においては絶対的な最高の真理として認識されている。この自然法則によって、この矛盾の論理によって、すべての事物は、内在的に変化し運動し、発展してゆく。
生命とは何よりもこの自己の内にある矛盾によって自己運動するものである。そして、彼の国家理論も、法の概念が一つの有機体としての国家にまで進展する論理を記述したものであって、国家という一つの人倫的な世界を、そのあるがままの現実の姿としてとらえようとしたものである。それは、ありきたりの道徳家が夢想するような「国家のあるべき姿」について説教をたれようとしたものではない。そうして国家の原理を明らかにした彼の法哲学は、教会の権威ではなく、自我による思考そのものの証明のうえに立とうとする近代人の指向を示してしている点においても、近代プロテスタンチズムの原理の産物でもあった。