作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

『法の哲学』ノート§1

2008年04月10日 | 哲学一般


『法の哲学』ノート§1

この『法の哲学』の緒論で、まずヘーゲルは「哲学的な法律科学」が考察の対象としているのは、「法(Recht)=正義」の「概念(Begriff)」、およびこの概念が現実に具体化してゆくその過程であることを明らかにする。

この節の中の補注で、ヘーゲルはイデー(理念)を概念と言い換えている。科学の対象である概念は、普通に人々が考えているような「悟性規定」ではなく、この概念は現実において具体化して行くものである。この概念をわかりやすく説明するために、ヘーゲルは心と身体をもった人間という表象にたとえる。概念が人間の心であるとすれば、概念の具体化されたものが身体にほかならない。

心も身体も同じ一つの生命ではあるが、しかし、心と身体は区別されてもいる。

またさらに、概念とその現実化、具体化を種子と樹木にもたとえている。
概念とは樹木の全体を観念的な力として含んでいる萌芽(種)であり、それが完全に具体化されたとき、現実の樹木全体になるのである。人間の概念は心であり、樹木の概念が種子である。

それに対して、法の概念は自由であるとヘーゲルは言う。そして、この法の概念である自由が具体化され実現されたものが、現実の国家であり憲法であり民法や刑法などの法律の体系である。ヘーゲルの「法の哲学」は、この自由の概念が具体化され必然的に展開されてゆく過程そのものを叙述し論証してゆくものである。

やはり、ここで注意しなければならないのは、ヘーゲルにおいては「概念」という用語が、普通に一般の人たちに使われているような「単なる悟性規定」の意味ではなく、概念が、やがて萌芽から樹木全体にまで進展してゆく可能性を秘めた観念的な種子として、理念と同義に使われていることである。

そして、それが現実に具体化されて存在と一つになった概念、それが理念である。だから理念とは単なる統一ではなく、概念と実在の二つが完全に融合したものであり、それが生命あるものである。

 



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短歌日誌

2008年04月10日 | 日記・紀行

2008年4月10日(雨)

短歌日誌

少しでも晴れ間が見えれば散輪にでも出て、きのう夕闇のなかで見た小畑川沿いの桜並木をデジカメにでも収めておこうかと思っていたけれど、晴れ間どころか終日かなり強い雨になってしまった。

一月は行ってしまい、二月は逃げてしまい、三月も去ってしまう。
先月、小野小町について調べて小さな文章に書いたこともあり、三月末には小野の随心院で催される「はねず踊り」を是非に見に行こうと思っていた。しかし、行きそびれてしまった。

伏見醍醐寺の向こうぐらいで、自転車で出かけようと思っていたのに、実際に確認してみるとかなりの距離がある。それだけ時間的な余裕を見ていなければならないのに、随心院までは勘違いで時間の計測を間違っていた。
年に一度の舞台を見落としてしまうと、来年まで待たなければならない。

団地や川岸、町家の軒先などに今年も忘れることなく桜は訪れて咲いている。しかし、まだ今年は桜の名所といえるようなところには行っていない。なぜか気もはやらない。昨年の春に勝持寺で見た桜が本当にきれいだったことを思い出す。
もし、晴れ間がみえれば、まだ一度も訪れていない十輪寺でもせめて行ってみようかと思う。在原業平のゆかりの寺である。桜も間に合えばいいけれど。出来れば小さな「紀行文」にでも書き残しておこうと思う。

もともとこのブログは、日記や紀行を記録して行くつもりで開設したはずだった。それなのに、つい堅苦しい?非哲学的な国民の間にあって、ほとんど誰も興味を持たないような哲学ノートや政治評論まがいの文章でも何でもかでもみんなかまわず放り込んでしまっている。

やはり初心の通りに、このブログは日記や紀行に近い形により戻してゆこうと思っている。ただそれでも音楽やドラマ、映画などだけでなく、政治や経済などの問題などについても気にとまることなら何でも、簡単な感想の覚え書き程度には記録して行くつもりでいる。

そうすれば、もともとのテーマである「作雨作晴」に「日々の記憶」の役割も果たしてゆける。研究ノートや論文などは、目録程度にこの日記には記録しておけばよいと思う。もし万一興味や関心をもたれる人がおられれば、そちらのブログで読んでもらえばいい。そうして行けばこのブログも日記や紀行文としてまとまった体裁に戻るはずだ。

また、たとえどんなにつたないものであるとしても、日々の思いや記憶を「短歌」の形にして残してゆくことにはそれなりに意義のあることは分かった。もともと、西行などの短歌には趣味があったし、短歌を作ることにもまったく興味がなかったわけでもない。最近の記事を読んでいただいている方はお気づきだと思うけれど、恥をも省みず短歌もどきものを載せ始めている。

小野小町考の文章を書いている時、ネットで古今集について偶々調べていて、遼川るかさんとおっしゃる女流歌人のサイトに出くわした。彼女は現代に万葉調の歌風をめざしておられる方である。それ以来、訪れては読ませていただいている。その影響もあるかも知れない。

そんなこともあって、何とか自分でも作ってみることにした。実作によってより深く鑑賞できることも分かった。感情や詩想の開発にもそれなりに意義のあることも分かった。それで、遼川るかさんに倣って私も「短歌日誌」として日記と並行して記録して行こうかと思っている。

時間や推敲に余裕がなく、ろくでもないものしか作れないだろう。それでも継続してゆくことで、無味乾燥な哲学の片時に、芸術の片鱗の潤いを見出せるかも知れない。手遊びで十分だ。

昨夜は珍しく寝つきが悪く、そのうえ夜中に眼を覚ました。めったにないことである。

[短歌日誌]

軒に降りしきる雨音強まりて深夜に目が覚める

雨垂れ  強く音なふて  目覚めし昔の罪に  胸ふたがる

救うべき  十字架もなし  淵に沈みし   
                       恋しき撫子らの   面影そらに見て

 

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