白峯と申しけるところに、御墓の侍りけるに まゐりて
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よしや君 昔の玉の ゆかとても
かからん後は 何にかはせん
同じ国に、大師のおはしましける御辺りの山に、庵結びて住みけるに、月いと明かくて、海の方曇りなく見えければ
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曇りなき 山にて海の 月見れば
島ぞこほりの 絶え間なりける
讃岐の国の白峯という所にお墓がございましたので、お参りして
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あなたがたとえ かっての昔に玉座にお座りになっていたとしても
このようになって仕舞われた後になっては それが一体何になりましょうか
同じ讃岐の国に、弘法大師さまがお住まいになっていた御辺りの山に、私も庵を結んで住んでいたところ、ある夜月がとても明るくて、海の方も一点の曇りもなく見えましたので
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かって弘法大師のお住みになっていた清らかな山の上から、はるか彼方に海から上がってくる曇りなき月を見ると、ちょうど瀬戸内の島々が、海に一面に敷きつめられた氷の、その切れ目になっているように見えます
西行のこの和歌には、歴史的にも深刻な事件が背景にある。讃岐の白峯というところの墓に葬られているのは崇徳院で、いわゆる保元の乱(1156年)に敗れた院の配所となった土地である。崇徳院もまた和歌をよくし京都では西行とも少なからぬ因縁があった。白峯で崇徳院の崩御されたことを知った西行は、院を弔うために讃岐の地を訪れる。讃岐はまた西行の尊敬して止まない弘法大師、空海の生まれ故郷でもあった。