作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第四十二節[理論的な教養について]

2022年02月12日 | 哲学一般

 

§42

Zur theoretischen Bildung  gehört außer der Mannigfaltigkeit und Bestimmtheit der Kenntnisse und der Allgemeinheit der Gesichtspunkte, aus denen die Dinge zu beurteilen sind, der Sinn für die Objekte in ihrer freien Selbstständigkeit, ohne ein subjektives Interesse.

第四十二節[理論的な教養について]

理論的な教養 にとっては、その知識が多様であり確実であることと、そして、物事を判断する観点が普遍的であることの他には、対象物に主観的な利害をもち込むことなく、それらを自由に自立してあるがままにおいて見つめる精神が必要である。


Erläuterung.
説明.

Die Mannigfaltigkeit der Kenntnisse  an und für sich gehört zur Bildung, weil der Mensch dadurch aus dem partikulären Wissen von unbedeutenden Dingen der Umgebung zu einem allgemeinen Wissen sich erhebt, durch welches er eine größere Gemeinschaftlichkeit der Kenntnisse mit andern Men­schen erreicht, in den Besitz allgemein interessanter Gegen­stände kommt.

知識が多様であること は本来的には教養に属している。それによって人間は身の回りにある取るに足らないものについても特定の知識を普遍的な知識へと高めるからである。この普遍的な知識によって人間は他の人間と共に知識の一つの偉大な共同性を実現し、普遍的なより価値のある 対象を手に入れる。

Indem der Mensch über das, was er unmittelbar weiß und erfährt, hinausgeht, so lernt er, dass es auch andere und bessere Weisen des Verhaltens und Tuns gibt und die sei­nige nicht die einzig notwendige ist. Er entfernt sich von sich selbst und kommt zur Unterscheidung des Wesentlichen und Unwesentlichen.

人間は自分が直接知っていることや経験していることを超えて進むにつれて、態度や行動についてもなお他により良い方法があることを学び、自分のやり方だけが唯一で必然ではないことを学ぶ。人間は自己を自分自身から突き放して、そうして本質的なことと非本質的なこととを区別するようになる。

— Die Bestimmtheit der Kenntnisse  betrifft den wesentlichen Unterschied derselben, die Unterschiede, die den Gegenständen unter allen Umständen zukommen. Zur Bildung gehört ein Urteil über die Verhältnisse und Gegenstände der Wirklichkeit. Dazu ist erforderlich, dass man wisse, worauf es ankommt, was die Natur und der Zweck einer Sache und der Verhältnisse zu einander sind. Diese Gesichtspunkte sind nicht unmittelbar durch die Anschauung gegeben, sondern durch die Beschäftigung mit der Sache, durch das Nachdenken(※1)über ihren Zweck und Wesen und über die Mittel, wie weit dieselben rei­chen oder nicht.

⎯⎯⎯⎯ 知識の確実性は、本質的な違いそのものに関わっている。その違いはあらゆる状況のもとにあるさまざまな対象に生じている違いである。現実のさまざまな関係と対象についての判断は教養に欠かせない。そのためには、事物の本性と目的が何であるか、そして、それらが相互にどのような関係にあるのかが重要であり、そのことを人が知ることが必要である。この観点は直観を通して直接に与えられるものではなく、事物について深く研究することによって、また事物の本性と目的について追考することによって、そしてその方法がどこまで有効であるか否かを追考することによって与えられるものである。

Der ungebildete Mensch bleibt bei der unmittel­baren Anschauung stehen. Er hat kein offenes Auge und sieht nicht, was ihm vor den Füßen liegt. Es ist nur ein subjektives Sehen und Auffassen. Er sieht nicht die Sache.(※2) Er weiß nur un­gefähr, wie diese beschaffen ist und das nicht einmal recht, weil nur die Kenntnis der allgemeinen Gesichtspunkte (※3)dahin leitet, was man wesentlich betrachten muss, oder weil sie schon das Hauptsächliche der Sache selbst ist, schon die vorzüglichsten Fächer derselben enthält, in die man also das äußerliche Dasein, so zu sagen, nur hineinzulegen braucht und also sie viel leichter und richtiger aufzufassen fähig ist.

教養のない人間は、直観のもとに立ちとどまっている。彼は開いた目をもっておらず、足下に何があるのかも見えない。それはただ一つの主観的な見方であり理解でしかない。彼には事物が見えない。事物がどのようになっているのか彼は知らないし、また、それが正しいのか否かおよそのことを知るのみである。なぜなら、普遍的な観点についての知識のみが、人は何が本質的であると見なさなければならないか、あるいは、なぜそれがすでに事物の核心そのものであるのか、を教え導くものだからである。すでにもっとも重要なカテゴリーそれ自体は、外部のそこにある存在と同様に人間のうちに含みもっており、そうしていわば、外にあるその存在をただそこに取り込む必要があるだけである。したがってそれはとても容易に、かつより正確に把握することができる。

Das Gegenteil davon, dass man nicht zu urteilen weiß, ist, dass man vorschnell über Alles urteilt, ohne es zu verstehen. Ein solch vorschnelles Urteil gründet sich darauf, dass man wohl einen Gesichtspunkt fasst, aber einen einseitigen und da­durch also den wahren Begriff der Sache(※4), die übrigen Gesichts­punkte, übersieht. Ein gebildeter Mensch weiß zugleich die Grenze seiner Urteilsfähigkeit.

人が判断するとはどういうことであるかを知らないことの反対は、人がそれについて理解することもなく何でもかんでも軽率に 判断してしまうことである。このような軽率な判断は、確かに一つの観点を取りはするが、しかし、それは一方的な観点であり、だからそのことによって事柄の真の概念を、他の観点を見落としてしまうという事実に基づいている。教養ある人間は同時にまた自身の判断能力の限界も 知っている。

Ferner gehört zur Bildung der Sinn für das Objektive in seiner Freiheit. Es liegt darin, dass ich nicht mein besonderes Subjekt in dem Gegenstande suche, sondern die Gegenstände, wie sie an und für sich sind, in ihrer freien Eigentümlichkeit betrachte und behandle, dass ich mich ohne einen besonderen Nutzen da­für interessiere. — Ein solch uneigennütziges Interesse liegt in dem Studium der Wissenschaften, wenn man sie nämlich um ihrer selbst willen kultiviert. Die Begierde, aus den Gegenstän­den der Natur Nutzen zu ziehn, ist mit deren Zerstörung verbunden.

 さらに教養には、自由に客体に対する 精神が必要である。それは、私が諸対象のうちに私の特殊な主観を求めるのではなく、そうではなくて諸対象が本来あるがままに、それらを自由に固有性にあるがままに考察し取り扱い、そこに私の特殊な利害を 何ら持ち込むことなく関わるということ、である。⎯⎯ 科学の研究には、こうした利他的な関心がある。というのも人は科学研究それ自体のために科学を研究するからである。自然の諸対象から利益を引き出そうという欲望は、自然の破壊と結びついている。

— Auch das Interesse für die schöne Kunst (※5)ist ein un­eigennütziges. Sie stellt die Dinge in ihrer lebendigen Selbst­ständigkeit dar und streicht das Dürftige und Verkümmerte, wie sie von äußeren Umständen leiden, von ihnen ab. — Die objektive Handlung  besteht darin, dass sie 1) auch nach ihrer gleichgültigen Seite die Form des Allgemeinen  hat, ohne Will­kür, Laune und Caprice, vom Sonderbaren u. dgl. m. befreit ist; 2) nach ihrer inneren, wesentlichen Seite ist das Objektive, wenn man die wahrhafte Sache selbst zu seinem Zweck hat, ohne eigennütziges Interesse.(※6)

⎯⎯⎯⎯ 芸術に対する関心もまた非利己的なものである。芸術は生き生きとした自立性のうちに物事を描写し、外部にある環境につきまとっている粗末さや不完全さを物事から取り除く。⎯⎯⎯⎯ 客観的な 行為とは、1)その取るに足らない面についてもまた普遍的な形式を もち、恣意や移り気や気まぐれなどがなく、それらが気をてらったものから解放されていること等々、;2)その内面的で本質的な面についても、人が真実な事柄そのものを 自己の目的としてもち、そこに何ら利己的な利害をもちこまないなら、客観的である。

 


(※1)
das Nachdenken(追考)
「理論的な教養」を主題にした本節において初めて出てくる。事物をあるがままに考察する上で、またヘーゲル哲学の姿勢と方法をしめす根本的な用語。人間の反省する能力による。

(※2)
die Sache(事物、事柄)

das Ding 物 とちがって、die Sache(事物、事柄)には、「das Ding 物」を本質の面から、または「客観的に存在する概念」として把握する性格が強い。

(※3)
die Kenntnis der allgemeinen Gesichtspunkte(普遍的な観点についての知識)
das Hauptsächliche der Sache selbst(事柄、事物そのものの核心)
die vorzüglichsten Fächer derselben(もっとも重要な部門それ自体)
これらの説明は、カントのカテゴリー表などを念頭においたものである。

(※4)
den wahren Begriff der Sache
「事柄についての真の概念」を捉えるためには、事柄のうちに対立する二つの、あるいはそれ以上のさまざまな観点から判断する必要があること。

(※5)
芸術の本質が簡潔に説明されている。

(※6)
理論的な教養にとって本質的に重要なことは、認識の対象に「主観」を持ち込むことなく、事物をあるがままに客観的に把握することであるが、そのために必要な根本的な精神、心構えが述べられている。理論的な教養を積むことは自己に対する第一の義務である。

 

ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第四十二節[理論的な教養について] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/EUE5VV

 

 


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