作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

今年もまたクリスマス

2009年12月25日 | 日記・紀行

 

今年もまたクリスマス

今年は残念ながらクリスマス・イブの12月の24日にブログ記事を投稿できなかった。また、送るべき多くの人にクリスマスカードを送って、ご挨拶することもままならなかった。毎年、年を経るごとに、不義理、わがままの度が強まってゆくような気もする。

これまで2005年に記事の投稿をはじめてからも、クリスマスに投稿を欠かしたことはない。今年は余裕もないけれど、かろうじてクリスマスに間に合うように、やっつけ仕事のように記事をとにかく作成。最近は聖書の繙読さえもおろそかになっている。聖書詩篇の註解もほとんど中断したままになっている。主よ、許したまえ。

12月に入り、年末が近づくと、近年になって町中にイルミネーションの明かりが目立つようになった。夕暮れや夜間に、町中を歩いていたり、自転車で走っていると、とくに、最近では発光ダイオード(LED)の普及によるせいか、鮮明な色彩のクリスマスの飾り付けが至るところに見られる。

ひと昔は遊園地や教会やイベント会場などの場所に限られていたクリスマスツリーなどの明かりも、最近は普通の民家でも飾り付けられるようになってきた。それだけに、キリストのご降誕祭が日本国民においてもすでに完全な国民的な行事になったということなのかもしれない。

イエス・キリストの真実の誕生日はわかってはいない。だから、その日は永遠に隠されたママなのだろう。しかし、マリアを母として誕生日のあったことはまちがいのないことなのだから、象徴的な一日を選んで、そのご降誕を祝うのはかならずしも悪いことではない。ある宗派のように、お誕生日がわからないのだから、クリスマスを祝わないというまで「偏狭」でなくともよいと思う。主の苦難の十字架のその道行きに、三十数余歳の御生涯が象徴されているように、主イエス・キリストの短い一生は愛と犠牲そのものだった。その苦難と忍耐は、主のすべての弟子に受け継がれている。

今年になっては京都国立近代美術館において、12月27日までボルゲーゼ美術館展が開催されている。おそらく今度も鑑賞の機会も逃してしまうにちがいないが、この展覧会にはマドンナの肖像画で有名なラファエロの「一角獣を抱く貴婦人」も飾られているという。わが国にはすでに滝廉太郎のようなクリスチャン音楽家は生まれているが、画家についてはまだ知らない。しかし、いずれはこの非キリスト教国日本にも、ラファエロのようなクリスチャン画家も生まれてくるのかもしれない。

ブログ上の交流でも私の不精のゆえにさほど深まったとは言えないけれど、hishikaiさんやmatubaraさんやpfaelzerweinさんのブログには折りに触れて訪れている。とくに今年になっての菱海孫さんとのブログ上の交流は楽しかった。少なくとも氏のように思想的に哲学的に近い(私の独断と偏見か?)ブログ上の論者を発見できたことはうれしい。私もまた僭越にも、ブログでも少なくともなにがしかの思想なり哲学を主張している。今後も言論の立場から私なりに終生国家に貢献してゆきたいとは思っている。

21世紀に入って隣国中国の台頭に比べて、日本国の衰退の傾向は著しいが、やはりその根源は人材の枯渇にあるのだと思う。第二次世界大戦における大日本帝国の敗北とマッカーサーGHQの占領政策がボディブローのように効き始めているということか。しかし、ポーランド、ハンガリーなどに見るように、真実のキリスト教民族、キリスト教国家に亡国の運命はまだ聞いたことはない。

退廃した自民党に代わって政権交代を果した民主党の小沢一郎氏は、今、明仁天皇のご意思も左右する小沢新天皇として権力の絶頂を極めつつあるように思える。かって小沢一郎氏は、高野山で金剛峯寺の松長有慶会長と会談したときも記者団に対して、「キリスト教は排他的で独善的な宗教だ。キリスト教を背景とした欧米社会は行き詰まっている」とのたまうたそうだ。この一言に、小沢一郎氏の「思想と哲学と人物」の水準とその「罪と罰」が明らかになっている。

欧米社会と日本国のどちらが行き詰まっているか、私にはよくわからないけれども、選挙で多数を得るためならどんなことでも言うようなキリスト教嫌いの小沢一郎氏が、中国や韓国などにご拝謁と贔屓とを賜るために、くれぐれも国を売ることのないように願いたいものである。

                                    
バッハはその音楽創作でプロテスタント国家とキリスト教化に貢献した。今夜のクリスマスの楽曲としては、久しぶりにマタイ受難曲の片鱗でも聴いてお茶を濁すことにしよう。せっかくバッハ全集を所有しているのに、鑑賞と論評に能力の余裕のないのは残念なことではある。だけれどもそれも先の楽しみとして、またここでお得意の言い訳をする。

今年のクリスマスの宵をともに過ごすことの出来なかった人、友人たちに、お詫びを込めて、また、とにかく曲がりなりにも平安のうちにクリスマスの夜を迎えることのできたことに感謝を込めて、この拙記事でご挨拶を送ります。

皆さん、クリスマスおめでとう。

 

Contralto Eula Beal sings Bach's "Erbarme Dich"
http://www.youtube.com/watch?v=gIdNBgyC88o&feature=related

 Contralto Eula Beal sings Bach's "Erbarme Dich"

 


コメント (4)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 山の恵み | トップ | 一年を振り返る »
最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
盛んな議論がなされること (pfaelzerwein)
2009-12-26 08:38:01
遅れ馳せながら、楽しいクリスマスをお過ごしのことと思います。

昨今の日本の政局の展開をみていますと、やはり此方で議論となっていたような本質的な問題が問われていることがよく分かります。少なくとも、停滞するよりは盛んな議論がなされることで、逆行はありえないと思いますが、如何でしょう?
返信する
Unknown (matsubara)
2009-12-27 13:27:23
おそがけですが、
Merry X'mas!

先ごろのクリスマスコンサートでヴァイオリニストから聞いたことですが、バッハは全ての楽譜に、作曲し終えると「神に栄光」と書き加えていたようです。


返信する
政治の概念論を ()
2009-12-29 15:39:33

pfaelzerweinさん、今日は。わざわざコメントいただきましてありがとうございました。クリスマスの日々の周辺の雰囲気は貴ブログから伝わっていました。

東アジアでの中国の台頭と日本の「没落」は、欧米人の目にはどのように映じているのでしょうね。その片鱗もpfaelzerweinさんのブログ記事からも伺われますが、語学力と時間に能力的余裕がないので、せっかくのネット時代だというのに、欧米の論調を原文で読み解析することもかなわないでいるのは残念なことです。あと2、3年もすれば集中できるようになるのかもしれませんが。それでもあと2、3年、それで済めばいいのですが。また、お得意の言い訳です。

近頃はアメリカ嫌いの小沢一郎氏が表舞台に出始めて、日本のアメリカ離れを、――――と言うよりは、アメリカの日本離れを加速させています。いずれは、日米安保条約の解消も、地平の彼方に上ってくるとは思いますが、まだまだ時期尚早でしょう。小沢一郎氏の共産中国への傾斜は、はなはだ無防備で危ういと思います。

おっしゃる通り、古いゾンビ自民党の逆行と復活を許してはならず、その廃墟から、新自由党の新芽を育てるべきなのですが、そのためにも、政治の本質論が、あるいはその概念論が必要なのですが。

なにごとも上滑りの日本では現象論の政局政治が一般で、政治の本質論が深まりません。それゆえラディカルな変革は起こりえず、いつも上滑りで、堂々巡りで、いつか来た道に立つことになっています。

政治の現象論については、それにふさわしい有象無象の評論家がいますから、彼らに任せておけばいいのですが、残念なことに、今日の日本のアカデミズムのどこに、新しい時代の日本を指導できる本質論を展開する学者、思想家、哲学者はいるでしょうか。浅学にしていまだ知りません。いれば教えて欲しいと思います。

それ故に、日本の政局は浅瀬のあぶくのように、うたかたのように、はかなくあてどもなくさまよい流動するばかりです。本質的な論議を欠いた日本政治は、いつでも逆行する可能性は残ります。気がつくと、またいつか来た道です。


返信する
バッハの解釈したキリスト教 (そら)
2009-12-29 16:01:18

matsubaraさん、お久しぶりです。

今ごろ主婦としてお忙しい年末を過ごされておられるのでしょうね。

クリスマスには、コンサートを堪能されたようで。バッハの歌曲もそこで聴かれたのでしょうか。バッハとキリスト教の関係も深いものがあるのかもしれませんが、また、それに興味もありますが、しかし、バッハの宗教音楽は単なる宗教を越えたものがあると思います。

返信する

コメントを投稿

日記・紀行」カテゴリの最新記事