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フォト・リテラシー 戦争への視線

2009年07月04日 | 学習ノート
今橋映子著『フォト・リテラシー―報道写真と読む倫理 』(中公新書・2008年)

「フォト・リテラシー」という言葉は何だか聞き慣れない。これについては、次のような意味をもつと整理できる(8頁参照)。

  (1)写真(とくに報道写真)を芸術的・社会的文脈で分析・評価できる力
  (2)分析・評価の知識や倫理をもって問題への認識を高める力

より広い概念である「メディア・リテラシー」は(1)のうち社会的文脈での分析力を言うことが多い。写真は芸術性を兼ね備えているため、芸術的という視角が加えられている。また、(2)は情報の送り手だけでなく受け手の側の倫理性の問題で、あまり強調されないがメディア・リテラシーの概念に当初より含まれているとのことだ。

そして、本書は(1)に対応するものとして第1部・第2部(第1章~第6章)が充てられており、構造主義的ではなく歴史的な観点から様々な問題が取り上げられている。「写真が事実をありのままに映している」という思い込みに対して、報道写真成立史から「制作物」としての側面があることを示す。また、日本の報道写真雑誌や写真集の歴史を丁寧にみていくことで、芸術と報道をはっきりと分けることができないということを指摘する。

続いて(2)に対応するものとして第3部(第7章~第9章)が割り当てられており、大きく3つのテーマを扱っている。第7章は主に撮る側の倫理の問題を、報道写真の大家の作品にオリエンタリズムがないのか、ヒューマニズムを標榜する作品にアメリカ的普遍主義の宣伝が含まれていないか、後の写真史の展開とともに考えさせる。第8章は見る側の倫理の問題として、衝撃的な写真を見て見る側は何か行動するのか、しないとして写真は無意味なのか、とソンタグのサルガド評を題材に考えさせる。第9章は写真が写しきれていない事柄をどのように表現するのか、ホロコーストの表現の仕方を題材に考えさせる。

以上のような本書の本筋を離れても、紹介される写真家の様々な試みは非常に興味深い。例えば、パリからヴェネツィアまで面識のない男性の後を尾行して後姿を淡々と撮影した写真集があるらしい。文字で見るだけでもスリルを感じる。個人的には、防犯カメラの映像を組み合わせてある男女の恋の成就の過程を描写する作品があったら監視社会というテーマも入って面白いな、と何年も前から思っているのだが(締めの言葉は「大丈夫、カメラはあなたの大切な思い出を記録しています」なんて)、実際に同様の作品は出ているのだろうか。

実は私、教養課程時代に著者の講義等を履修し、この本の生成過程の一部を目撃している。当時の配布物等を改めてみると、本書で紹介されているテーマや具体例を豊富に見つけることができる。浅学非才な私はそれらを体系的に理解することができず、この本を読むことでようやく復習をなすに至る。ということで、これからの記述は、数年遅れの簡素で出来の悪いレポートのようなものである。


報道写真の構図

まず(1)写真の分析・評価について、自己流の鑑賞の仕方をまとめることにする。本来ならテクスト論とか勉強してから専門的に論じたいが、法学の方角に進んでしまったため一般人の感想にとどまる。とりあえず下の画像は、全体像を図に表したものだ。



まず、「報道」写真という特性として、写真を制作するのは被写体自らでなく中間者(編集者+撮影者)であるという点がある。見る者は基本的に中間者が撮った写真を通してしか、被写体について情報を得ることができない。また、被写体も自らの意図を中間者の意図より強く反映させることができない。とりわけ「決定的瞬間」を謳う作品では被写体はポーズをとる権利すら与えられていない。横を通る大きな矢印はこのことを表現したものだ。

そして中間者の意図が反映する要素として主なものを挙げると、次のようになる。

  構図と対象選択:例えば、戦争で兵士と市民のどちらを見るか
  色合い:ポジティブな印象を与えるか、逆か
  カラーかモノクロか:事実を強調するか普遍的なテーマを求めるか
  キャプション(説明文):写真の中のどの部分を注目してもらいたいか等
  組写真での配置:時系列やテーマの流れの中で読んでもらう
  記事:報道の雑誌では記事の主張が主体となり写真は従属的

中間者には撮影者と編集者があり、力関係が媒体によって異なってくる。個展は基本的に撮影者の意図を大きく反映させることができるが、媒体力の強い新聞や雑誌は編集者の意図がほとんどである。写真集は撮影者が主体となれるが、編集者の力も強い。本書でも、ユージン・スミスの名作「スペインの村」が撮影者の政治的意図を編集者が骨抜きにして写真の選択や配置を変更し、撮影者が「失敗作」と述べていると紹介されている。

編集者による作為は予想以上に大きいもので、誤りも導いている。『戦争広告代理店』では、ユーゴ紛争でナチスを模した収容所・民族浄化の証拠として用いられた写真はスクープ欲しさにあまり関係ない写真を新聞が大きく取り上げた、ということが指摘されているし、本書でも、ウクライナでの処刑場に連行される人たちの写真がポーランドのナチスの収容所のガス室に連れて行かれる写真として扱われているなど、途方もない間違いの指摘が紹介されている。

以上が撮影者と編集者からの写真への矢印の構図である。これに本書で紹介される写真史的な知識を加えてみれば、一応完成されるだろう。以上のような「制作物」としての作為性を見る者がすべて見抜き、真の正解に辿り着くというのは不可能である。ではこういう分析は無意味かというと、「証拠写真」として安易に飛びつく態度を避け、慎重さをもって視線を投げかけるというだけでも十分な意義があるだろう。この構図を念頭に置くと、鑑賞の手助けにもなる。先日何年かぶりに世界報道写真展に行ったので、別記事で実際の報道写真を素材として感想を書いてみたいと思っている(【追記】感想記事はこちら)。


戦争への視線

続いて、(2)倫理の側面として、第8章のソンタグのサルガド評から戦争写真のあり方について考えてみたい。サルガドは、有名な報道写真家であり(作品例:googleイメージ検索)、大規模な写真プロジェクトを立ち上げ、圧倒的なスペクタクルと目を背けたくなる悲惨な現実を共に伝えるような表現をしている。一方、ソンタグはアメリカの女性批評家で、『写真論』といった写真に関する著作で有名であった(故人である)。

ソンタグはサルガドの作品について、「人間家族」といった神聖めいたテーマの下で原因も種類も異なる数多の悲惨をひと括りにし、見る人の関心を引くかもしれないが壮大すぎて何をしても状況を変えることができないという無力感を与え、抽象的な印象にしかならない、と批判する(196頁)。その現われとして、作品のキャプションで被写体となった者の名前を付さない点を鋭く指摘する(ちなみに、被写体に密着取材し被写体の名前もよく記す写真家としては長倉洋海氏がいる)。私もサルガドの「ESSAYS」展に足を運び、モノトーンで濃淡を操作して制作している点に普遍性を強調したい意図があるのでは、といったレポートを書いた憶えがある。

普遍性と壮大なスケールを強調する写真はかえって見る者に働きかける力が弱いのではないか、この指摘には納得できる部分が多いだろう。例えば、太平洋戦争での原爆被害の衝撃が大きく兵器を悪とし戦争を絶対悪とする日本的な考え方は、あまりにも大きな相手を設定するので(兵器の廃絶は、自発性に委ねると囚人のジレンマで正直に放棄した者がつけこまれる状況にあり、全ての国が同時に放棄する以外には「刀狩り」をするしかない)、かえって戦後生じた様々な戦争に対する抑止・防止のための具体的な行動が諸外国ほど活発でなかった(特にイラク戦争)、と言うことができないだろうか。

現在は、巨大な国民国家同士が存亡を賭けて争う戦争は起こっておらず、市街地への無差別な絨毯爆撃も行われることがない。ホロコーストの教訓は宥和政策でこの悲惨な状況を放置したことへの反省であり、正義の戦争をかきたてるものであるとの理解も十分でない(参考:藤原帰一『戦争を記憶する』)。正義の戦争がありうるとした上で実利のために大義を捏造する人たちがいるという問題、テロという非国家組織を相手にしないといけないという問題、こうした現代特有の個別の問題点が捨象されてしまっているように思える。

このような状況に照らせば、個別具体的に戦争や紛争の原因や背景を丹念に調べ上げ、解決策を想起させるような表現方法のほうが有効だと考えられる。もっとも、サルガドのような普遍的なスペクタクルは完全に無意味と言うわけではない。本書でも紹介される池澤氏による評で、美しいが故に深く記憶に残るのではないか、という指摘がある(200頁)。深く残る記憶は、人々に関心を向けた上で永久的に留める力をもつというのだ。

この点について、私は、スペクタクル写真にはより強い力が秘められていると思う。深く胸に突き刺さった悲惨な光景は、解決を探り具体的な行動をしていて壁に突き当たったとき、心を折らず、諦めずにもう少し頑張ろう、と駆り立てる力を提供する。一度取り掛かった人類の大仕事を成し遂げる心の支えとなるのだ。その意味で、サルガドの写真には、無意味ではないと消極的な評価にとどまらず、やはり積極的な評価を与えてよいだろう。そして、具体性を追求する作品と協力し合えるものだと言えよう。


ということで、本書から一歩進めた指摘まで辿り着いたところで筆を置くとしよう。これは本書が扱った倫理的問題のひとつであり、他にも考える材料がたくさん含まれているので、興味があったら書店で手にとって、色々と思考を巡らせてみて欲しい。アフェリエイト始めたほうがいいかな?

※ないとは思いますが、くれぐれも不出来な先輩の感想文をレポートで丸写しなんてことはしないでね。


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