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八王子山公園(群馬県太田市)&栃木散策と"MYルーツを辿る"旅(1)

2019年01月18日 | 関東編(内訳)
1年半前の日帰り旅の記録です。足尾銅山のブログを作成していて思い出したのです。

2017年5月8日にイグニスの1ヶ月点検へ。往路で「八王子山公園(太田市北部運動公園)」の芝桜を見ました。一部は既に散ったようですが、まだ良い香りが致します。
 
東側の駐車場は、見学に便利で観光バスも入っていました。西側は花も人もボチボチ


点検を終えて帰路は、栃木市を探索しました。ここは「栃木県栃木市大平町西水代」。日光例幣使街道、元天領(徳川直轄地)で日光東照宮への参路です。西の富田宿は五町あった大きな宿場町。ご先祖は、西水代の入口に住んでおりました。

bn家は大正8年に大陸に渡ったのですが、明治時代の戸籍簿を持参、終戦時には持ち帰りました。戸籍簿本紙がありますので昔の住まいも調べられるのです。江戸末期の御先祖は"清兵衛"さんです。庄屋の下の組頭だったとか。

入口は橋は「千部橋」で、「橋供養」が建っておりました。享保10年(1725年)と彫ってあります。これは、橋を境界線と見立て、邪なモノが入らないようにする結界なのです。
 
元bn家の土地に建つので、江戸時代から先祖が見てきた物です。ちょっと感慨深いですね。小さい祠は、昭和6年とあるので今の橋の奴ですね。後ろに見える道は県67で、現在は「例幣使街道」と呼ばれる道です。この橋供養が建つ方が旧道です。

親父は先祖は山口県と言っていましたが、江戸初期にここまで歩けるとは思えません。ここは石高も優秀で栃木が栄えたベースです。しかも例幣使街道沿いの天領に、毛利の百姓など住まわせないでしょうね。普通に考えれば、「三河・尾張の山間の痩せた土地から百姓を引っ張て来た」と考えるのが精一杯です。故郷の百姓で街道沿いを固めれば、将軍の毎年の墓参りも安全です。

農業が駄目になったのは、足尾銅山の鉱毒です。田んぼが駄目になって、爺さんは職業軍人となりました。田んぼの横の永野川は、鉱毒被害を受けた渡良瀬川・巴波川(うずまがわ)の支流で遊水地から5kmは離れているのですが駄目だったようです。巴波川は明治以降も毎年のように氾濫しており、その影響も考えられます。小山・栃木から渡良瀬遊水地までは今でも洪水の多い場所です。

今度は母のを追うかな。仙台市若林区と福島の浪江町ですねー。

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2 コメント

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永野川 (いっせい)
2019-01-18 16:16:40
の橋は以前ロケ地で紹介されてましたね。27年9月の例の水害で形が変わってしまって残念です。
この辺りは巴波川にも昔の橋が残っていてツーリングがてら撮りにきています。
土地が低いので水害は多い処ですが風情が残っていて良い所ですよね~
この辺りの土手が菜の花に染まる季節に来るかも知れません
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鉱毒が無ければココで農業していたかもです (bn)
2019-01-18 18:51:58
TVに出たのですか!
周りは田んぼしかないですよね。しかし、こんな場所を良く知っていましたね。流石です。
橋って普通は全て掛け直すので、変だな~と思いました。古い部分を故意に残したのかも知れませんね。
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