西洋占星術でホロスコープを見ると、私たちの世代は冥王星が天秤座の時代の子。
つまり、正義やバランスについてもっとも公平であるかどうかを重視する世代。
(1971年〜1984年生まれまで)
誰にでも平等で公平であることを重視するあまり
カウンターで個人の欲望について強く言われると尻込みしてしまう世代でもあります。
まぁ占いの話は「あ、そう」って程度の前座噺なのでこの辺で置いておいて、
広く公共性を持ち、人々にとって最大公約数の善を求めることが
他の人にとっても良いことなのかどうか、
権利を貪りたい人が勝ち上がっていく世の中を見ていれば
”良いこと”など決して大多数の人が望んでいることではないことなど自明の理だよな
なんてシニカルなことを思ってしまうsachiakiです。
ニヒリストに染まれば虚無を知って虚無を操る幻惑使いになれるのか、
ついそんなことまで思ってしまいます。
偉大なる哲学の始祖も人が事象はただ壁に映る影に過ぎないといい、
悲喜交々な人生を劇として描き続けた劇作家も人生は歩く影にすぎない、と言っているし
本当のことなど分からないのだから影使いになって
見事に影絵を演じきれ……とでもいうのかもしれないけれど
その影絵は人々を欺き騙すようなものであってはならないよなぁ
なんてことをグールグールと考えているうちに
だんだん言いたかったことがなんだか分からなくなってきてしまいました。
と。
タイトルをつけていたのだから、その話をば。
とある人が歌舞伎町を歩いていた時に
とあるグループをみつけ、それが自分の知り合いだと勘違いしていたため
差し入れまで持って近づいていったら、全然知らない人たちだったのだけど
せっかくだからと差し入れをそのまま渡してみたところ
会話に加わることができたんだそうです。
そしてその会話が弾んでいた折、グループの中にいた女の子が
グループのリーダーのご機嫌を損ねることを言ってしまったようで
リーダー(身長2m近いガタイがいい黒人)に頭から顔を撫でるように
手を振り下ろされたそうで、その際メガネが引っかかって壊れてしまったそうなのです。
それを見た「とある人」が「メガネは弁償してあげるべきだ」と主張したところ
空気が変わり、リーダーに楯突いたということでイザコザになってしまったのだそうです。
かなり面倒なことになってきたので、「とある人」はコンビニに行くふりをして
派出所に向かったそうです。
そのコンビニに行くことについても不審に思ったグループの人間が
2人ほど付いて来てしまったため、イチャモンをその場でつけられ
曰く、「はじめから警察に駆け込むつもりだったのか?ア〜ン?」的な。
それでもひるまず警察にこんなことがあったと訴えてみたところ
なぜか「とある人」の方が加害者となり、
(イザコザの最中でグループの人同士が胸を叩くというパフォーマンスをしていたが、
それがのちに「怪我させられた」という訴えにもっていけるようの演出だったと知るには
あまりに「とある人」の人が良すぎたのです)
おまわりさんとしても状況を知るために話を聞いてみても
被害者である女の子はリーダーが怖いので「私は何もされていません」と言うし、
グループ同士で結託している被害については物的証拠もなにもなく
状況証拠だけで成り立ってしまうため、事実は無効になってしまいます。
こんな正義にももとる、最悪なグループがあるのはどこでも聞く話です。
だから「とある人」のしたことは正しいことだとしても
謝らさられるという屈辱を味わうしかなく、
大変遺憾であることも想像に難くありません。
ですが、ここから先のことについて、
正義もない場所で正義を行おうとするのは越権であると私は思っています。
正義のない場所で「誰かが犠牲になっている」ことが分かって、
その人に声をかけるところまではOK。
そしてその被害者自身がその場から離れたい、
ないしは抜け出したいのであるなら保護対象だと思うし、
それは正義の介入するところだと思います。
しかし、この場合クソッタレな状況であろうと
その野蛮で理性のかけらもない世界の方が居心地の良い人たちもいて、
その方が生きる道である人もいるのです。
ヘラヘラこびへつらい、人間性を捨て野蛮人として生きる。
その方が考えることが増えて絶望することにぶちあたらず
これもまた生存の知恵であると思われます。
例えば逆らうことのできない児童であれば
児童虐待で救う道もあります。
例えば高齢者虐待であれば、これも救う手立てはあります。
学校などのいじめ、いや暴行からの救済。
これも支援の道はだいぶ開けてきました。
それらの介入すれば生き延びる選択が増えるものについては
その正義を保って手を差し伸べることはできます。
彼らのような社会の外側にいるクソみたいな連中でも
もちろん救われなくてはならないと思いますが、
彼らには彼らの理があり、どこまで介入できるかは難しいところだと思います。
少なくとも、クリーンな社会を目指すばかりにドロップアウトをするしかなかった
不幸な人たちもそこへ流れつき、それなりに彼らのルールで生きていく。
そんな外側社会より、彼らのうちの誰かがまたこちらに戻ってきたいとした時
その時に暖かく迎えいれれば良いだけのことです。
むしろ、そういった時に受け入れることができない社会悪こそ
本来は是正されねばならない正義執行されるべき世界でもあるのかもしれません。
とまぁ、なんだか小難しく書いてみたけれど
私はスタートレック ディープスペースナインの話の中で
他星人の野蛮(と見える)な行いに介入した結果、
その星の人々が滅ぶ道しかなくなる諍いの種となってしまったというものがあり、
大局的な見方ができない限りその社会には介入すべきではない
ということを学んだのでした。
これは民主化を望むばかりに戦争へと突き進んでしまうロジックにも似てますね。
なにが正しいかなんて計り知れないものです。
だからこそ謙虚につとめ、自分の信奉する正義を時に疑い、
それでも正しさを求めるようにしていきたいものです。
私が思う正義については以上です。
屁理屈やなのでこれも正しいとは思っていないし、
自分が正義を語れるような正しい人間でないことも知っているし、
欲望から逃れられない欠点だらけなことも分かっているけれど、
ともかくうっかり正義の拳だ!と言って
しなくても良い争いの種を作ることがないように
それだけは肝に銘じておこうと思うのです。
そんな感じ。
こんな屁理屈ばかり言ってる私が今週末は「哲学地獄」なるイベントを
高円寺北口徒歩7分の場所にて行います。
お時間ある方、ぜひ遊びにいらしてくださいね。
モイモイ
イベント参加申し込みフォームはこちらです。>https://forms.gle/pX238SFB2gLyXn3B9
つまり、正義やバランスについてもっとも公平であるかどうかを重視する世代。
(1971年〜1984年生まれまで)
誰にでも平等で公平であることを重視するあまり
カウンターで個人の欲望について強く言われると尻込みしてしまう世代でもあります。
まぁ占いの話は「あ、そう」って程度の前座噺なのでこの辺で置いておいて、
広く公共性を持ち、人々にとって最大公約数の善を求めることが
他の人にとっても良いことなのかどうか、
権利を貪りたい人が勝ち上がっていく世の中を見ていれば
”良いこと”など決して大多数の人が望んでいることではないことなど自明の理だよな
なんてシニカルなことを思ってしまうsachiakiです。
ニヒリストに染まれば虚無を知って虚無を操る幻惑使いになれるのか、
ついそんなことまで思ってしまいます。
偉大なる哲学の始祖も人が事象はただ壁に映る影に過ぎないといい、
悲喜交々な人生を劇として描き続けた劇作家も人生は歩く影にすぎない、と言っているし
本当のことなど分からないのだから影使いになって
見事に影絵を演じきれ……とでもいうのかもしれないけれど
その影絵は人々を欺き騙すようなものであってはならないよなぁ
なんてことをグールグールと考えているうちに
だんだん言いたかったことがなんだか分からなくなってきてしまいました。
と。
タイトルをつけていたのだから、その話をば。
とある人が歌舞伎町を歩いていた時に
とあるグループをみつけ、それが自分の知り合いだと勘違いしていたため
差し入れまで持って近づいていったら、全然知らない人たちだったのだけど
せっかくだからと差し入れをそのまま渡してみたところ
会話に加わることができたんだそうです。
そしてその会話が弾んでいた折、グループの中にいた女の子が
グループのリーダーのご機嫌を損ねることを言ってしまったようで
リーダー(身長2m近いガタイがいい黒人)に頭から顔を撫でるように
手を振り下ろされたそうで、その際メガネが引っかかって壊れてしまったそうなのです。
それを見た「とある人」が「メガネは弁償してあげるべきだ」と主張したところ
空気が変わり、リーダーに楯突いたということでイザコザになってしまったのだそうです。
かなり面倒なことになってきたので、「とある人」はコンビニに行くふりをして
派出所に向かったそうです。
そのコンビニに行くことについても不審に思ったグループの人間が
2人ほど付いて来てしまったため、イチャモンをその場でつけられ
曰く、「はじめから警察に駆け込むつもりだったのか?ア〜ン?」的な。
それでもひるまず警察にこんなことがあったと訴えてみたところ
なぜか「とある人」の方が加害者となり、
(イザコザの最中でグループの人同士が胸を叩くというパフォーマンスをしていたが、
それがのちに「怪我させられた」という訴えにもっていけるようの演出だったと知るには
あまりに「とある人」の人が良すぎたのです)
おまわりさんとしても状況を知るために話を聞いてみても
被害者である女の子はリーダーが怖いので「私は何もされていません」と言うし、
グループ同士で結託している被害については物的証拠もなにもなく
状況証拠だけで成り立ってしまうため、事実は無効になってしまいます。
こんな正義にももとる、最悪なグループがあるのはどこでも聞く話です。
だから「とある人」のしたことは正しいことだとしても
謝らさられるという屈辱を味わうしかなく、
大変遺憾であることも想像に難くありません。
ですが、ここから先のことについて、
正義もない場所で正義を行おうとするのは越権であると私は思っています。
正義のない場所で「誰かが犠牲になっている」ことが分かって、
その人に声をかけるところまではOK。
そしてその被害者自身がその場から離れたい、
ないしは抜け出したいのであるなら保護対象だと思うし、
それは正義の介入するところだと思います。
しかし、この場合クソッタレな状況であろうと
その野蛮で理性のかけらもない世界の方が居心地の良い人たちもいて、
その方が生きる道である人もいるのです。
ヘラヘラこびへつらい、人間性を捨て野蛮人として生きる。
その方が考えることが増えて絶望することにぶちあたらず
これもまた生存の知恵であると思われます。
例えば逆らうことのできない児童であれば
児童虐待で救う道もあります。
例えば高齢者虐待であれば、これも救う手立てはあります。
学校などのいじめ、いや暴行からの救済。
これも支援の道はだいぶ開けてきました。
それらの介入すれば生き延びる選択が増えるものについては
その正義を保って手を差し伸べることはできます。
彼らのような社会の外側にいるクソみたいな連中でも
もちろん救われなくてはならないと思いますが、
彼らには彼らの理があり、どこまで介入できるかは難しいところだと思います。
少なくとも、クリーンな社会を目指すばかりにドロップアウトをするしかなかった
不幸な人たちもそこへ流れつき、それなりに彼らのルールで生きていく。
そんな外側社会より、彼らのうちの誰かがまたこちらに戻ってきたいとした時
その時に暖かく迎えいれれば良いだけのことです。
むしろ、そういった時に受け入れることができない社会悪こそ
本来は是正されねばならない正義執行されるべき世界でもあるのかもしれません。
とまぁ、なんだか小難しく書いてみたけれど
私はスタートレック ディープスペースナインの話の中で
他星人の野蛮(と見える)な行いに介入した結果、
その星の人々が滅ぶ道しかなくなる諍いの種となってしまったというものがあり、
大局的な見方ができない限りその社会には介入すべきではない
ということを学んだのでした。
これは民主化を望むばかりに戦争へと突き進んでしまうロジックにも似てますね。
なにが正しいかなんて計り知れないものです。
だからこそ謙虚につとめ、自分の信奉する正義を時に疑い、
それでも正しさを求めるようにしていきたいものです。
私が思う正義については以上です。
屁理屈やなのでこれも正しいとは思っていないし、
自分が正義を語れるような正しい人間でないことも知っているし、
欲望から逃れられない欠点だらけなことも分かっているけれど、
ともかくうっかり正義の拳だ!と言って
しなくても良い争いの種を作ることがないように
それだけは肝に銘じておこうと思うのです。
そんな感じ。
こんな屁理屈ばかり言ってる私が今週末は「哲学地獄」なるイベントを
高円寺北口徒歩7分の場所にて行います。
お時間ある方、ぜひ遊びにいらしてくださいね。
モイモイ
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