あも&サチアキの交換日記

どうやら交換日記が続いているようです(祝何年目?

ハクスリーの「すばらしい新世界」を読み終えた

2021-03-30 | from:sachiaki
ここのところ寝不足なのは、春の自律神経がイカれているからだけでなく
眠くて仕方ないからお布団に入ったのに眠れず
そんじゃいっちょ読書しますか〜といって読み始めたら
とても寝るなんてことができないぐらいのめり込んでしまい、
結局のところ自分が悪いんじゃん!ってなってたsachiakiです。

日曜日はこのご時世でウカウカ出かけている場合か?
ってなったけれど浅草までおでかけしていたよ。
なぜなら新コロちゃんに患って大変なことになるよりも
別ベクトルで深刻な自体だったので
これはイカンと小規模な友人とお出かけしてきたわけです。
あたしゃもう”自らこの世界からグッバイする人”を
もう一人も抱えられんってなってしもてるのですわ。
それこそ月初めに知ることになった
年若い友人の突然死のきっかけよりも先に
仲の良い友人を二人もなくし、
その時も相当なダメージを受けたのに
今回のことで予想以上のダメージを受けていることに気づいたので
これ以上は無理だ……ってなっているのです。

そんなおり、ちょっとしたきっかけで
ーユヴァル・ノア・ハラリの「21 Lessons」を読んだのがきっかけで
「すばらしい新世界」について気になったので
そういやこの古典SFを読んだことがないな〜って気づいたので
図書館で借りてきて、読み始めたら一気に引き込まれてたってわけ。

1932年という時代から考えると、たしかに未来を予知できていないな
っていう端々はあるものの、大きなストーリーとしては
ものすごくよく練られていて、さすがディストピア小説の双璧の一つ…と
背筋に衝撃が走りました。
あの時代の背景を考えると共産主義が台頭し、
「最大多数の最大幸福」というものがあり、
それを突き詰めて考えていくと
ああいったディストピアが成り立つのだろうな……とも思ったりしました。
曰く、みんなのものはみんなのもの
個人の幸福を成り立たせながら社会秩序を営むためには
バカとエリートという格差構造が必要なこと
しかしその構造に疑問を持たせない程度に胎児の頃から「条件付け」を徹底し、
あらゆる強い感情から逃れるために薬(ソーマ)を持ちうること。
人々は快楽のためと、考える時間となる”暇”がない程度には階層ごとの仕事があり、
宗教や美術からは遠ざかり、父母、恋人という概念がなく
いつでも好みの異性(この時代なので)を誘い
2週間以上は同じ人と付き合わないことを道徳化され
年老いることなく30歳以降はホルモンを整えたり
血液を入れ替えたりとシステム的に活発な時代のまま生きられる。
しかし高齢者があまりに多いと人口の入れ替えが起こらないので
肉体的には30歳でも中身的に60歳近くになると老衰が起こり
脳と心臓だけが歳をとって病院に収容され
収容されたあとも好きなだけ薬を含み、
いい匂いに包まれ、感覚だけを楽しむテレビを見続けることができ
恐怖を抱くことなく往生することができる世界となっています。

人によっては「それのどこが悪いの?」って思うのかもしれないけれど、
なんて気持ちの悪い世界なのだろう、と私なんかは思ったりします。
堕落した自分は高潔に生きることはできなくなってしまったけれど
それでも自分の頭で考え、自分の内側から出てくる言葉を紡げるように
あらゆる言葉や考え方を知りたい。
知的なものへの興味を失うことが良しとされる世界では
とても生きる場所がないなってゾッとしてしまうのです。
孤独になることや、辛い感情を持つことを許してもらえないなんて
とてもじゃないけれど耐えられない。
みんながみんな条件付けという脊髄反射で人に親切にすることを当然とし、
不快なことをされてもニコニコ笑いながら薬を含んで
お互いやり過ごすなんて、大きなお世話だってはね退けたくなります。
人に親切にする理由や人を愛する理由や
一つのつながりが強固であるからこその苦労などは
むしろ人生の彩りであるし、
それらがないなんて信じられません。
私たちには社会に対して疑問を持つことができるし
善良であることを当たり前としなくてもいい、
そういう世界であって欲しい。

そりゃ人々は善良であった方がいいのは間違いないけれど
それは誰かに押し付けられているものでない方が良い。
それは絶対に譲れない。

私たちは個人であって全体の一ではない。
いやもちろん、全体の一であることも承知しているし、
個人のためだけに全体があまりにも不利益を被るなんてことは
とても地球人・共同体として考えられない。
けれど全体の不利益になるようなことをしでかす人がいる権利
ぐらいは保障されててもいいんじゃないかしら。
もしその人が不利益を行使した場合、
その社会に対しての著しい損壊を招いたとしても
人間はそれらを乗り越えられるぐらいの知性はあるだろうし。

そりゃまぁ誰かのせいで自分が損するなんて
とても引き受けられるものでもないけれど。

ところでこの「すばらしい新世界」では
この管理された社会に対してのアンチテーゼとして
野人と呼ばれる「観察保護」の対象地域があり
そこでは比較的原始的な生活様式が残っている
ネイティブアメリカンな人たちや野生動物などが生きながらえています。
彼らは「野人」と呼ばれるだけあって
野性味あふれ残酷で獰猛な習慣などを持ち続けています。
そんな「野人」の中で一人の美青年がおり
その彼がこの「すばらしい新世界」について疑問を持ち
反抗的な立場を取るのですけれど
この彼がまたシェイクスピアの引用ばかりを持ち出し、
都合よく「神」や「崇高な理念」を持ち出して人々を断罪し
そればかりでなく、自分に好意を抱く娘さん(野人も一目惚れしてたのに!)に対して
「お前のせいで俺は堕落する!この淫売!売女め!あっちへ行け!」と暴力を振るうので
どちらの立場で立っても自分の頭で考えられない人間は
いやしくもヒドイことを簡単にするし、
それが素晴らしいことだと信じ込めるのだなぁなんて
憤然やるかたなしな気持ちにさせられました。

なんで怒っていたかといえば、
野人がなんとなく高貴なものの象徴として扱われているにもかかわらず
彼自身も人に対して「もっと自分で考えろ」と言うくせに
自分の言葉など持っておらず、全て引用ででしか喋っていないし
行動すらも宗教や習慣から逃れられず
人に対して押し付けているということに気づいていないからで
人と向き合うことを拒否したあげく自死を選ぶという最期にも
本当に腹が立って仕方がないのです。

あんまりに腹が立って仕方がないので
「素晴らしい世界」の直系と呼ばれている伊藤計劃の「ハーモニー」を読み始めました。
現代人の感覚で再解釈された「新世界」こと「ハーモニー」の方がピンとくるし
やはり伊藤計劃の頭の良さに惚れ惚れとしているところです。

とりあえず清廉であり厳格さを求められる僧侶の道を選んだ
「カラマーゾフの兄弟」アリョーシャがゾシマ長老に
「もっと世俗と交れ」と言われたところを読み返しているところ。
人は人と関わらずには生きていけないし、
そのためには、時にその清廉さが邪悪と同義であることを
きちんと知っていなければならないと私は思っているので
思い返しては「カラマーゾフの兄弟」の第二巻をなんども読み返してしまうのです。
人を愛するための宗教が、人を拒絶してはいかんよね。
そういうこと。

さて、久々の日記がアレな感じになってしまったので
そろそろやめにしようと思います。

アレな気分にさせてしまった申し訳なさの懺悔として
最近の私のお気に入りのウマ娘・ゴルシちゃんを置いていきます。

かわいいなぁ。

ウマ娘プリティダービーの2期もとうとう終わってしまったけれど
最近競馬のトゥインクルレースがずっと気になっていたので
今度友達とお馬さんを見に行ってみようと思います。
それじゃまた。モイモイ。
コメント
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