まだまだ友人のショックが抜け切れていませんが(引きずりますねぇ)
そんな友人の残していった曲「何にもないこと」を聴いて
”なんにもない”というモラトリアム特有の虚無感を味わいながら
「よつばと!」を読んでいたところ、
なんにもない、とか、なんでもないっていうのってのも
ちょっとした奇跡だよね〜なんてことを思っていたsachiakiです。
私はいつも「ここでないどこかへ行きたい」って思ってるタイプなんですけれど
それでもそれって「帰ってこれる場所がある」ってことが
分かっているからこそ「どこかへ行きたい」であって
「どこか」っていうのは「いまここ」があるからこその概念なのよなぁ
なんてことをぼんやりと考えていました。
なんてことのない日常は事件も事変もないからこそ
なんてことのない日常なわけで、
五体満足であることや大きな病気もしていないこと
友達や家族がいてくれていること、
微笑んだりいがみあったり、
そういったことができる相手がいること
仕事が少なくなってきてはいても
気にかけて依頼を持って来てくれる人がいること、
なんとなく時間の流れを感じるようなイベントが起きたりして
自分が前に進んでいると感じられること。
そりゃ”とうちゃん”も泣いてしまうよなー。
いつか遠くへ行ってしまうことの予感も含めて
自分の内側に入ってくるものが増えてくると
宝物が増えてきたという気持ちとともに
手放すのが苦しくなったりするのですよね。
そんなこんな。
ちなみに昨日はフランクルの「※夜と霧」を読んでいたので
本当に「なんでもないこと」のありがたさを強烈に感じていたところです。
ある日突然「日本人である」とか「女性である」っていう
生まれた時に自分でもどうにもできなかったことで差別され、
投獄されたうえに無意味に拷問をかけられたり
殺されたりするようなものではないってことに
ありがたみ以外感じることができません。
何年か前にアウシュビッツビルケナウに旅行で訪れた方のブログ記事を読んだ時も
この白線の向こうでは家族と引き離され、ただ死ぬだけの世界が待っていたのだと知り、
あまりに無慈悲な白線が今も残っていることで忘れずにいられるってことや
人間は理由さえあれば、どこまでもとんでもないことができるのだ
ってことの戒めになるななんてことを受け止めつつ、
今無事に呼吸ができていることのありがたみを無限に感じていたりしたのでした。
だからといって、今が辛い人にアウシュビッツよりマシだとかは言えないけれど
自分がおかれているささやかな日常の奇跡について感じられる人は
存分に味ってみるのも一興なのではないかな
なんてことを思ったりしていたのです。
うちにはハリネズミが一匹いるけれど
戦争や大地震が来たら、この一匹を守り通すこともできず
時と場合によっては自ら殺さなくてはならないのだよな……
ってことも考えると、できるだけ長く
このアホみたいにぬるい日常が続けば良いなと願ってしまったりするのです。
退屈であることはシンドくなる時もあるけどね。
さて、こんな取り止めもない日記を書いていたら
うちのハリネズミが「餌をくれ」と珍しくアピールをしているので
ちょいと餌やりに行ってきますよ。
そんじゃまた明日。モイモイ。
※「夜と霧」は心理学者であるフランクルが実際に体験した
ドイツ強制収容所の記録であり、貴重な当時の資料なのです。
そんな友人の残していった曲「何にもないこと」を聴いて
”なんにもない”というモラトリアム特有の虚無感を味わいながら
「よつばと!」を読んでいたところ、
なんにもない、とか、なんでもないっていうのってのも
ちょっとした奇跡だよね〜なんてことを思っていたsachiakiです。
私はいつも「ここでないどこかへ行きたい」って思ってるタイプなんですけれど
それでもそれって「帰ってこれる場所がある」ってことが
分かっているからこそ「どこかへ行きたい」であって
「どこか」っていうのは「いまここ」があるからこその概念なのよなぁ
なんてことをぼんやりと考えていました。
なんてことのない日常は事件も事変もないからこそ
なんてことのない日常なわけで、
五体満足であることや大きな病気もしていないこと
友達や家族がいてくれていること、
微笑んだりいがみあったり、
そういったことができる相手がいること
仕事が少なくなってきてはいても
気にかけて依頼を持って来てくれる人がいること、
なんとなく時間の流れを感じるようなイベントが起きたりして
自分が前に進んでいると感じられること。
そりゃ”とうちゃん”も泣いてしまうよなー。
いつか遠くへ行ってしまうことの予感も含めて
自分の内側に入ってくるものが増えてくると
宝物が増えてきたという気持ちとともに
手放すのが苦しくなったりするのですよね。
そんなこんな。
ちなみに昨日はフランクルの「※夜と霧」を読んでいたので
本当に「なんでもないこと」のありがたさを強烈に感じていたところです。
ある日突然「日本人である」とか「女性である」っていう
生まれた時に自分でもどうにもできなかったことで差別され、
投獄されたうえに無意味に拷問をかけられたり
殺されたりするようなものではないってことに
ありがたみ以外感じることができません。
何年か前にアウシュビッツビルケナウに旅行で訪れた方のブログ記事を読んだ時も
この白線の向こうでは家族と引き離され、ただ死ぬだけの世界が待っていたのだと知り、
あまりに無慈悲な白線が今も残っていることで忘れずにいられるってことや
人間は理由さえあれば、どこまでもとんでもないことができるのだ
ってことの戒めになるななんてことを受け止めつつ、
今無事に呼吸ができていることのありがたみを無限に感じていたりしたのでした。
だからといって、今が辛い人にアウシュビッツよりマシだとかは言えないけれど
自分がおかれているささやかな日常の奇跡について感じられる人は
存分に味ってみるのも一興なのではないかな
なんてことを思ったりしていたのです。
うちにはハリネズミが一匹いるけれど
戦争や大地震が来たら、この一匹を守り通すこともできず
時と場合によっては自ら殺さなくてはならないのだよな……
ってことも考えると、できるだけ長く
このアホみたいにぬるい日常が続けば良いなと願ってしまったりするのです。
退屈であることはシンドくなる時もあるけどね。
さて、こんな取り止めもない日記を書いていたら
うちのハリネズミが「餌をくれ」と珍しくアピールをしているので
ちょいと餌やりに行ってきますよ。
そんじゃまた明日。モイモイ。
※「夜と霧」は心理学者であるフランクルが実際に体験した
ドイツ強制収容所の記録であり、貴重な当時の資料なのです。