とんちかな?
なんてことを思われた方もいたかもね。
先日実家に帰った時に母から漏れた言葉で
ものすごく印象的だったので覚えていたsachiakiです。
私の母は60ちょい過ぎた頃、一人で昼寝をしていた時に
軽い脳梗塞を起こしてしまったらしく
その後から次々と不調なことが起こりまくって
現在は軽い認知症も入って変わり果ててしまったのです。
人間歩けなくなると本当にヤバイのだなって
母を見ていて強く感じるようになりました。
軽い脳梗塞がもたらしたものは右半身のしびれと
加えて時間感覚の喪失だったみたいで
それがとんでもない不安を引き起こすらしく
もともと歳の離れた末っ子で比較的甘えん坊だった性格が出やすくなり
いろんなものを怖がるようになりました。
私が知っている母は好奇心が強く、なんでもやってみようってタイプで
どっしりと構えたアマゾネスのような人だったのですけれど
安全の確保されていないものを必要以上に恐れたり
外に出ることを嫌がったりするので
週に二度のリハビリセンターで動くこと以外はほとんど動かなくなり、
家の中のこともヘルパーさんがやってくれること以外
自分で新しいことをやってみるなどをしなくなってしまったようです。
もともとたいして料理が好きでない感じがあったので
料理をしなくなるのは分かるんだけど、
洋裁とか好きだったようですし、ファッションデザイナーになるのが夢だった
というのを聞いたことがあるぐらいなので
絵を描いたり、洋服の組み合わせを考えるのは好きだったはずなのに
それも手がうまく動かないからという理由で嫌がるようになってしまい
趣味だった習字もやらなくなってしまいました。
私は母の字が綺麗だったので好きだったのですけどね……。
本人が納得できないものをやらせるのもおかしな話なので
もう何も言わないことにしてます。
うまくいかないものをやりたくないって気持ちは誰にでもあるし、
それを乗り越えるためのプロセスって難しいというか
反復練習しかない地味な話なので
どうやって反復練習をする気力を持ってもらうか、
という話になるんだろうけれど、
矯正することなのかなぁ…というのが正直な気持ちで
母が辛くならない方向ばかりを選んできたら
悩みと言われるものがすっかりなくなってしまったらしく
「悩んでいた頃が懐かしい。今は悩みがないぶん世界がぽや〜としている」のだそうです。
−人間は考える葦である。
とはパンセの有名な言葉ですが
「考える必要がなくなる」ということは「人間である」ということの
なにかを引き換えに失ってしまうのかもしれません。
「悩みがないのが悩み」だという話だったので
なにか始めてみたらいいんじゃない?って返してみたものの
それはどうにも違うようでモゴモゴと口籠らせてしまいました。
なにかをやってみると、それをもっとうまくできるようになりたいだったり、
こんなことはできるのだろうか?など
いろんなことを考えるようになり、それが楽しかったりするのですけれど
上手くいかない時の苦しさの方記憶に残っていて
それで新しいことを始めたり、
今までできていたことへの手がかりを阻害しているように感じました。
歳を取るとどんどんやる気が阻害されていくので
好きだったものへの手が伸びにくくなったりするし
好きだったものへの気持ちでもそうなるのだから
新しいものへのチャレンジなんて……という話で
一度失ってしまったものを取り戻すのは難しいのだろうな
ってことに気づいて愕然としてしまったりします。
同じ部屋の同じ場所でボーッと過ごすことは
とても安全ではあっても、大きな視点で見るととても危険なものなのでは?
とも思うし、どういう状況であっても安全こそ全てであるなら
これで良いのだろうという気持ちになったりと複雑です。
悩みから解放されたいって思うものなのに
人間とはつくずく複雑にできているのだな〜なんて
主語を大きくしたところで終わろうと思います。
そんじゃまた、モイモイ。
なんてことを思われた方もいたかもね。
先日実家に帰った時に母から漏れた言葉で
ものすごく印象的だったので覚えていたsachiakiです。
私の母は60ちょい過ぎた頃、一人で昼寝をしていた時に
軽い脳梗塞を起こしてしまったらしく
その後から次々と不調なことが起こりまくって
現在は軽い認知症も入って変わり果ててしまったのです。
人間歩けなくなると本当にヤバイのだなって
母を見ていて強く感じるようになりました。
軽い脳梗塞がもたらしたものは右半身のしびれと
加えて時間感覚の喪失だったみたいで
それがとんでもない不安を引き起こすらしく
もともと歳の離れた末っ子で比較的甘えん坊だった性格が出やすくなり
いろんなものを怖がるようになりました。
私が知っている母は好奇心が強く、なんでもやってみようってタイプで
どっしりと構えたアマゾネスのような人だったのですけれど
安全の確保されていないものを必要以上に恐れたり
外に出ることを嫌がったりするので
週に二度のリハビリセンターで動くこと以外はほとんど動かなくなり、
家の中のこともヘルパーさんがやってくれること以外
自分で新しいことをやってみるなどをしなくなってしまったようです。
もともとたいして料理が好きでない感じがあったので
料理をしなくなるのは分かるんだけど、
洋裁とか好きだったようですし、ファッションデザイナーになるのが夢だった
というのを聞いたことがあるぐらいなので
絵を描いたり、洋服の組み合わせを考えるのは好きだったはずなのに
それも手がうまく動かないからという理由で嫌がるようになってしまい
趣味だった習字もやらなくなってしまいました。
私は母の字が綺麗だったので好きだったのですけどね……。
本人が納得できないものをやらせるのもおかしな話なので
もう何も言わないことにしてます。
うまくいかないものをやりたくないって気持ちは誰にでもあるし、
それを乗り越えるためのプロセスって難しいというか
反復練習しかない地味な話なので
どうやって反復練習をする気力を持ってもらうか、
という話になるんだろうけれど、
矯正することなのかなぁ…というのが正直な気持ちで
母が辛くならない方向ばかりを選んできたら
悩みと言われるものがすっかりなくなってしまったらしく
「悩んでいた頃が懐かしい。今は悩みがないぶん世界がぽや〜としている」のだそうです。
−人間は考える葦である。
とはパンセの有名な言葉ですが
「考える必要がなくなる」ということは「人間である」ということの
なにかを引き換えに失ってしまうのかもしれません。
「悩みがないのが悩み」だという話だったので
なにか始めてみたらいいんじゃない?って返してみたものの
それはどうにも違うようでモゴモゴと口籠らせてしまいました。
なにかをやってみると、それをもっとうまくできるようになりたいだったり、
こんなことはできるのだろうか?など
いろんなことを考えるようになり、それが楽しかったりするのですけれど
上手くいかない時の苦しさの方記憶に残っていて
それで新しいことを始めたり、
今までできていたことへの手がかりを阻害しているように感じました。
歳を取るとどんどんやる気が阻害されていくので
好きだったものへの手が伸びにくくなったりするし
好きだったものへの気持ちでもそうなるのだから
新しいものへのチャレンジなんて……という話で
一度失ってしまったものを取り戻すのは難しいのだろうな
ってことに気づいて愕然としてしまったりします。
同じ部屋の同じ場所でボーッと過ごすことは
とても安全ではあっても、大きな視点で見るととても危険なものなのでは?
とも思うし、どういう状況であっても安全こそ全てであるなら
これで良いのだろうという気持ちになったりと複雑です。
悩みから解放されたいって思うものなのに
人間とはつくずく複雑にできているのだな〜なんて
主語を大きくしたところで終わろうと思います。
そんじゃまた、モイモイ。