昨晩はユヴァル・ノア・ハラリの「21Lessons」の
最終章となる20章と21章を毎月やっている読書の会にて読み終えて、
「物語」というものの強さを感じずにはいられないsachiakiです。
専門学校時代、絵をただ漫然と描くのではなく
その絵にストーリーを持たせろと聞かされて
たった一枚の絵からでも過去があり、未来があり
その絵の世界がどんな風に広がっているのかを想像させる
そういったものを意識するようになったし、
デザインもそういう、ただ綺麗に文字や物体が並んでいるのではなく
その絵を見た時に受けた側の想像力をかきたて
かつ、その想像力を働かせた先が自分が思い描いている世界や
クライアントさんの伝えたい世界へアクセスしてもらえるようなゴールを目指して
組んだりするわけです。
が。
最近は「物語」というものの力の効能を過信しているのか
もしくは受け手側が「物語」がないものには無関心になりつつあるのか…
というよりも「作品」や「出来上がった成果」が持っている独自の物語よりも
作った人がどういう人物で、どういった気持ちで作ったのか
という背景側の物語ばかりクローズアップして
私は理解した
と思い込んでいる人が多いことが怖くて仕方ありません。
この日記の一個前の記事がコンシューマーゲームの「リトルナイトメア」の世界観や
セリフのないことの良さについて触れていますが
背景の物語ばかり好む人は、きっとこの世界観の良さには気づきにくいし
あまりにも不明瞭なところが多いぶん嫌いって人も出てくるかもしれません。
”理解できないことは悪である”というような考え方をしている人にとっては
特にムカムカするゲームかもしれません。
エンジニアや会社がどういった思いでゲームを作ったのか?
そういった背景がわからないとプレイしたなくないって人もいるかもしれません。
まぁそんな人はこの記事を読まれればいいかと思います。
→バンダイナムコヨーロッパが生んだ人気タイトル『LITTLE NIGHTMARES-リトルナイトメア-』。その誕生秘話と最新作への思い
でもね、そんな背景の物語は置いておいて
製作陣も語っているように「自分の想像力で物語をつくってほしい」。
なって思います。
と、これだと今日書きたかったことと少しブレてしまうな……。
ええと、まずは物語とはなんぞや?って話ですね。
物語:平安時代に発生した文学の様式。内容,性格によって,作り物語,
歌物語,歴史物語,説話文学,軍記物語,擬古物語などに分類されるが,
単に物語というときは『源氏物語』に代表される作り物語をさす。
〜(中略)〜
なお,物語論においても『源氏物語』の「蛍」の巻に示された
虚構論が最もすぐれている。
ーブリタニカ国際大百科辞典より
と辞書を引いてきましたが、大事かな?って思いところは赤色を入れてみました。
つまるところ「物語」とは「虚構」なんですよね。
ということは、いくら真実が知りたいとか事実が知りたいとか思って
なにか物事に出会った時に、そこに合点のいく「物語」が見えた時は
それは「虚構」である可能性が高いってことなのです。
だから合点のいく美しいものには気をつけろって話がしたいのと、
そうはいうても誰かに「私はココにいる」と気づいてもらうためには
美しい歌声で街頭ライブをするように
美しい物語を語る(紡ぐ)ことって、とっても有用でもあるのですよね。
内容よりもセンセーショナルで引きのあるキャッチをつけろとか
そういうセールス術もありますが
もっとも持続力のあるパワーの使い方として
「物語」をどう作り出すか、という作家性が求められている時代でもあるのでしょう。
クソが。って思いますけどね。
なにかを訴える時に仮想敵を作ったり
ありもしない事件のようにでっちあげたり。
気持ち悪いってなってしまうけれど
それで結果的に人が幸せになれるものなら
私はいくらでも「ビッグフィッシュ」のような虚構の世界を応援するけれど
その物語化をすることで自分自身を偽って、
自分(と、それを取り巻く一定の層のみ)しか得をしないのなら
それは邪悪だと思うし、私はそれを応援するのはできません。
その人個人を応援することはするけれど、
その人がアジッているようなことには賛同しないって意味で。
他にも色々と「物語」について言いたいことはあるけれど
ちょっと論点がバラバラとほどけていきそうなので
今日はこの辺にて。
そんじゃまた!モイモイ。
最終章となる20章と21章を毎月やっている読書の会にて読み終えて、
「物語」というものの強さを感じずにはいられないsachiakiです。
専門学校時代、絵をただ漫然と描くのではなく
その絵にストーリーを持たせろと聞かされて
たった一枚の絵からでも過去があり、未来があり
その絵の世界がどんな風に広がっているのかを想像させる
そういったものを意識するようになったし、
デザインもそういう、ただ綺麗に文字や物体が並んでいるのではなく
その絵を見た時に受けた側の想像力をかきたて
かつ、その想像力を働かせた先が自分が思い描いている世界や
クライアントさんの伝えたい世界へアクセスしてもらえるようなゴールを目指して
組んだりするわけです。
が。
最近は「物語」というものの力の効能を過信しているのか
もしくは受け手側が「物語」がないものには無関心になりつつあるのか…
というよりも「作品」や「出来上がった成果」が持っている独自の物語よりも
作った人がどういう人物で、どういった気持ちで作ったのか
という背景側の物語ばかりクローズアップして
私は理解した
と思い込んでいる人が多いことが怖くて仕方ありません。
この日記の一個前の記事がコンシューマーゲームの「リトルナイトメア」の世界観や
セリフのないことの良さについて触れていますが
背景の物語ばかり好む人は、きっとこの世界観の良さには気づきにくいし
あまりにも不明瞭なところが多いぶん嫌いって人も出てくるかもしれません。
”理解できないことは悪である”というような考え方をしている人にとっては
特にムカムカするゲームかもしれません。
エンジニアや会社がどういった思いでゲームを作ったのか?
そういった背景がわからないとプレイしたなくないって人もいるかもしれません。
まぁそんな人はこの記事を読まれればいいかと思います。
→バンダイナムコヨーロッパが生んだ人気タイトル『LITTLE NIGHTMARES-リトルナイトメア-』。その誕生秘話と最新作への思い
でもね、そんな背景の物語は置いておいて
製作陣も語っているように「自分の想像力で物語をつくってほしい」。
なって思います。
と、これだと今日書きたかったことと少しブレてしまうな……。
ええと、まずは物語とはなんぞや?って話ですね。
物語:平安時代に発生した文学の様式。内容,性格によって,作り物語,
歌物語,歴史物語,説話文学,軍記物語,擬古物語などに分類されるが,
単に物語というときは『源氏物語』に代表される作り物語をさす。
〜(中略)〜
なお,物語論においても『源氏物語』の「蛍」の巻に示された
虚構論が最もすぐれている。
ーブリタニカ国際大百科辞典より
と辞書を引いてきましたが、大事かな?って思いところは赤色を入れてみました。
つまるところ「物語」とは「虚構」なんですよね。
ということは、いくら真実が知りたいとか事実が知りたいとか思って
なにか物事に出会った時に、そこに合点のいく「物語」が見えた時は
それは「虚構」である可能性が高いってことなのです。
だから合点のいく美しいものには気をつけろって話がしたいのと、
そうはいうても誰かに「私はココにいる」と気づいてもらうためには
美しい歌声で街頭ライブをするように
美しい物語を語る(紡ぐ)ことって、とっても有用でもあるのですよね。
内容よりもセンセーショナルで引きのあるキャッチをつけろとか
そういうセールス術もありますが
もっとも持続力のあるパワーの使い方として
「物語」をどう作り出すか、という作家性が求められている時代でもあるのでしょう。
クソが。って思いますけどね。
なにかを訴える時に仮想敵を作ったり
ありもしない事件のようにでっちあげたり。
気持ち悪いってなってしまうけれど
それで結果的に人が幸せになれるものなら
私はいくらでも「ビッグフィッシュ」のような虚構の世界を応援するけれど
その物語化をすることで自分自身を偽って、
自分(と、それを取り巻く一定の層のみ)しか得をしないのなら
それは邪悪だと思うし、私はそれを応援するのはできません。
その人個人を応援することはするけれど、
その人がアジッているようなことには賛同しないって意味で。
他にも色々と「物語」について言いたいことはあるけれど
ちょっと論点がバラバラとほどけていきそうなので
今日はこの辺にて。
そんじゃまた!モイモイ。