あも&サチアキの交換日記

どうやら交換日記が続いているようです(祝何年目?

毎週火曜日は読書の日

2021-07-13 | from:sachiaki
というわけで、火曜日は毎週友人と1時間読書をして
5分のまとめをして発表するということをし続けているのですけれど
1時間の読書を5分でまとめるのってけっこう難しいですね。
要約してしまえばそんなものなのかもしれないけれど、
毎度この「まとめ」が難しいなぁなんて思っているsachiakiです。

友人ていうか、私にイラストの発注をかけてくれている人で
今は諸々のことがあってアルバイト扱いで所属させてもらっているんだけど、
その人と二人でオンラインでやっています。
ちなみに読む本は縛りなしなのでどんなものでも可ですが
1時間で物語系のものはまとめられるほどの動きがないというか、
全体の一部すぎるので最初の頃こそ短編集から一つとか選んでいたけれど
最近は評論系とかを扱っていることが多いかな。
友人は本屋で平積みされていそうな話題のものが多いようです。

今週の私は何度か取り上げていた
無責任の新体系ーきみはウーティスと言わなければならない
を読んでいましたが、一節一節が考え込んでしまうほど厚みがあるので
一章を進めることもできません。
何度か取り上げてようやく第三章を読み終えられました。ぜーはー

友人は「自分の価値を最大にするハーバードの心理学講義」

奇しくも似たようなことを語っており、
まとめをお互いに聞きながら「結局”本当の自分”なんてものはないのねぇ」
なんて話をしていました。

私の方では「ペルソナ(仮面)」をつけることで
それぞれの場をやりすごす人間の行動様式と
その「ペルソナ」を付け替えることで分人化していき
”誰”というのは見えにくくなり、”その仮面”をつけていると
”仮面の効果”で発言力はあるけれど、
その装着者が”誰”であるかが忘れられがちで
そこが無責任を生み出してしまう深淵があるということと、
友人の方では「パーソナル」を基軸に、
人はコンストラクト(認知構造)と呼ばれるものを持っていて
人それぞれの情報を理解する仕組みを持っており、
その認知構造のために、事実が一つであっても人によって捉え方が違うこと
そして人の心が認知構造で出来上がっているのなら
その構造によって変化が可能であるということから
「本当の自分」なんていうものは幻想に過ぎず、
いくらでも変化(へんか、へんげ)が可能である
それゆえに確固としたものがない、という結論となっていました。

ちなみにこの認知によって評価がおこり、
評価によって人や物事を見ているわけですが
他者をどう評価するかは自分の幸福に直結するので
(自分がうまくいっていないときに、幸福な人をみると不幸な気もちになるっていうアレです)
自分の環境によって評価基準が変化するというのは
いかにも現代の問題とマッチするなぁ、などと考えていました。

自分の持つ評価基準に該当しない基準外のものが出てきた時
人はそれを評価することができないので不安になり、
人間は自分を変えられるかもしれないことへの不安を潜在的に持つので
それが恐怖へと変化するのだ、なんていうのはこのコロナ危機でよく感じたものの一つです。
ちなみに自分を否定するものというのは明確に敵意がなくても
敵意と感じてしまうというのも、その変化への恐怖の累計なのかもしれません。
さらに踏み込んだ話をすると、不安は原因がわからない時に感じるもので
原因がわかってなにかが壊れそうという確信を得た時に恐怖になるそうです。
恐怖は克服できるけれど、不安は克服できないというのは
不安の原因が不明だからなのかもしれませんね。
=不安:安心できない。気がかりで落ち着かないこと。心配。

そんな感じで1時間の勉強時間というのは貴重だなぁと感じる今日この頃です。
役に立ってるの?って言われると、う〜って感じだけど
学生時代よりは動じなくなってきているので
多少は役に立っているんじゃないですかね。
まぁたんに大人になって感覚が鈍化しているせいで
ちょっとしたことが傷になりにくいってだけかもしれませんが。

以上です。
そんじゃまた!モイモイ。
コメント
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