老いのひまつぶし

東海地方に在住の80才の男性です。
日常の喜怒哀楽を綴って行きます。

父の遺骨は

2010-08-11 21:28:37 | 日記
毎年、お盆の時期になるとTVや新聞等のメディアで太平洋戦争の悲惨さを取り上げて居ります。
私の父もシベリアで戦死となって居ります。と言うのは戦争末期に中国・北京市にて兵役を逃れる年齢なのに徴兵で満州に出兵しました。
父は大阪で数名の職人を雇い縫製業を営んで居りましたが、取引先の会社が北京市で軍服工場を設立するに当たり工場指導者として北京市に来ていました。

私達母子は昭和18年に父の元へと移住し、塀に囲まれた日本人だけの社宅に住んで居ましたがその期間は僅か1年程でした
出兵後、父からは「元気で満州の部隊に居る」との1通のハガキが母の手許に届いただけでその後は全くの音信不通です。
そして、終戦になったのです。当時母は慣れない土地での生活から軽い結核にかかり入院生活をしていました。

でも、その地に留まる事は敗戦国民として迫害を受けると言うので幼い子供を連れて各地の終結所を経て、朝鮮半島から釜山港へ引き上げ船で山口県・仙崎港に着きました。
それが昭和21年4月です。住居の在る大阪駅ホームに降り立つと大阪市街全面焼け野原。
やむなく父母の故卿の岐阜県に、そして父方の祖父母の下で貧苦に耐えながら私達二人を育てて呉れました。

日々の暮らしの中、母や祖父母は父の帰還を待ち望みラジオで放送される舞鶴港での帰還兵の状況を聴いて居りました。
でも、父の情報は全くありません。母はシベリヤからの帰還兵の人を訪ね回っても朗報は聴けませんでした。

昭和31年、当時の厚生省から父が生死不明と言うので事務手続き上戦死者となり、県庁へ遺骨箱を受け取りに行きました。
近親者でささやかな葬儀を済ませ、白木の箱はお墓に埋葬しました。でもその遺骨箱には父の名前と仮の死亡年月日が書かれた紙切れが一枚だけです。
それからずーっと今まで遺骨の無い墓ですが母と私は父のお墓としてお参りをして居ります。

今年初めに、村山常雄氏が調査し纏められた「シベリヤ抑留死亡者名簿」を姉とパソコンで父の名前を探してみましたが有りませんでした。
満州のどの部隊に居たのか聞こうにも97才の母にはもう記憶が有りません。ましてやソ連軍に連れ去られた先など判る筈が無いのです。
父の遺骨の埋葬地が判明すれば、老体に鞭打ってでもその地に訪ね遺骨の一片でも持ち帰り供養したいと願うのですが
また、今年も一枚の紙切れが入ったお墓を亡き父と思ってお参りするお盆です