先日、近在の叔母からさつま芋を沢山頂いたので、友達にもお裾分けしてもまだ余るようなので妻が蒸かして呉れました。
お昼時に丁度蒸かし上がったお芋をふぅふぅしながら食べて居て、ふと思い出し妻に 「小学生の頃、これが給食だったよ」と話すと
「へぇーこんなのが給食で?」と聞き返されました。そうなんです、終戦直後はこの辺りに名古屋から疎開されていた家族が沢山有りました。
当時はまだ農家が大部分で農家の子供はご飯のお弁当を持って来れますが、疎開されて来てる家庭ではお米はなかなか手に入りません。
そこで児童には皆が平等に昼食が摂れるように「さつま芋の給食」となったのでしょうね。
小学校には学校農園もあり4年生~6年生まで毎年さつま芋の苗を植えその後月に一回位と夏休みには草引きをし、秋には全校児童で収穫でした。
また当時この地ではさつま芋を大量に作付けし、収穫時には近くの国鉄(JR)の駅に消費地に供出するため生産農家から大八車で集められたものです。
その後、供出は無くなったのでさつま芋から澱粉を取りブドウ糖や水飴を作る工場が出来、個人企業として「芋かりん糖」を作る工場も多々在りました。
3~4社あった澱粉工場も今は無くなり一社のみ製菓会社として残って居ります。またかりん糖工場も無くなり残った僅かな企業は大手アイスクリームのコーンを作って居ます。
妻との給食の話では矢張りあの「脱脂粉乳」が話題になりました。お互いに 「不味かったなあ、今ならとても飲めんぞー」って。
でも、あれで戦後の日本の子供が栄養失調から救われたのですね。今となっては笑い話ですが供与して呉れた連合国には感謝すべきです。