老いのひまつぶし

東海地方に在住の80才の男性です。
日常の喜怒哀楽を綴って行きます。

母が百歳の

2012-09-23 10:10:05 | 日記
敬老の日の前に市の高齢者福祉課の方から電話があり「午後から在宅ですか〇〇さんに国から賞状と記念品が来ましたのでお届したいのですが」と言われました。
母は今年の12月で満百歳になります。私は9月になっても市から何も連絡が無いので市からのお祝いはやはり満年齢で行われるのかと諦めて居ました。
まさか、国からこうしたお祝いを頂けるとは思って居なかったのでビックリしました。大きな賞状と銀杯(直径9㎝)でした。
母も最初は何の事か解らずキョトンとして居りましたが、課員の方からの優しい説明で自分が元気で長寿を迎えた事のお祝いだと知ったようでした。
母は大正1年に10人兄弟姉妹の三女として産まれ、小学校を卒業するや否や名古屋の紡績工場に住み込みで働き大家族の為に仕送りをして居りました。
24歳で結婚し大阪へ、夫と縫製業を営み姉と私の2人子供に恵まれ郷里からの住み込み縫製職人さん6人と共に大所帯を切り盛りして居りました。
父が親会社の依頼で中国北京へ軍服工場に単身出向すると一年後に幼子2人を北京へ、でも6ケ月後に父は現地召集で兵隊として満州へ出兵。
母は慣れぬ土地での生活と心労で肺病で入院、闘病中に終戦に。私達を連れ北京から朝鮮半島を経て8ケ月掛け本土に引き上げました。
でも、大阪の街は焦土化して居てやむなく父方の祖父宅に三人が身を寄せる事となりました。6畳の部屋を借りても生活は自活でした。
戦後の母子家庭が今の様に補助も無く女が働く場所も少なく生活に疲れ何度か一家心中を考えたとも言って居ました。
やや世の中も落ち着き衣服の需要も増えて来て、中古のミシンを借りて自宅で縫製を始めました。
朝から深夜までミシンを踏み続け、私達も糸屑を取ったりボタン付け・ベルト通しを手伝いました。そうして私達を成人するまで頑張って呉れました。
これまでは本当に必死に働いた人生だったと思い感謝です。私が働く様になり家を新築、結婚してからやっと自身がゆっくり出来る毎日を過ごす事が出来る様になりました。
遺族会の旅行やお寺主催の旅行には積極的に出掛け人生を楽しむ事も出来、いまでもテレビで訪ねた土地の映像を見ると懐かしそうに「行った事有るわ」と微笑んで居ます。
国から記念品を頂いた事で姉と私の子供や孫(ひ孫)を招待して祝賀パーティ予定して会場を予約しました。
ちなみに、市からのお祝いは満100歳の誕生日に頂けるそうです。今の所母も元気なので楽しみにして居ります。