Happyday of LUCKY

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SIGNの写真茶話会 存続の危機

2012年12月26日 | Photography
久しぶりにSIGNの写真茶話会へ行く。前回の参加は6月だったから、もう半年も経つのか。
この茶話会を主宰するYさんの話はいつ聞いても、何度聞いても新鮮だ。
いつも「写真とはなにか」ということを考えさせられる。
彼の写真論というより、もう宗教に近い。彼は教祖様なのだ。毎回ありがたいお話を聞くために信者が参拝してくる。

だが、Yさんはもっと仕事に本腰を入れるために(本業は写真とはまたべつのことをしている)、この茶話会を今回で終了にしたいという。
こんなにまっすぐに写真と向き合う場所は、わたしにはほかにないので、じつに惜しいことだ。
できることなら回数を減らしてでも存続させてほしい。その分、会費を上げてもいいから。
ほかの参加者からも同じような意見が出て、結局3月まで延長することに。そのあとどうなるかは未定である。



わたしにとってこの茶話会は、新作の方向性を見定めるための修行場のようなところだ。
Yさんに見てもらうだけでなく、写真に対するスタンスがそれぞれちがう参加者の反応や意見を聞くことが、わたしは大切だと思っている。
つまり自分の作品がどんなふうに見えるのかを客観的に判断する場として、ここは機能している。
それから、ほかの参加者の写真(わたしとまったくちがう)を見て、その人がなにを表現しようとしているのかを読み解くことがとてもおもしろい。
その人の写真のレベルが徐々に上がってくるのがわかるので、つづけて参加するとさらにおもしろい。

きょう参加したLさんの作品は写真1枚1枚のクオリティが高くなり、写真として成立するようになった。
あとはどうまとめるかという段階まで来ているのだが、どうやら彼女は文章と組み合わせてなにかをつくりたいようだ。
少し危険な方向にいこうとしている。

一般に写真と文字との親和性は高いと思われがちだが、それはおもに広告の世界の話で、じつは純粋に写真表現をするのなら、文字表現はじゃまなことが多い。
写真と文字を組み合わせてうまくいってる作品をわたしはほとんど見たことがない。
だいたい写真家の書く文章って饒舌なものが多くて、読んでいてこっちが恥ずかしくなる。
逆にいうと文章表現というものをナメている。そんな簡単に文章が書けるものか。(Lさんにいってるのではありません。あくまで自分への戒めとして書いています)

Mさんの写真も非常にレベルが上がった。というか、明るくなって前向きな印象の写真がふえた。
以前、フィルムで撮っていたころの写真とはまったくちがう。
わたしのススメでデジカメを買って、どんどん撮るようになった結果、いい写真がふえたということだ。
やはり写真は量を撮らねば、質は上がってこない。
そう思っていたら、Yさんが「じゃあ、ちょっと見ていて」というやいなや、彼女の写真をカルタ取りのようにパッパッと手にとり、みるみる半分くらいにしてしまった。
そうして残った写真群を見て、わたしはちょっとおどろいた。以前の写真と同じだ。
「これがMさんのコアとなってる写真でしょ」
Yさんはそれが見える人なのである。やっぱり教祖様はするどい。
だが、そのコアの部分を否定するのではなく、それをまさに核にして写真表現をしていく。
そういう覚悟が必要なのだとわたしは思った。

Nさんの写真は職場での人間関係が写っているので、くわしいことは書けないが、写真の力を最大限に発揮させている。
自己表現のツールとしてではなく、仕事のツールとしてうまく活用している。
ただ以前の彼の写真に感じた精神性というか神秘性が影を潜め、ただの説明的な写真になってしまったのが残念である。
この茶話会に参加するなかで、一定限の心のゆらぎは解消されたとみるべきか。
Nさんは写真以外にいろんな表現をもっている方なので、べつに写真にこだわる必要もないのかもしれない。



とりあえず3月まではこのうどんが食えそうである。

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