性懲りもなく、また“いじめ問題”について書いてみる。今回のネタに使用するのは、またしても産経新聞の社説だ(笑)。11月14日付の朝刊。タイトルは「いじめと自殺 卑怯を憎む心を育てよう」。
<引用開始>
いじめの問題で大切なことは、いじめを受けている子供の心のケアと同時に、いじめる側に対する厳しい指導である。時には、親を呼び出して指導することも必要だ。いじめが深刻な場合は、出席停止などの措置や警察への連絡を躊躇(ちゅうちょ)してはならない。
数学者の藤原正彦氏は著書『国家の品格』で、父親(作家の新田次郎氏)から「弱い者がいじめられているのを見て見ぬふりをするのは卑怯(ひきょう)だ」と武士道精神をたたきこまれたエピソードを書いている。家庭でも、小さいころから、この卑怯を憎む心をはぐくんでおくことが大切である。
<引用終了>
相変わらず、この新聞社はいじめの何たるかを理解していない。「いじめっ子に対して厳しく対処せよ!」・・・・なるほど、一見正論だ。しかし、その“厳しい指導が必要なほどのいじめ”の定義は何だ? 無能な学校当局にでも認識できるような“常軌を逸したいじめ”とは、暴力をふるったり金品を巻き上げたりするようなものではないか? それは果たして“いじめ”なのか? 一般社会的な認識だと、それは“暴行”とか“恐喝”とか呼ばれるものではないのか? つまりは刑事事件だ。いじめをそういう刑事事件で総括していいのか?
いじめというのは、何も暴力を振るったりするような、明確な形であらわれるものだけではない。皆で無視したり、キツイ言葉を浴びせたりといった、陰湿で目に見えにくいケースが多い。そして困ったことに“無視して差別する”といったいじめは、暴力を伴ういじめとは違って加害者が特定できない。この社説で言ってるような“いじめる側に対する厳しい指導”が必要というなら、いじめられている本人以外のクラスメートを全員をシメ上げないといけないが、そういうことが出来るのか? そうなったら学校運営もへったくれもありゃしない。さらに悪いことに“無視して差別するいじめ”は、いじめる側にとって罪の意識など全くないのだ。
産経新聞の連中の考えが根本的に間違っているのは、彼らが“強者の側(いじめる側)”からでしかモノを見ないからだ。いじめっ子を駆逐し、皆がいじめられっ子に対して配慮すればいじめはなくなると思っている。そうじゃないだろ。皆がいじめられっ子に対してどう思おうと、いくら親切に接するように努めようと、いじめられっ子が“いじめられている”と思えば、それは“いじめ”なのだ。学内から一部の乱暴者を放逐して、教師や他の生徒が“さあ、これで安心だ。いじめっ子はいなくなった”と決めつけるのは、傲慢でしかない。
いじめというのは、教師やいじめられっ子以外の者が“こうすればいじめになってしまう。だからこうしよう”と勝手に判断するようなものではない。一部の突出したいじめっ子をやっつけるだけでは絶対解決しない。いじめられっ子にとっては、些細なからかいや無視でも、重大ないじめと感じてしまうのだ。“その程度で傷つくのは本人が弱いからだ。そんなのはいじめの範疇に入らない”と思うのは無神経に過ぎる。他人の心ない一言や冷淡な態度にショックを受けることは、我々にだってよくあるはずだ。子供なら尚更だろう。
大切なのは、いじめられっ子をいかに扱うかだ。この社説にあるように“いじめを受けている子供の心のケア”などと悠長なことを言っているヒマはない。早急に保護し、早急に打開策を考えることが重要である(その主体になるのは学校ではなく、親だ)。それは登校を控えるとか、転校するとか、具体的なものであるべきだ。“心のケア(抽象的な対処)をすれば何とかなる”というのも、強者の側の言い分に過ぎない。
要するに産経新聞はいじめられっ子の存在が鬱陶しくて仕方がないのだろう。いじめられないように強くなればいいのであって、いじめられるような弱い奴は世の中から退場してもらいたい・・・・こんなことを本気で考えている。いじめを糾弾しているようで、その実“強者の論理”を押しつけている。そういうスタンスこそがいじめを助長させていることに気が付かないのか。まったく、呆れてモノも言えない。