シネマ見どころ

映画のおもしろさを広くみなさんに知って頂き、少しでも多くの方々に映画館へ足を運んで頂こうという趣旨で立ち上げました。

「街の上で」(2021年 日本映画)

2021年09月08日 | 映画の感想・批評
 若葉竜也という俳優をスクリーンの中に発見したのは「葛城事件」という作品。殆どセリフがなく、ラスト近くで無差別殺傷事件を起こす。無言で淡々と人を殺めていく姿は強烈だった。この時若葉竜也という名前が私の中に刻まれた。幼少の頃より大衆演劇の世界で活躍していたことはうっすらと記憶にあったが、同一人物とは結びつかずにいた。20年余りのキャリアがあるわけで、それがどのように熟成されていたのかは知る由もなかった。
 近年は出演作が続き、今作が初主演と知り、期待が高まる。公開が延び、映画館へ行くという日常が揺らぎ諦めかけていた頃に、京都の出町座でロングラン上映されていると知り、ようやく観ることができた。気づいたら身を乗りだしていた。いつもは座席に身を沈めているのに。作品に流れるあたたかな空気に引きよせられたようだ。「海辺の映画館」の若者達はスクリーンの中に入っていったが、残念ながらそれは叶わない。
 全編オール下北沢ロケの作品である。主人公の荒川青(あお)は古着屋で働く青年。客もちらほらで、青はいつも店番をしながら静かに本を読んでいる。その佇まいが際立って魅力的だ。表通りから奥まった店の一角に、何ともいえない心地よい空気を醸しだしている。その心地よさは作品全体を包みこんでいく。
 特別な事件が起こるわけでもなく、小さなエピソードが綴られていく。スナックのマスターやカフェの店主との会話、パトロール中の警官とのほのぼのとしたやりとり...。ある日、大学生の卒業制作映画への出演依頼がまいこむ。ここからは、青のコミカルな動きが見ものだ。撮影当日、渡された衣裳がその時の私服と全く同じ物で、衣裳を抱えながら部屋中をうろうろし、なかなか着替えられずにいる。いざカメラが回ると、何度も練習してきたのに緊張のあまりNGの連続である。普段とは別人のよう。若葉竜也のセリフのない場面での表情や動きは的確だ。表現者としての長い歴史の中で培われてきたものと改めて納得する。
 ラストは観客へのちょっとした謎解きになっている。青が自室の冷蔵庫に入れておいた食べ残しのバースデーケーキを、戻って来た恋人が食べようとする。止める青にかまわずケーキを口にした彼女は平気な様子で、青にも食べさせようとし、観念した青も口にするのだが...。実はこのケーキは冒頭のシーンからラストまで、ずっと冷蔵庫に入ったままであった。果してこの作品は下北沢の何日間を描いているのだろうか?時間経過を甘いケーキに委ねて、最後もちょっぴり甘く終わっていく。監督の遊び心が洒落ている。
 今泉監督作品を全て観ているわけではないが、この作品が一番好きと答えたい。若葉竜也と監督はきっと相性がいいに違いない。作品が証明してくれている。
 今日も下北沢のあの古着屋の一角で、青は静かに本を読んでいる、はずだ。(春雷)

監督:今泉力哉
脚本:今泉力哉、大橋裕之
撮影:岩永洋
出演:若葉竜也、穂志もえか、古川琴音、萩原みのり、中田青渚、成田凌