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「パリ、テキサス」 (1984年  フランス、西ドイツ、イギリス、アメリカ映画)

2023年08月09日 | 映画の感想・批評
 トラビスはテキサスの砂漠で行き倒れた。連絡を受けて迎えに来た弟のウォルトが事情を聞いても、記憶を失っていて何も答えない。何度も逃げ出そうとするトラビスを、ウォルトはなんとかロスアンジェルス郊外にある自宅へ連れて帰った。ウォルトは妻のアンと共にトラビスの息子のハンターを育てていた。ハンターはもうすぐ8歳になろうとしている。ウォルトが5年前に撮影した8ミリ映画を上映すると、トラビスは画面を見ていられなくなった。そこには4年前に失踪した妻のジェーンが映っていたからだ。

 トラビスは若い妻のジェーンをとても愛していて、彼女を残して仕事に出るのがつらくなり仕事を辞めた。お金が無くなるとまた仕事を始めたが、妻が浮気しているのではないかと疑い、仕事から帰ると彼女を責めた。飲んだくれて帰ってきても、ジェーンがちっとも嫉妬してくれないので、自分は愛されていないではないかとトラビスは疑心暗鬼に陥った。やがて子供(ハンター)ができた。トラビスは酒を辞め、真面目に仕事に励むようになったが、ジェーンは「子供を産ませて自由を奪った」とトラビスを責めた。トラビスはジェーンが逃げないように足首に鈴を付け、ベルトでストーブにくくりつけた。ある日、帰宅すると家が炎に包まれており、妻と息子の姿はなかった。トラビスはその場から逃げ出し、ジェーンはハンターをウォルト夫婦に預けて行方不明になった。

 初めてこの映画を観たのは、日本公開から2年後の1987年頃だったと記憶している。当時京都の洛北にあった京一会館という二番館で観たのだが、残念ながら京一会館は1988年に惜しまれて閉館した。当時この作品について書かれた記事の中に「愛の不可能性」を描いた映画だという批評があり、何故かこの言葉がいつまでも胸に残っていた。お互いに愛し合っているのに愛が成就しない、むしろ愛が壊れていくという事態をどう考えたらよいのか。

 テキサスの砂漠で救出され、ウォルトの家に住むようになったトラビスは、徐々に日常を回復していった。ある日、トラビスはウォルト夫妻には何も言わずに、ハンターと一緒にジェーンを捜す旅に出た。トラビスはジェーンがヒューストンにある覗き部屋のような風俗店で働いているのを見つける。ジェーンと再会したトラビスはハンターを託し、一人でまた旅に出た。ハンターもジェーンもトラビスを暖かく迎えており、二人とも今なおトラビスを愛しているように思える。それなのに、どうしてトラビスは三人で一緒に暮らさないのか。自分の心が抑制できず、また妻を束縛してしまうのを恐れているのか。愛し合っているのに愛が成就しないむずかしさがここにある。
 トラビスは父親として無責任だという意見もあるだろう。現在ならメンタルクリニックで、妄想、依存、記憶障害、失語等の症状があるDV加害者とみなされるかもしれない。しかしこの映画ではトラビスの苦悩を人間誰でもが持っている苦悩として描いている。個人的な愛の問題を普遍的で根源的な愛の問題に昇華し、愛の不可能性として提示しているのだ。
 気になるのはジェーンとハンターのこれからだ。ジェーンはどうやって一人でハンターを育てていくのだろうか。ジェーンはトラビスに何故ハンターと一緒にいなかったのかと問われた時に、「自分が何もしてやれないのがわかった。空しさを埋めるための代償にしたくなかった」と答えている。おそらくジェーンも子育てに<しんどさ>を抱え、愛の困難さに苦しんでいる女性だと思われる。幸いウォルトとアンはハンターをとてもかわいがっており、また弟夫婦に子育てを助けてもらうこともできるだろう。こういう類の愛もあるのだと思う。
 トラビスも彼なりの愛し方をしているのだと思いたい。愛は成就しなかったが、愛がないわけではないし、希望がないわけでもない。トラビスとジェーンとハンターの愛を「愛のひとつの形」ととらえるなら、この作品は「愛の不可能性」ではなく、「愛の可能性」を描いた映画だということになるが、解釈は個々の観客に委ねたい。(KOICHI)

原題: Paris,Texas
監督: ヴィム・ヴェンダース
脚本: L・M・キット・カーソン  サム・シェパード
撮影: ロビー・ミューラー
出演: ハリー・ディーン・スタントン
ナスターシャ・キンスキー ハンター・カーソン