Jan.24-2 2006 藤娘

2006年01月24日 | 風の旅人日乗
1月24日 火曜日

昨日23日の夕方、ボートショー展示用の文章がまとまらないまま午後5時近くなり、慌ててバスに乗って逗子駅に行き、東京世田谷の奥沢に向う。
咋日は6時半から、今年1年のセーリング計画を練りながらの楽しい食事会。
場所は、油壺のセーリングの大先輩Tさんが奥沢で経営している、秘密の隠れ家風小料理屋さん。職業料理人であるから当たり前のことなのだが、Tさんの料理は最高である。

揃ったのは、いつものT取締役、I部長。セーリングの仕事で1月はじめからフィリピンに行っていたO嬢は、知り合いのプライベートジェットに乗せてもらって成田に6時過ぎに着陸して、そのまま奥沢に直行してきた。

今夜の主役は、藤娘。
四国・高知の四万十市(旧・中村市)の、江戸時代から続く由緒ある酒蔵から出てきた、純情可憐な日本酒である。
清流・四万十川の伏流水を使って仕込んだこの日本酒は、さらりとした旨口だ。

旨口。うまくち。故・開高健氏のファンならご存知だと思うが、開高氏は、旨口の日本酒を求めつつ、現代日本の日本酒の味の荒れ具合を嘆いておられた。生前、開高氏がこの日本酒に出会っていたら、この酒についてどんな感想を述べられたことだろうか。

藤娘は、きちんとした主張ある味を持っていながら、喉を通り過ぎた後に、口の中にどんな濁りも残さない。もちろん、ベタツキなどとは無縁の世界だ。
いい日本酒はいいもんだ。日本人に生まれてよかった。本当の日本酒は、日本が世界に誇れる文化の一つである。この伝統を我々は、日本の伝統を否定してきた一つ上の世代の人たちの失敗を補う世代として、次の世代に残していかなければならない。

日本の海洋文化もそうなのである。
かつて日本には世界に誇るべき海洋文化があった。
1万2000年前の世界最古の造船用の石器は日本から出土している。
6000年から4000年前、縄文人はセーリングで八丈島や小笠原まで行っていた。
縄文土器は、南太平洋のバヌアツや、アメリカ大陸のエクアドルでも見つかっている。
そして江戸幕府が、自身の鎖国政策遂行の目的で、その記憶をほとんどの日本人から奪い取った。

日本人は、血統的に海洋民族なのだ。ただし、300年近く日本を支配した為政者によって、海洋民族だった記憶を意図的に削除されてしまった民族なのだ。
我々の祖先は、優秀な海洋民族だったのだ。

そのことに気付いた者の一人として、自分は自分のセーリング活動を通じて、日本の伝統航海術、海洋文化を再び日本の人たちに思い出してもらう活動を進めていかなければいけない、と強く感じている。
そしてそれは、アメリカズカップの本質を踏まえた、日本からのアメリカズカップ挑戦に、間違いなく繋がるものなのである。
そのように、ぼくは完璧に確信しているのである。

今日は、7時から東京・恵比寿の映画制作会社に行き、打ち合わせがある。これも、その、自分の信念に基づいた活動の一環なのだ。

Jan.24 2006 本質

2006年01月24日 | 風の旅人日乗
1月24日 火曜日 

写真は昨日に引き続いて、相模湾沿岸の小部屋から見る今日の富士山です。

2月9日から12日まで幕張で開催される東京国際ボートショーで『Team Nishimura Project』 の紹介パネルを展示する機会をもらうことができた。ここのところずっと、そのパネルで表現する「Team Nishimura Project」とは何か? 「Team Nishimura」とはどんな集団なのか?といった文章の案を考えている。

2月の始めに行かなければいけない海外出張の段取りとか、4月に始める仕事の準備とかが重なり、一つのことについて集中して考える時間が細切れになり、ボートショーで展示するパネルの内容がなかなかまとまらなくて困っている。

短く、端的に言ってしまえば、Team Nishimura Projectの最終ゴールは、
『日本の海洋文化を背負ったアメリカズカップ挑戦を実現する』だ。
であるのだが、しかし、過去の日本のアメリカズカップ挑戦とは一線を画した挑戦であることを知ってもらわなければならない。

過去の日本のアメリカズカップ挑戦と、それについての華やかな報道は、確かにそれなりに意義のあることだったと思う。ぼくがチームに入れてもらえた2000年の大会でも、その挑戦のおかげで我々日本人セーラーはセーラーとしていっそう進化することができた。

しかし同時に、日本の過去の挑戦は、日本の中に負の遺産も残してしまっていると、自分自身の反省も含めて言わなければならない。

過去の日本のアメリカズカップ挑戦と、それについての報道から、日本にはアメリカズカップについての間違った観念が蔓延してしまっているとぼくは感じている。「アメリカズカップ」という言葉を出してしまうと、一瞬にして「ああ、あのアメリカズカップね」と、その間違った観念でくくられてしまうのだ。

日本の報道が強調してきた「お金がかかるヨットレース」、「乗っているのは、相撲取りのような力持ちで大男ばかり」というアメリカズカップ観は、アメリカズカップの本質から程遠いものだ。
この観念に捉われてしまうと、アメリカズカップの本質を知ろうという気さえ起こらなくなる。「どうぞ、ご勝手に」となってしまうのだ。

2000年の日本からの挑戦を、そのセーリング・チームの一員として日記風のノンフィクションにして出版した。それらの文章を本にする前に、雑誌に連載記事として書き続けた。
そして、実際の海の上での挑戦と、そのことを書き綴るという作業を通じて、自分には、この、アメリカズカップという、すべてのスポーツの中で歴史上最古のトロフィーを競うスポーツの本質が、見えてきたように思うのだ。
その本質を知った上でこのトロフィーに挑戦しなければ、到底勝つことはできないだろうし、また、参加する意味さえない、と確信するようになったのだ。