Jan.2 2006 抱負に代えて

2006年01月02日 | 風の旅人日乗
1月2日 月曜日

正月休みに、今まで書き溜めた原稿をのんびりと整理している。
その時代その時代の自分が、それらの文章の中にいて、面白い。
意外と健気に、普遍的な夢を持ち続けていることに気が付き、少し自分を励ましたくなった。

その中から今日は、2001年にある雑誌に書いたエッセイを読み返し、子供の頃からの夢を再確認して、この1年の抱負にしようと思う。

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ぼくは、幼年期から少年時代を玄界灘に面した福岡県の小さな町で過ごした。冬になると強い北西の季節風が吹き続け、当時の玄界灘では毎年のように海難事故が発生していた。

育った町には海上保安庁の支部があった。小学校5年生の冬、保安庁のすぐ横の浜で野球をして遊んでいるとき、海難に遭った船員の遺族の人たちが、花束をその海に手向けに行くために、泣きはらした目で保安庁の船に乗り込む光景を見た。今でも鮮明にその遺族の痛々しい表情を思い出すことができる強烈な記憶だ。

そしてその場で、どういった思考経路からなのか、今になってはまったく不可解なのだが、「俺も船で海に出る仕事をしよう」と強く決心してしまったのだ。
それ以前から、「大きくなったら飛行機のパイロットか船乗りのどっちかだなぁ」と思ってはいたが、その瞬間に海のほうに決まった。

国際航路の船長になるつもりで東京商船大学の航海科に入り、そこにヨット部があってセーリングを知ることになった。
入学直後に行われた葉山・森戸での合宿で、スナイプ・クラスの艇に乗った。南風を左舷に受けて走り始めた船の、船首すぐ後ろのチャインから出てくる波の形と音の美しさに悩殺された。

この合宿ではしかし、ヨットレースという競技に心底幻滅した。我々の大学の木製スナイプは6人か7人がかりで持たなければならないほど重いのに、隣ではFRP製の新しいスナイプを3,4人で軽々と運んでいるのだ。
出艇前、我々の薄汚れたセールはナヨナヨと力なく風にそよいでいたが、すぐ横の有力校の真っ白いセールはパリパリと、まったく違う音ではためいていた。はじめっから有利不利のある道具で勝ち負けを競う競技など、スポーツとは言えない、と思った。

そのうえ当時の学連体育会ヨット部のレースのスタートでは、スターボード艇と風下艇はひたすら周りの船に対して自分の権利を大声で怒鳴り続け、時にはウイスカーポールを振り回したり、なぜだか怒って相手艇に乗り移ろうとしている場面さえ見受けられた。まっとうなスポーツではなかった。

夏の合宿の練習は面白かったが、秋の合宿には、ウエットスーツを買うお金が勿体なかったこともあって参加しなかった。勝てる可能性のないヨットレースには、どうしても興味が持てなかった。1年生の2月に、先輩から23フィートの外洋ヨットを買い、それを機に正式にヨット部を辞めた。

この、当時船齢13年で半分沈みかけていた23フィート艇のデッキを、何人かの仲間と一緒に張替え、木製マストを補強し、エンジンを分解・修理し、内装を整え、セールを繕って、東京のキャンパス内にあるポンドから、大学の研修施設がある房総半島・富浦まで合宿に出かけたりしていた。

「ヨットのような優雅な乗り物で勝ち負けを競うことに違和感があるから」、という理由でヨット部を辞めさせてもらったくせに、合宿中のヨット部が打った練習用のブイを回ったりして一緒に遊ばせてもらっていた。半自作のような自分たちのヨットを自在に操ることに恍惚感を覚えたのだ。
4年生の夏には、『無法松』と名づけたこのヨットで、3週間をかけて、郷里の北九州、小倉まで帰った。

大学卒業前の遠洋航海実習での9ヶ月間、南半球に行ったり、帆船でハワイに行ったりしながら、子供のときに決めた自分の生き方をどのように実現するかを考えた。
セーリングから離れたくない、という気持ちが思ったより強くなっていた。
会社に管理される大型本船乗りではなく、本来の意味でのセーラーになろうと思った。
帆船時代のセーラーは船乗りそのものを意味したが、現代ではその言葉はヨット乗りを指す。

職業としてセーラーになるのなら世界1周レースに出られるぐらいの能力を持った腕っこきのセーラーにならなければなぁ、と考え、当面これを目標にすることにした。これが、当面ではなく今に至るまで自分の人生の真ん中を貫く1本の遠い道になってしまい、まだ目標にたどり着けずにいる。

自分が目標とするセーラーになるためには、選り好みせずあらゆるヨットレースに出て腕を磨くのが近道だろう、と思ってその道に精進した。
28歳のときにはスキッパーとして小笠原~東京レースに優勝したりもしたが、もっと近道は外国で修行を積むことだと考え、自費で海外レースに乗せてもらったり、ニュージーランドに修行に出かけたりした。

現在の自分のセーリング技術やレースへの心構えなどのほとんどは、それらの外国で何人かのアメリカ人セーラーと多くのニュージーランド人セーラーたちから教わった。
セールを正しく理解するためにセール・デザインを学びそれを職業とした時期もある。

今までの人生の中で幾つかの大切な分かれ道に出会ったが、自分がそのどちらの道を選ぶかの基準はいつも“海へ出ることができる、セーリングができる”ほうの道だった。それが今までの自分の生きかたを肯定し、アイデンティティーを支える唯一の方法だったし、それに自分はまだ、夢の途中だからだ。

何年か前、ぼくはノンストップ世界一周最短記録に挑戦しようというフランス艇〈タグホイヤー〉のクルーに日本人として選ばれたことがある。
そのカーボン製の全長150フィートのモノハル艇がテストセーリング中に壊滅的なダメージを負ってしまったことでそのプロジェクトは中止になってしまったが、それが、ぼくが今までの人生で自分の夢に最も近づいた瞬間だった。

現役として身体が動くうちに自分の夢、というか目標は達成できるのか!? 自分のことながら手に汗を握る思いではあるが、いつかはそのゴールに行き着くさ、と信じているし、その頑張りの過程で同じ夢を持つ若者に出会える楽しみだってある。

実は最近になって、自分が以前よりも増してセーリングが大好きになっているということに気が付いた。地球に広がる青い海をセーリングで自在に走るときの喜びは他の何物にも換えがたいのだ。