1月27日 金曜日
昨夜は、U野さんのお宅で、大変美味しい食事と大変楽しい時間をご馳走になった。
U野さんは地元、葉山生まれの葉山育ち、生粋の葉山っ子。
小さな頃から海に親しみ、それが縁で三宅島にも拠点を持つようになり、故・ジャック・M先生と二人三脚で三宅島の海の自然を子供たちに触れさせる活動をしていたほか、日本全国を舞台に子供たちと海を繋ぐ活動をしている人。
U野さんと、シーカヤッカーのU田と、ぼくの共通の知り合いである沖縄慶良間諸島座間味島のO城さんが、東京出張に併せてU野さんのところに泊りに来る、というので、U野さんの主宰するNPO、Oファミリーのスタッフ一同やO城さんの関東の知り合いなどが、葉山公園近くのU野さん宅に集合した。ぼくは夜道を歩いてお宅に伺い、U田は町境の向こうの横須賀市側から自転車でやってきた。
U野さんの奥さんと、Oファミリーの女性スタッフがすばらしいご馳走を作ってくださり、泡盛と薩摩焼酎の瓶がテーブルの上を頻繁に行き来する、とても楽しい時間だった。
お互いが海に関わる今後の計画や夢を語り合い、途中の道筋は違っても、行き着きたいところは共通であることを再確認することができた、すばらしい時間だった。
ぼくとU田は、嬉しさのあまり、宴会お開きのサインのコーヒーが出てきたのも気が付かず、焼酎を飲み続けて迷惑をかけた。奥様、スタッフの皆様、ごめんなさい。
冷たい風が吹き荒れる暗い夜道を一人、ポカポカとした気持ちでニコニコ顔で歩いて帰った。
しかし、まあ、これで今週は、月、火、水、木と4日連続して夜半を過ぎての帰宅である。
これについても少しは反省しよう。ごめんなさい。
さて、昨日に引き続き、今日は、マグロ漁文化の語り部、斉藤健治さんインタビュー中篇を以下に掲載します。
―――――――――――――――――――
斉藤健次
ニッポンのマグロ漁文化の語部(かたりべ) (中篇)
文=西村一広
極限の海で見つけた人生
斉藤健次は1947年、東京都渋谷区富ヶ谷で生まれた。
父親は外国航路の船のコックだった。その影響なのか、子供の頃から海や冒険にまつわる本を読んだり、江の島まで海を見に行ったりすることが好きだった。中学生、高校生になっても、貨物船を見ては外国に夢を馳せたりしていたが、仕事として海に出ることは考えてもみなかった。
「自分が船に乗れるわけがない」。なぜかそう信じ込んでいた。
漫画家になりたいと思っていたが、真剣にその道を目指すこともなく、広告代理店に就職した。その会社でデザインの仕事をしたいと思っていたが、営業に配属された。しかし真剣にデザイン部門への移動を目指すこともなく、転職して雑誌記事の企画や取材、企業PR誌編集などの仕事をするようになった。
転機は28歳のときに訪れた。
仕事が減り、収入が減った。編集やライターという仕事にも行詰まりを感じていた。将来に大きな不安を覚えるようになっていた。
転職を考えたとき、子供の頃から憧れていた海を思い出した。海の向こうに自分の未来もあるような気がした。その頃新聞で読んだ、高知の遠洋マグロ漁船についての記事が頭に残っていた。
船員教育を受けてない自分は貨物船には乗れないだろうが、マグロ漁船なら、身体ひとつで乗れるはずだ。マグロを追って世界の海を走り回る船乗りの生活を経験すれば、人生が見えてくるかも知れない。
マグロ船の労働がひどく苛酷だということもその記事で知っていたが、金を稼ぐために工事現場で働くくらいなら、いっそ海で、マグロ漁船で稼ごう。そう決心した。
遠洋マグロ漁船の職を求めて四国に渡った経緯や、高知県内のスナックで住み込みのバーテンとして働きつつ、料理の勉強をしながら船に乗るチャンスを1年半も待った日々のことは『まぐろ土佐船』に詳しく書かれているので割愛するが、四国まで行ったあとに決心が揺らいでも東京に戻れないように、東京での拠点や所有物すべてを処分して、自分自身の逃げ道を塞いだ。
斉藤健次の初航海は1978年の3月。
遠洋マグロ漁船に乗ろうと決心して四国に来てからすでに1年半が経ち、斉藤は30歳になっていた。中学や海員学校を出てすぐに乗るのが一般的なマグロ船では、斉藤は例外的に歳を取った新米だった。しかも東京から流れてきた余所者である。狭い船内での22名の共同生活に溶け込んでいくには、相当の覚悟と努力が必要だった。
船のことはさっぱり分からなかった。手伝おうとしたことが逆に皆の仕事の邪魔をした。先輩たちのロープさばきが神がかり的に思えた。操業中、船が揺れると立っていることができず一人で甲板を転げまわった。それが他の皆を苛立たせた。
しかし、それで落ち込んだり自分一人の世界に逃避することはできない。他に行く場所のない洋上生活で、仲間から孤立してしまうことは絶対に避けなければいけなかった。
22人全員が完璧に仕事ができる人間であっても、決して船内社会がうまくいくわけではないことに斉藤は気付くようになった。一所懸命やっているのに少し間が抜けていたり、殺気立つ皆を苦笑させるような役回りを演じる人間がいることで、逆に船内の空気が和む。
斉藤は裏方に徹した。誰よりも早く起きて全員のコーヒーを作った。操業中、手を休める暇がない船員たちに火のついたタバコを配って回った。皆が休んでいる間に便所掃除をした。斉藤の「一所懸命」は同僚たちの心に伝わっていった。都会から来た年嵩の新人は、こうして仲間から認められていった。
その最初の航海で、コック長が体を壊して外地の寄港先で船を降り、斉藤はその代役に抜擢された。仲間たちが強く推薦してくれたのだ。
マグロ船に乗る日を待つ間、高知県内の定食屋で料理の勉強をしたことが役に立つことになった。その航海以降、斉藤は誠心誠意を込めた料理を仲間たちに出す努力によって、遠洋マグロ漁船のコック長という確固たる自分の居場所をつかみ取った。
遠洋マグロ漁船の生活で斉藤健次がまず驚いたことは、生活のリズムが陸の生活とまったく違うことだった。
操業中以外、漁場へ向かう航海中、船員たちは寝てばかりいる。しかし漁場に着いて操業開始のベルが鳴るや否や、彼らの生活は一変する。マグロが釣れ始めると、操業は1ヶ月、2ヶ月と休みなく続く。
延縄を揚げる作業は、長いときは20時間もかかる。縄を揚げた後は、釣れたマグロが暴れて絡んだ縄を解いたり、次の漁で使うエサを解凍したり、釣れた後に急速冷凍庫に入れておいたマグロを船倉に移したり、という作業が延々と続く。
その作業の間に船は投縄場所に走り、着いたらすぐに全長150キロに及ぶ延縄を海に流していく作業が始まる。漁がある限り、この労働が繰り返し果てしなく続くのだ。だから、漁が途切れて次の漁場を求めて船が移動を始めると、船員たちは各自のベッドにもぐり込み、カーテンを閉ざしてひたすら眠る。操業中と打って変わって船内は静寂に包まれる。
マグロが掛る限り、遠洋マグロ漁船はどんな嵐でも操業を続ける。
南半球の真冬、5月~7月がミナミマグロの盛漁期である。この時期に水温の低い南緯40度以南で獲れるミナミマグロは抜群の品質で、値も高い。
真冬の南緯40度線以南は低気圧の墓場であり、海はほとんどいつも荒れている。気温は摂氏零度以下になり、海水も凍るように冷たい。氷山が浮かぶ海での操業も珍しくなく、オーロラの下での操業もある。海がオキアミの群で真っ赤になっていることもある。
それらは素晴らしく神秘的な光景だが、それをのんびり見ている暇は、操業中のマグロ漁師たちにはない。
寒さでかじかみ、野球のグローブのように腫れた手を、ドラム缶に沸かした湯の中に突っ込んで感覚を取り戻しては漁を続ける。操業の合間を縫って交代で食堂に入って飯をかっ込むときにも、その手は箸をうまく持つことが出来ない。
海が荒れ過ぎて危険だと判断すると操業を一旦中止する。大波に向かって微速で前進し、船を「支える」。波を横から受けて転覆するのを防ぐのだ。どれくらいの嵐で操業を中止するのか。
斉藤の著書には「気圧が930㍊(=ヘクトパスカル)まで下がった」という記述がある。強い台風でも中心の気圧は960~970㍊程度である。930㍊と言えばとんでもない低気圧だ。
大抵の時化など平気な海鳥たちも、このクラスの嵐になると海面から巻き上げられる海水で息が出来ないのか、腹を上にして顔を上空に向けた「背面飛び」でその嵐を凌いでいるのだという。
こんな海まで来るのは日本船だけである。台湾船をはじめとする外国のマグロ船は決してこの海には来ない。「『日本人にうまいマグロを食べさせたい』という日本のマグロ漁師たちの心意気が、この海に向かわせるんでしょうね」と、斉藤は語る。
(後編に続く)
昨夜は、U野さんのお宅で、大変美味しい食事と大変楽しい時間をご馳走になった。
U野さんは地元、葉山生まれの葉山育ち、生粋の葉山っ子。
小さな頃から海に親しみ、それが縁で三宅島にも拠点を持つようになり、故・ジャック・M先生と二人三脚で三宅島の海の自然を子供たちに触れさせる活動をしていたほか、日本全国を舞台に子供たちと海を繋ぐ活動をしている人。
U野さんと、シーカヤッカーのU田と、ぼくの共通の知り合いである沖縄慶良間諸島座間味島のO城さんが、東京出張に併せてU野さんのところに泊りに来る、というので、U野さんの主宰するNPO、Oファミリーのスタッフ一同やO城さんの関東の知り合いなどが、葉山公園近くのU野さん宅に集合した。ぼくは夜道を歩いてお宅に伺い、U田は町境の向こうの横須賀市側から自転車でやってきた。
U野さんの奥さんと、Oファミリーの女性スタッフがすばらしいご馳走を作ってくださり、泡盛と薩摩焼酎の瓶がテーブルの上を頻繁に行き来する、とても楽しい時間だった。
お互いが海に関わる今後の計画や夢を語り合い、途中の道筋は違っても、行き着きたいところは共通であることを再確認することができた、すばらしい時間だった。
ぼくとU田は、嬉しさのあまり、宴会お開きのサインのコーヒーが出てきたのも気が付かず、焼酎を飲み続けて迷惑をかけた。奥様、スタッフの皆様、ごめんなさい。
冷たい風が吹き荒れる暗い夜道を一人、ポカポカとした気持ちでニコニコ顔で歩いて帰った。
しかし、まあ、これで今週は、月、火、水、木と4日連続して夜半を過ぎての帰宅である。
これについても少しは反省しよう。ごめんなさい。
さて、昨日に引き続き、今日は、マグロ漁文化の語り部、斉藤健治さんインタビュー中篇を以下に掲載します。
―――――――――――――――――――
斉藤健次
ニッポンのマグロ漁文化の語部(かたりべ) (中篇)
文=西村一広
極限の海で見つけた人生
斉藤健次は1947年、東京都渋谷区富ヶ谷で生まれた。
父親は外国航路の船のコックだった。その影響なのか、子供の頃から海や冒険にまつわる本を読んだり、江の島まで海を見に行ったりすることが好きだった。中学生、高校生になっても、貨物船を見ては外国に夢を馳せたりしていたが、仕事として海に出ることは考えてもみなかった。
「自分が船に乗れるわけがない」。なぜかそう信じ込んでいた。
漫画家になりたいと思っていたが、真剣にその道を目指すこともなく、広告代理店に就職した。その会社でデザインの仕事をしたいと思っていたが、営業に配属された。しかし真剣にデザイン部門への移動を目指すこともなく、転職して雑誌記事の企画や取材、企業PR誌編集などの仕事をするようになった。
転機は28歳のときに訪れた。
仕事が減り、収入が減った。編集やライターという仕事にも行詰まりを感じていた。将来に大きな不安を覚えるようになっていた。
転職を考えたとき、子供の頃から憧れていた海を思い出した。海の向こうに自分の未来もあるような気がした。その頃新聞で読んだ、高知の遠洋マグロ漁船についての記事が頭に残っていた。
船員教育を受けてない自分は貨物船には乗れないだろうが、マグロ漁船なら、身体ひとつで乗れるはずだ。マグロを追って世界の海を走り回る船乗りの生活を経験すれば、人生が見えてくるかも知れない。
マグロ船の労働がひどく苛酷だということもその記事で知っていたが、金を稼ぐために工事現場で働くくらいなら、いっそ海で、マグロ漁船で稼ごう。そう決心した。
遠洋マグロ漁船の職を求めて四国に渡った経緯や、高知県内のスナックで住み込みのバーテンとして働きつつ、料理の勉強をしながら船に乗るチャンスを1年半も待った日々のことは『まぐろ土佐船』に詳しく書かれているので割愛するが、四国まで行ったあとに決心が揺らいでも東京に戻れないように、東京での拠点や所有物すべてを処分して、自分自身の逃げ道を塞いだ。
斉藤健次の初航海は1978年の3月。
遠洋マグロ漁船に乗ろうと決心して四国に来てからすでに1年半が経ち、斉藤は30歳になっていた。中学や海員学校を出てすぐに乗るのが一般的なマグロ船では、斉藤は例外的に歳を取った新米だった。しかも東京から流れてきた余所者である。狭い船内での22名の共同生活に溶け込んでいくには、相当の覚悟と努力が必要だった。
船のことはさっぱり分からなかった。手伝おうとしたことが逆に皆の仕事の邪魔をした。先輩たちのロープさばきが神がかり的に思えた。操業中、船が揺れると立っていることができず一人で甲板を転げまわった。それが他の皆を苛立たせた。
しかし、それで落ち込んだり自分一人の世界に逃避することはできない。他に行く場所のない洋上生活で、仲間から孤立してしまうことは絶対に避けなければいけなかった。
22人全員が完璧に仕事ができる人間であっても、決して船内社会がうまくいくわけではないことに斉藤は気付くようになった。一所懸命やっているのに少し間が抜けていたり、殺気立つ皆を苦笑させるような役回りを演じる人間がいることで、逆に船内の空気が和む。
斉藤は裏方に徹した。誰よりも早く起きて全員のコーヒーを作った。操業中、手を休める暇がない船員たちに火のついたタバコを配って回った。皆が休んでいる間に便所掃除をした。斉藤の「一所懸命」は同僚たちの心に伝わっていった。都会から来た年嵩の新人は、こうして仲間から認められていった。
その最初の航海で、コック長が体を壊して外地の寄港先で船を降り、斉藤はその代役に抜擢された。仲間たちが強く推薦してくれたのだ。
マグロ船に乗る日を待つ間、高知県内の定食屋で料理の勉強をしたことが役に立つことになった。その航海以降、斉藤は誠心誠意を込めた料理を仲間たちに出す努力によって、遠洋マグロ漁船のコック長という確固たる自分の居場所をつかみ取った。
遠洋マグロ漁船の生活で斉藤健次がまず驚いたことは、生活のリズムが陸の生活とまったく違うことだった。
操業中以外、漁場へ向かう航海中、船員たちは寝てばかりいる。しかし漁場に着いて操業開始のベルが鳴るや否や、彼らの生活は一変する。マグロが釣れ始めると、操業は1ヶ月、2ヶ月と休みなく続く。
延縄を揚げる作業は、長いときは20時間もかかる。縄を揚げた後は、釣れたマグロが暴れて絡んだ縄を解いたり、次の漁で使うエサを解凍したり、釣れた後に急速冷凍庫に入れておいたマグロを船倉に移したり、という作業が延々と続く。
その作業の間に船は投縄場所に走り、着いたらすぐに全長150キロに及ぶ延縄を海に流していく作業が始まる。漁がある限り、この労働が繰り返し果てしなく続くのだ。だから、漁が途切れて次の漁場を求めて船が移動を始めると、船員たちは各自のベッドにもぐり込み、カーテンを閉ざしてひたすら眠る。操業中と打って変わって船内は静寂に包まれる。
マグロが掛る限り、遠洋マグロ漁船はどんな嵐でも操業を続ける。
南半球の真冬、5月~7月がミナミマグロの盛漁期である。この時期に水温の低い南緯40度以南で獲れるミナミマグロは抜群の品質で、値も高い。
真冬の南緯40度線以南は低気圧の墓場であり、海はほとんどいつも荒れている。気温は摂氏零度以下になり、海水も凍るように冷たい。氷山が浮かぶ海での操業も珍しくなく、オーロラの下での操業もある。海がオキアミの群で真っ赤になっていることもある。
それらは素晴らしく神秘的な光景だが、それをのんびり見ている暇は、操業中のマグロ漁師たちにはない。
寒さでかじかみ、野球のグローブのように腫れた手を、ドラム缶に沸かした湯の中に突っ込んで感覚を取り戻しては漁を続ける。操業の合間を縫って交代で食堂に入って飯をかっ込むときにも、その手は箸をうまく持つことが出来ない。
海が荒れ過ぎて危険だと判断すると操業を一旦中止する。大波に向かって微速で前進し、船を「支える」。波を横から受けて転覆するのを防ぐのだ。どれくらいの嵐で操業を中止するのか。
斉藤の著書には「気圧が930㍊(=ヘクトパスカル)まで下がった」という記述がある。強い台風でも中心の気圧は960~970㍊程度である。930㍊と言えばとんでもない低気圧だ。
大抵の時化など平気な海鳥たちも、このクラスの嵐になると海面から巻き上げられる海水で息が出来ないのか、腹を上にして顔を上空に向けた「背面飛び」でその嵐を凌いでいるのだという。
こんな海まで来るのは日本船だけである。台湾船をはじめとする外国のマグロ船は決してこの海には来ない。「『日本人にうまいマグロを食べさせたい』という日本のマグロ漁師たちの心意気が、この海に向かわせるんでしょうね」と、斉藤は語る。
(後編に続く)