Jan.8 2006 海洋生物の記憶

2006年01月08日 | 風の旅人日乗
1月8日 日曜日

Hマリーナヨットクラブの、今年最初のクラブレースに参加した。
今年も熱く燃えるMレース委員長の下、Hマリーナヨットクラブの人たちのレース熱は冷めることを知らない。

真っ白な雪を5合目くらいまで深く被った富士山を見ながらの寒い海でのレースに、28隻もの参加艇が集まった。
朝起きて、あまりの寒さに驚いて、海に出るのはやめようかなと思っていた自分が恥ずかしくなる。

口うるさい西村スキッパーなのに、昔の熟年仲間、新しい若い仲間に集まってもらって、とても楽しいレースになった。

今日のメンバーを紹介すると、
フォアデッキ 東京工業大学大学院出身。シドニー・ホバートレースで日本艇最上位記録保持者(総合3位)。現在、東芝原子力部門の雄、I部長。51歳。

マスト 渋谷松涛の理髪店の息子で、青山学院大学アメリカンフットボール部元キャプテン、現コーチのN君、35歳。

ピット 同志社大学ヨット同好会出身。元からす中核クルー。某一流コンサルタント会社を自主退社して、現在起業準備中のH。45歳。

トリマー 高校生の頃から外洋ヨットに乗り、現在はお茶の水のK記念病院医局長の要職にあるD先生。45歳。

メインセール ヨットのプロを目指して、現在は逗子マリーナのレース艇AのオーナーM氏の会社で働かせてもらいつつチャンスを狙っているK。25歳。関東学院大学ヨット部出身。

タクティシャン Kの同期。チームレース世界選手権に連続して挑戦している茨城の熱き刺客。実家の八百屋さんを手伝いながら、ヨットレースというスポーツをどのように自分の人生に取り入れていくか、試行錯誤中の25歳。

こうして書いてみると、改めて、自分は、一緒にセーリングしてくれる人に恵まれていることに感謝しなければいけないな、と思う。
ありがとう。

さて、明日からヨーロッパ出張。
最新のワンデザインボートでの楽しいセーリングが待っている。
それなので、1週間ほどブログ日記お休みします。

冬の寒さの中で頑張ってセーリングしている人たちに、暖かい海を走る楽しいレースの思い出を書いたエッセイを、下に転載します。
サントリー株式会社の優秀な広報部が作っている、素晴らしくおしゃれな雑誌、『サントリークオータリー』に書かせていただいた原稿です。もし時間があれば読んどくれ。


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ランドフォール
          覇者の美酒

西に向かって太平洋を疾走する艇の舳先と帆の間から、意外な熱を持った強い光が甲板を直射する。溶けた金塊を思わせる太陽が、正面の海に落ちていこうとしている。

その光と同じ色に染まった水面に舳先が突き刺さり、次の瞬間、艇はうねりに乗って一気に加速する。左右の舷側から噴水のような飛沫が舞い上がる。

艇の四方を取り囲む水平線の少し上空に、底辺をスパリと切り揃えた綿菓子のような雲が幾つも、行儀良く並んでいる。貿易風帯に特有の雲。ロサンジェルスをスタートして以来、何度目かになる夕暮れが近づいている。

太陽が水平線の向こう側に消える一瞬、その上端が緑色に閃く。グリーン・フラッシュだ。雲がなく、視界が良く、クッキリとした水平線に太陽が沈まない限り、グリーン・フラッシュを見ることはできない。

それを最後の挨拶として、その日の太陽が姿を消す。しかしその天体が発する光はそのあと、水平線の向こう側から、こちら側の空と雲を染め始める。時には、天体が姿を消した西の空とは反対側の、東の空までをその光が染めることもある。

それまで青一色だった空の色は橙色から朱色へ、そして紫へと変わり、上空の雲の形や高さによって、それらの色が空全体へ無作為に飛び火する。

甲板の上では夜航海の準備が始まっている。次の四時間の当直を受け持つクルーたちが甲板に上がってくる。舵取りはナビゲーターから指示される針路を確認する。
操帆担当のクルーは明るいうちに索具、帆、帆綱の具合を点検する。昼間であればなんでもない些細な事故も、夜間に起きると人命に関わる事故へと発展しかねない。

そこまで深刻な事態にならなくても、一分一秒を争う外洋レースでは、帆装関係に発生する不具合は、そのまま敗北に繋がってしまう。

艇の位置は、ロサンジェルスとハワイ諸島オアフ島を結ぶ大圏コースの少し南。ダイヤモンドヘッド沖のゴールラインまで残り1000海里を切っている。トランスパック・レースという、百年近い歴史を持つ、伝統の外洋レースである。

当直の引継ぎが終わると、それまでの四時間、オアフ島に向けて一秒でも早く艇を走らせることに没頭していたクルーたちが、非番になって艇の中に入る。栄養一点張りの味気ない食事を済ませ、汗の染みた、共同で使う寝棚に潜りこんで、次の当直までの、短い休憩に入る。

五感を研ぎ澄ませて風と海に対峙し、艇と人間の帆走能力すべてを動員して勝ち負けを競う外洋レースに、酒が入り込む余地はない。休息中であっても、クルーたちは常に、甲板に飛び出して風と海に立ち向かえる態勢でいなければならないのだ。

ミッドナイトブルーに塗り込められた空一面に、まるでコンピュータ・グラフィックスで描いたような非現実さで、膨大な数の星が輝いている。
天上を通って空の端から端へ、一筋の白い薄雲がかかっている。天の川だ。帯状に密集してこの銀河を構成する一つ一つの星は、太陽系から遠すぎて小さく霞む。それらの星の濃密な群が、まるで薄い雲のように見えるのだ。

風を知るための風見を照らす赤い電球が、艇の中央からそそり立つ帆柱の上端に薄ぼんやりと光っている。艇がうねりに乗るたびに帆柱が前後左右に揺れ、その淡い赤灯が天然のプラネタリウムの中を不規則に回る。
目に入る人工の灯かりはその風見灯と、意外な高速で時折空を横切る人工衛星の灯火だけだ。それを除けば、原始の時代と同じ夜空が水平線の際まで広がっている。
帆を揚げて宇宙の只中を航海しているような錯覚さえ覚える。

夜に入って一段と強くなった貿易風で波立つ海面は、星の光を映すことなく、ぬめった黒色だ。

大波に持ち上げられた艇が疾走して波を蹴立てるたびに、船首が切り裂く海水と、船尾から伸びる澪の中で、夜光虫が妖しく青白い光を放つ。
高速で走る艇のすぐ近くの水中が不意に青白く光るのは、そこにいた大型の海洋生物が艇の接近に驚いて、海水を激しく掻き乱したからだ。

背後から雲が迫る。それを伝える見張りの声。甲板上が緊張する。この雲は、激しい雨と突風をもたらす。

外気温が急速に下がり大粒の雨が落ちてくる。ほとんど同時に、それまでより一段階も二段階も強い風が吹き込む。その風が帆に入り、帆が張り裂けんばかりに膨らむ。帆走艇にとって、危険だが船足を稼ぐ絶好の機会でもある。

この突風はそれまでの風とは異なる方角から吹き込むことがある。
貿易風帯の雲の下では、この、予測困難な風向の変化こそが、帆走艇にとっての曲者だ。急激な風向変化の対応に手間取ると、帆が深刻な損傷を受ける。最悪の場合は帆柱を失うことさえある。
帆走艇が帆柱を失っても、それが理由で直ちに遭難するわけではない。応急の帆柱を立てて目的地に向かうことも可能だ。しかし、レースでの上位成績は、帆柱を失った時点で諦めなければならない。

突風と豪雨の中、最大限の艇速を保つ努力が甲板上で続けられている。風の変化に呼応して帆綱を調節し直す。必要があれば帆を張り替える。状況によっては、ついさっき休憩に降りたばかりの非番のクルーも甲板に飛び出してくる。
全員でこの小さな嵐に立ち向かう。

雲が艇の上空に留まるのは長くて三、四十分ほど。その雲が去ると、宇宙と直接繋がっているかのような星空が再び天を覆う。
船首が切り裂く水の音と、船尾から噴き出る波の音だけに支配される静寂が戻ってくる。
雨具を着る間もなく甲板に出て、ずぶ濡れになった非番のクルーたちが船室に戻る。温かい飲み物を胃に流し込んで身体を暖め、残り少なくなった休憩時間を惜しんで睡眠をむさぼる。

日付が変わって数時間、西に向かって走り続ける艇の真後ろ、東の空が白み始める。闇に溶けていた海面は鈍色として明度を取り戻すが、色彩はまだ戻ってこない。

東から広がった頼りない明かりは、やがて薄桃色となって空全体を覆うようになり、大気が温もりを帯び始める。生命の時間が戻ってきた安堵感。甲板にいるクルーたちの表情が、少し緩む。
艇は相変わらず順調に、海面を滑るように走っている。

艇の後ろは、いつの間にか茜色に染まり、ほどなく、空と海の隙間から、眩い光がはしゃぐようにして漏れ出してくる。
疾走し続ける艇の船尾から伸びる、泡立った航跡の上で、その蜜柑色の光が乱舞する。

無彩色だった海面はいつの間にか群青色を取り戻している。深く、濃く、それでいて吸い込まれるように透明な青。  

高度を持ち始めた太陽からの光線は、何の抵抗もなく海水を通り抜け、海中深く向かったまま戻ってこない。光を反射する粒子さえない、透明すぎるほど透明な太平洋の海水が艇の周囲を満たしている。
 
何日目かの朝。周囲の水平線に浮かんでいる雲とは明らかに別種の雲を、艇の左前方にクルーの一人が発見する。
島の上には、大洋の真ん中に浮かぶ雲とは異なる形の雲が湧き上がる。
太平洋を東から吹き渡ってきた貿易風が島に当たって上昇し、その風に含まれていた水分が結露して雲になる。ハワイ諸島すべての島の東側地域に降り注ぐ豊かな雨は、この雲がもたらす。
その雲の方向を凝視するクルーたちの目に、水平線から僅かに盛り上がった薄墨色のシミが見えてくる。

ランドフォール!
陸地発見!

マウイ島とモロカイ島である。

Land Fall! それはコロンブスの時代から船乗りたちの心を浮き立たせる言葉だった。それは、現代の外洋レースでも変わらない。水棲生物の縄張りである海から、人間が不安なく呼吸し生息できる陸の世界へ。

それまでの当直制が解かれ、クルー全員が甲板に出る。オールハンズ・オン・デッキ。
全員が余力を絞り出し、艇を走りに走らせ、ゴールラインを目指す。しばらくするとオアフ島が、別の雲の下に見えてくる。ゴールのダイヤモンドヘッドは、その左端辺りにあるはずだ。

太陽が沈み、それまでの日々と同じように美しい太平洋の夕焼けが始まっている。しかしその夕焼けは、もはや原始のそれではない。
オレンジ色に染まった空を背景に、ダイヤモンドヘッドの輪郭が、黒くクッキリと影絵のように浮き上がっている。その右側の斜面、ホノルル市郊外に広がる住宅地に、人の肌の温もりを感じさせるナトリウム灯と、家々の明かりが規則正しく並んでいる。

二週間の航海で海洋生物になりかけていたクルーたちは、人里を恋焦がれる普通の人間に帰りつつある。
帆綱を操り、舵をさばき、ゴールに向けて艇を走らせることに集中しながらも、クルーたちの心は海から離れている。今はもう、人の住む世界、今夜の場合はとりわけ、人で溢れる酒場に、一刻でも早く身を置きたいと考えている。

ゴールラインをくぐり抜けて、ハワイ・ヨットクラブに舫いを取る。
二週間ぶりの一杯でもある祝杯に、何を選ぶか。それを何処で飲むか。
桟橋からそのままヨットクラブの階段を駆け上がり、二階のバーのカウンターで「ビールを!」と叫ぶか。
それともホテルで熱いシャワーを浴びたあと、ワイキキビーチのパブ『デューク』で、よく冷えたマルガリータから始めるか。

バーやパブのさんざめきに溶け込んでそれらの酒のグラスを重ねる夜が明けると、それがまるで何かの儀式だったかのように、原始の海を渡ったセーラーは、航海の記憶さえおぼろになって、現代を生きるビジネスマンの顔で目を覚ますのだ。