歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

あの子の字

2024年11月20日 | 日記

子供の頃に比べてここのところ文字を書く機会が格段に減っている。

昔は出かける際メモ帳は必須だったけれど、今はメモもスマホに残す時代だ。

それもずいぶん前から。

私だってわざわざ時代に逆行したいわけじゃないが、

文字を書く時間はつくるようにしている。

なぜなら字を書くのが好きだから。

細かく言うといい紙にユニボールシグノの0.38で文字を書くのが好きなのだ。

紙の手触り、臭い、滲むインク、ボールペンの書き心地、増えていく文字、

これらを上から確かめるのがある種の快感なのだ。

趣味というほどではないけど、欠かせない暮らしの一コマである。

 

私は声は小さいが字はでかい。

だから必然的にノートもでかくなる。

小学校で使う最初のノートがB5だからか、

みんな何の疑いもなく「ノート=B5」だと思っているけれど、

B5って縦も横も全体のバランスも中途半端なんだよな。

私には手狭なのでいつもA4を使っている。

 

私は毎日日記を書くので多くの現代人より文字を書いていると思う。

どんどん字を書くことに慣れていくので、どんどんスラスラ書けるようになる。

向上心もあるので、スタイルが出来てきて「なんかいい感じ」にもなってくる。

そしてついに「私、字うまくね?」となったのだ。

 

でも本当にそうだろうか。

雰囲気イケメンと同じで、雰囲気字綺麗じゃないのか。

これを確かめる方法がある。

いつも横書きなら縦書きで、いつも縦書きなら横書きで書いてみるとよくわかる。

案の定、縦書きになった途端バランスが崩れ目も当てられなくなる。

私は別に習字の先生みたいに字がうまくなりたいわけじゃない。

日々文字について考え書いて確かめているだけだ。

ただ字を書くことに臆したくないのだ。

なぜなら字を書くのが好きだから。

 

私は人の字を見るのも好きだ。

でも個性のない綺麗な字はあまり好きじゃない。

なぜなら文字に滲み出る人間性に興味があるからだ。

丸っこい字、雑な字、綺麗だけど読めない字、妙にとんがった字。

ぎゅうぎゅう詰めに書く人、字と字の間が広い人、本当にいろいろだ。

筆跡鑑定なんてものがあるくらい、人の字というのは根強い個性なんだな。

そういう意味では「個性のない綺麗な字」から読み取れる人生もあるか。

 

私は幼馴染のあの子が書く字が好きだった。

彼女の字を家族以外で私ほど見た人もいないだろう。

小学校1年生の冬に引っ越してから高校3年までずっと文通をしていたからね。

途切れた期間もあったけれど、付かず離れず緩やかに続いていた。

高3になっても彼女の字は決してうまくならなかった。

 

なんて言ったらいいのか、不器用だけどおおらかな字。

一文字一文字はバランスが悪いのに、それが連なると不思議と調和している。

一文字一文字が独立しているから、

縦書きだろうが横書きだろうが斜め書きだろうがきっと変わらないのだろう。

便箋を一枚の絵としてみたら、それこそ「いい感じ」なのだ。

誤字も多いし、当たり前のように絵も入っている。

今見返すと小学生の頃からあまり変わらない。

上手いとか下手の外にある字。

彼女は字も絵も書くのが好きだった。

だから、私は彼女の字も絵も好きだったのかもしれないな、と今思う。

 

『ダ・ヴィンチコード』の最後の5ページが読めなくて内容を忘れた、

サラダばっかり食べて私は虫だ、虫の中でもイモムシだ、

書きたい事がいっぱいあるけど書いてしまったら「佐々木さんの自伝」になってしまう、

とか独特のユーモアで今読んでも笑ってしまう。

未だにその「佐々木さん」が誰なのかわからないけれど。

「最近のピザはすごい」と言ってピザを図解した手紙は名作として手元に置いてある。

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黒沢清監督『cloud』を観てきました

2024年10月04日 | 映画

頭が痛くてぼーっとするのでスッキリしたくて、衝動的に映画を予約した。

よく行く映画館のサイトで黒沢監督の『cloud』を見つけて飛び上がった。

これ観たかったやつ!

『蛇の道』も『chime』も間に合わなかったから『cloud』こそは!

それにしても黒澤監督はすごいペースで映画作っているね。

結論、超ー面白かった。

そして黒澤監督の映画はリアルタイムで観るとよりいいかもしれない。

 

 

 

主人公は工場で働く転売屋。

無表情で何事にも無関心そうな主人公は、転売時の液晶にのみ真剣な眼差しを送る。

食い入るような菅田将暉の目が印象的だ。

仕入れたものを利益が出るように売る。

物自体に興味はなく、ただ高く売ることだけが重要事項だ。

そこに照準を合わせることで欠如していく(そもそも欠如している)コミュニケーション。

雑に扱われた人々の仕打ちに見合わない憎悪、そこに乗っかる軽薄な快楽、

浅はかなプライド、よくわからない執着が彼を追い詰めていく。

そして彼の命を救うのもまたよくわからない忠誠心なのだ。

 

文句なく面白い。

タイトルが「cloud」というくらいだから、ネット社会のことを描いているんじゃないかな。

というかそう考えると、一見突拍子もない展開につじつまが合う。

ネット空間ではそれくらいよくわからない感情がうずまき、支離滅裂なやりとりが行われ、

攻撃することや人の痛みに対する感情が鈍化し、悪意が増幅させられる。

助手の佐野くんの存在も大きい。

味方であっても意味不明なのだ。

彼がバックの犯罪集団をにおわせたのはなぜかと考える。

思わぬ場所に暴力的な犯罪の入り口があるってことなのかな。

当たり前のような顔で行われる暴力に主人公も麻痺していき無感情になっていく。

ネットなんてバーチャルでしょとも言ってられない時代になってきたから、

生身に下りてきた彼らを関係のない人たちと割り切ることもできない。

 

ドキッとするセリフがいくつかあった。

商品に対し「本物か偽物かはどうでもいい」という主人公。

なるほどな、、なんだかとても的を射ていると感じた。

何に対してなのかはぼんやりしているけど。

ずっとマスクを被っている岡本天音に対して「いつまでそれ被ってんだ」っていうのも印象的だった。

よく耳にする価値観だし凡庸な気がしたのだけど、そういえばこの人たち顔晒しているけど大丈夫なのかと気づく。

顔を隠さないというのはさらに次の段階なのでは?

マスクを被り怯えている彼が少しまともに見えるのも面白い。

自分が希薄なんだ、この人たち。

人とコミュニケーションを取れないどころか、自分とも取れないんだ。

 

映像が冷たくてきれいで、黒澤監督の空気を感じることができて嬉しかった。

なぜかホッとするんだよな。

菅田将暉の背中が何度も繰り返し出てくるんだけど、その度になんとも言えない不気味さに身震いした。

なんだろう、怖いんだよな。

あきことバスに乗っている時に黒い大きな人が横切って音が消えるんだけど、あそこもゾクッとした。

あそこから加速度的に面白くなっていったんだよな。

後半のアクションシーンも地味でバカバカしくて痛々しくちょっぴり笑える、それでいて非情。

もう本当幸せな時間だった。

医療機器のおじさんが銃弾を落としてもたついているシーンは情けなくて好きだった。

 

黒澤監督がこの話にどういう決着をつけるのか気になったけど、なるほどそうきますか。

幻想的で好きな終わり方だった。

彼らはどこに向かっていくのかな。

地獄か。

 

売れっ子俳優が主演だから大丈夫かなと少し心配だったけどそんな心配はどこ吹く風。

菅田将暉は画面力があるんだなぁ、と改めて感心した。

それから岡山天音くん、彼はもうなんというかすごい!

「こいつコロース」はあまりにうまくてゾクッとした。

それから助手の佐野くん役の奥平大兼くんもよかった。

というか俳優みんなよかったな。

黒沢清監督が今の若い人を使っていることがなんだか嬉しい。

 

何回も観たいと思える面白い映画でした。

cloudという言葉には雲という意味もあるけど、大群だとか大勢とかいう意味もあるらしい。

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夫と虫の話

2024年07月09日 | 日記

「そろそろ行くから、行ってきます」

そう言いながら、夫は寝室で仮眠をとるらしい。

目が覚めて私の部屋に顔を出し、

「じゃあ、行ってきます」

しばらくして今度は階段の下から大きな声で、

「行ってきます」

間髪入れず、

「ケータイ無くしたから鳴らして!」

下の部屋に行きケータイに電話をかける。

「あった、ありがとう!行ってきます」

下に行ったついでにシンクにたまった皿洗い。

夫は洗面台で歯でも磨いているのかまだ気配がある。

気にせず嫌いな食器洗いに没頭しているとキッチンの扉が開き、

夫は変わらず大真面目な顔で言う。

「行ってきます」

これには吹き出してしまった。

何回言えば気がすむのだろうか。

離れるたびに今生の別れでも覚悟しているのか、

はたまた言い忘れない為の保険か、出くわすごとに確実に言葉にする。

その度に私は大真面目な顔で「行ってらっしゃい」と言う。

力を込めて「運転、気をつけて」と付け加える。

 

夫が家を出てしばらくして、床を這う小さな虫を発見した。

右に左にうねうね体をうねらせて歩く黒くて細長い虫。

頭は丸く尻尾は二手に別れていた。

少し懐かしい感じがした。

なんとなく頭の中に「オケラ」という言葉が浮かんだ。

オケラってなんだっけ?

不思議な形に不規則な動き。

こんなの見たら虫嫌いの夫は発狂するだろうな。

最近YouTuberのうごめ紀さんの動画をよく見ているのもあって、

形状や色がわかりにくい一見見所のなさそうな虫も悪くないと思い始めたところ。

紙に乗せて玄関から外に出した。

 

それからNetflixで友達一推しのドラマを見ていたら、

猫が横でうずうずソワソワしはじめた。

これは何か発見したな?と思いカーペットをめくったら、

案の定小さな虫がテテテと歩いていた。

よく見たらゴキブリの子供じゃないか。

コンバットを置いているのに珍しい。

大きくて黒々としたゴキブリはやはり苦手だけど、

小さいのはまだ他の虫と大差ない。

爪でカーペットの外に弾くと猫が追いかけた。

しかし手は出さない。

じーっと離れたところから観察している。

この臆病者〜。

さっきと同じように紙に乗せて玄関から外に出した。

これってまた戻ってくるよなとチラリよぎったけど、

ゴキブリですら殺す気分にならなかった。

 

扉を閉めて戻ろうとすると、視界の片隅で何かが光った。

タイルの上にテカテカした筋が一本、その先に小さなナメクジが丸まっていた。

なんだ、なんだ、何事だ?

3連続の侵入者に関連性を求めてしまう。

何かが起こる予感めいた、ファンタジックな香り。

ざわざわとわくわく。

普通だったら見逃してしまうような生き物たちの気配に私も敏感だった。

これはレイチェルカーソンの言ったセンスオブワンダーみたいなものでは。

そう思いつつ本はまだ読んでいない。

ただなんとなくセンスオブワンダーという言葉がしっくり来る。

 

その後特に何かあったわけではない。

きっと先日の大雨の影響で生き物たちもそれぞれ蠢いているのだろう。

ひと段落してスマホで調べるとさっきの虫はオケラだった。

不思議だな。

覚えている限り実家を出てからオケラのことを思い出したことはない。

実家にいたころだってオケラに注目したことはない。

それでも懐かしさとともに記憶が戻ってくる。

どういう動きをするのか知っている。

最近のことなんだよね。

ホウセンカの実を見てそれが弾くことを知っていたし、

小さな黒い虫を見て「コメ」というワードが浮かんだと思ったら、

コメツキムシだったり。

子供の頃の記憶が、生き物をきっかけに蘇ってくる。

それを取り巻く景色がぼんやり浮かんでくる。

ゴミムシがなんでゴミムシというのか気になって追いかけまわしたり、

跳ねるのが面白くてコメツキムシをしつこく触って死なせてしまったり。

忘れるって、消えるってこととは違うんだな。

 

家に虫がいるとギョッとするのはわからなくもない。

テリトリーへの侵入はそれが何であろうと違和感はある。

そのテリトリーが広すぎて、他を寄せ付けないようになってしまっている。

でも虫やいろんな生き物はそこに確実に存在していて、

人間の意思とは関係なく勝手にやっている。

それは人間にとってある意味希望なんじゃないかな。

それぞれ好きな絵本。

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フュリオサのこと

2024年07月03日 | 映画

「思い出の反芻は目減りのしにくい娯楽だ」と言った人があったけど、

懐かしさを添えるだけで極上の娯楽になるのは何故だろう。

「最も好きな映画は?」と問われ思いつくいくつかは、子供の頃に見た映画ばかり。

見た当時の風景や、空気のようなものまで一緒にラッピングされている。

思い入れは時間と共に熟成されていくのだ。

 

そんな中ノスタルジーなど関係なくリアルタイムの衝撃だけで私の映画ライフに食い込んできた映画がある。

『マッドマックス 怒りのデスロード』だ。

無防備に見た私は度肝を抜かれた。

製作者のはち切れんばかりの情熱を浴びて、すっかりその熱に当てられた。

全ての場面を食い入るように見て、いちいち反応しいちいち感動した。

最初のシーンからビシバシ伝わる「尋常ではない」感。

 

『七人の侍』や『スターウォーズ』を公開当時に見た人たちの衝撃に近いのかもしれない。

こんな世界は知らない、とんでもないものを見せられている、その現場に立ち会っている興奮だ。

 

その物語を引っ張っているのがシャーリーズセロン演じるフュリオサだ。

ああ、だめだ、カッコ良すぎる。

虐げられている女たちを、1人の女がさ、救おうと戦う姿に私は涙が出るんだよ。

私の嫌いな言葉に「男のロマン」というやつがある。

ロマンを男だけのものにしやがってといつも悔しい気持ちになるのだ。

そこへきてフュリオサは女のロマンだよ。

私は孤独なかっこいい女が本当に好きなんだ。

泣き言ひとつ言わない、屈強で決して折れない女。

女を救うのは女だよ。

 

だから彼女が膝を降りへたり込む場面で私はいつも号泣してしまう。

映画は彼女がイモータン・ジョーを裏切る場面から始まるけど、

そこに至ったであろう苦境と孤独を勝手に想像してやりきれなくなるのだ。

それでも立ち上がる。

生きていく。

 

そこで一匹狼マックスの己との戦いが交差して、一緒に強大な敵に立ち向かうわけだ。

初めて見た時はトム・ハーディのマックスにあまり興味がなかったのに、見るたびに魅力的に見えてくる。

マックスと対等に渡り合える女になりたいね。

心で完全に信頼していなくても、技量がありお互い見定めることができれば背中を預けることができる。

プロフェッショナルなのだ。

マックスに限らず、登場人物一人一人が自分の役割を理解していて実行する力を持っている。

ウォーボーイの端っこの一人でさえ車に献身しているのだ。

 

フュリオサとマックスに引っ張られ、

最初守られるだけだった女たちまでもが戦い自分たちで生きる道を獲得していく。

ウォーボーイの一人に過ぎなかったニュークスの己を取り戻す戦いに涙。

思い出すだけで胸が熱くなる。

あまりに突き抜けた、感情的で特別な映画だ。

 

 

映画『フュリオサ A MADMAX SAGA』はずっと待っていた。

公開日が発表されてから、大げさでなく指折り数えて待っていた。

万全の状態、最高の環境で観たいから体調にも気をつけ座席は予約可能日の深夜0時すぎにとった。

もちろん公開日のIMAXシアターだ。

 

1回では消化できず2回見に行った。

というのも1回目観た時は『怒りのデスロード』を超えるヴィジュアルインパクトを期待していたので、

あまりの予想外な話に面食らってしまったのだ。

本当ジョージ・ミラー監督に失礼なことをした。

この9年の現実世界の変容たるや、もはや別の世界と行ってもいいくらい大きい。

その中で同じようなド派手な爽快ヒーロー物語をつくっても意味がなかったのか。

前作のフュリオサ然り、主のために美しく散るウォーボーイ然り。

生々しく地を這う若き日のフュリオサを、決してヒーローにしなかったんだな。

苦しいな。

こういうところに創作者の凄みを感じる。

 

子供時代が長いという話があるけれど、私は子供時代がとても好きだった。

導入部の緊張感とワクワクはすごい。

何と言ってもフュリオサの母ジャバザの圧倒的なかっこよさにノックアウト。

この母の魂がシャーリズセロン版フュリオサにも受け継がれていくんだね。

母との約束には序盤にもかかわらず涙が出た。

ここから孤独な戦いがはじまったんだね。

そしてディメンタスとの変な関係性も面白い。

力がないゆえ外部の環境に振り回されあっちにいったりこっちにいったり。

ディメンタスってなんか嫌いになれないんだよな、愛嬌があるからかな。

 

私の願いは一人でいいからマックスみたいなかっこいい男が出てきて欲しかったということ。

ジャックではだめだ。

彼は優秀で優しい普通のいい男に過ぎない。

この男とずっと一緒にいたらダメになりそうだなとすら思わせる。

マックスみたいな超人的なかっこいい男が側にいたらと思うけれど、それではヒーロー物語になってしまうか。

それに男に助けてもらうようでは、フュリオサは生まれない。

かっこいい男といえば敵方のオクトボスはとてもよかった。

マスク姿も素顔もかっこいいしカリスマ的な雰囲気がある。

部下を大切にしていて信頼もされており、何より戦い方が最高。

冒頭ディメンタスの基地の空にたなびいていた黒い蛸(凧)がタンクの後ろに現れた時は感激した。

そういうことだったの!?と。

どれだけ楽しませてくれるの。

 

マッドマックスシリーズでとても好きなのが、敵の親玉が自分で運転するところ。

1のトーカッター、2のヒューマンガス、『サンダードーム』のアウンティ・エンティティ、

そして『怒りのデスロード』のイモータンジョーに今回のディメンタス。

バイクはわかるんだけど、偉そうな奴が車を自ら運転するって本気度が伝わって愛着がわく。

ディメンタスが愛車のシックス・フットに乗り込んで、運転手を押しのけ自分でハンドルを握る場面は特に好きだ。

顔を歪ませ、大きい体に力を込めて小さなハンドルを一生懸命握って、

それがズームアウトしていくとバックでは炎が燃え上がっている。

怖いし、かっこいいし、面白いし、ちょっと可愛い。

その荷台には部下が二人乗っていて笑ってしまう。

 

クライマックスになるかと思った40日戦争は昔の絵画風ダイジェストで、

しっかり描かれていたのはフュリオサとディメンタスの対峙。

じりじりと追い回し、ついには追い詰めた。

復讐か、そこはいまいちピンとこなかった。

人権など捨て置かれた砂漠の世界で、人一人の命がどれだけの重さなのか私にはわからない。

ジャバザは想像するに「母」であり、村の支柱的存在でもあったんじゃないかな。

フュリオサの誇りだったんだろう。

だから母を殺した相手を許さないのは理解できる。

しかし、その相手がディメンタスというのがなんだかしっくりこない。

うまくいえないのだけど復讐の相手として適切じゃない気がする。

空っぽだから苦しめたところで意味がないような。

そういう意味でも私にとってディメンタスとは掴みにくい不思議なキャラクターなのだ。

よく見るようで見たことのない悪役。

「お前は俺と同じだ」という彼の言葉が今も心の中でザラついている。

何度でも見よう。

それだけの奥行きがある。

 

ディメンタスのバイクを馬のようにつないだ乗り物を見た時、子供の頃に見た『ベン・ハー』を思い出した。

あれは馬を何頭かつないだ馬車だったと思う。

それが煙を立てて闘技場を走り回る場面は今でもよく覚えている。

英語を話す人に言わせると台詞の中に古代ローマに関する言葉がちょくちょく出てくるらしい。

神話的な物語となるべく仕掛けが細部に描かれているんだねぇ。

 

最後、ウォーリグに乗り込むフュリオサと女たちの姿が描かれ、

エンドロールはそのまま『怒りのデスロード』に突入していく。

前作ファンにはたまりませんな。

映画館で『フュリオサ』を見た後、帰って『怒りのデスロード』を見た話はよく聞くけれど、

私は帰って『MADMAX』『MADMAX 2』『サンダードーム』を3本立てで見た。

朝『怒りのデスロード』を見てから映画館に行ったので、1日で5本見ちまった。

1ヶ月以上前の話だけど、なんともいい一日だったな。

ジョージ・ミラー79歳か、まだ映画作れそう。

大人しく待っています。

映画館でポスターとステッカーをもらった。こういうのはすぐ貼る。

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悪は存在しない

2024年05月03日 | 映画

珍しく夫が渋谷に映画を見に行こうと言ってきた。

東京だと渋谷か下北でしか上映していない映画らしい。

そういう突発的な欲求を大切にしたいから、なんの情報もなかったけれど了承した。

 

『悪は存在しない』というタイトルの邦画を誰が見に来るんだろう、

なんて思ったけれどまぁまぁ大きなシアターがほぼ満席で驚いた。

見終わって知ったのは『ドライブマイカー』監督の最新作で、

ヴェネチア映画祭では銀獅子賞をとったのだとか。

 

話題性は置いておいて見終わったあとの夫の反応が面白かったので書いておく。

以下ネタバレあり。

 

『悪は存在しない』

監督:濱口竜介
音楽:石橋英子
映画脚本:濱口竜介
撮影:ヨシオ・キタガワ
 
 
 
物語は怖いほど静かに淡々と進む。
 
進んでいるのかすらわからない。
 
美しく不穏な音楽が終始流れてはぶつ切りされて、こっちのリズムを崩される。
 
主人公が森で拾った長い羽を見て「これはヤマドリか、キジだな」と思ったら、
 
羽をもらった先生がセリフでそのまま同じことを言っていて、自分の山育ちを思い返し少し笑った。
 
子供の頃晒された自然のざわめきや手に負えない不条理を今はすっかり忘れている。
 
 
 
静けさと得体の知れない怖さがこのまま続いたらどうしようという不安は、
 
都市から持ち込まれたグランピング計画といういかにも胡散臭い話でいつの間にか薄れていた。
 
一方的で杜撰な計画が妙に現実的でこっちの世界に引き戻されるのだ。
 
ああやっと動き出した、という安心は正常なのだろうか。
 
2日後にキャンプを控える身としてはなんともタイミングの悪いこと。
 
決まっているから進めなければならない、
 
誰も求めていないのに動くお金のためだけに不合理な道へ行かなければならない、
 
本当にそれがいいと思っている人はいない、
 
そういう日本の社会の縮図みたいなものがあるような気がした。
 
 
 
芸能事務所の社長とコンサルタントの話の通じなさみたいなものが使い捨てにされていて面白かった。
 
あの嫌な感じを大事にしないんだな。
 
ある意味でスカッとする。
 
 
 
そしてあの衝撃のラスト。
 
鹿打ち、鹿の水飲み場、鹿の道。
 
グランピング建設予定地の原っぱはなんだか侵してはいけない神聖な場所にも見える。
 
花ちゃんの動かない背中と鹿の親子。
 
こちらを向く鹿の顔がとても怖いと感じたのは私だけじゃないだろう。
 
走りだそうとする高橋さんを羽交い締めにする巧。
 
へっ?
 
なななな何事?
 
そして冒頭につながる長い森のショットと息遣い。
 
 
 
エンドロールが短くて「?」を抱えたまま立ち上がろうとすると、
 
隣に座っていた夫が顔を手で覆って立ち上がろうとしない。
 
端っこの席だったし人が通るからと促すと重い腰をあげた。
 
体調が悪いのか相当参っているようだった。
 
私はあまりにも唐突なエンディングに混乱したけれど、
 
どうも見る者によっては唐突というわけでもなかったようだ。
 
何せ夫にとってはとても明確にすんなり終わったというのだから驚きだ。
 
そしてそれがわかってしまう自分が怖いとおののいていた。
 
「自分の話になってしまう」と言っていて、余計わからなくなった。
 
鑑賞後の重い腰は、どうやら相当ショックを受けての姿だったようだ。
 
後でポスターを確認するとコピーが「これは、君の話になる」だったので二人で目を丸くした。
 
えーーーーずるい。
 
一定数の人がこの物語を共有できるのに、そこに私はいない。
 
こんな体験も珍しい。
 
どんな映画だってはっきりわからなくても「ふーん、なるほどね」くらいは思うのに、
 
今回ばかりは「へっ?どういうこと??」だからね。
 
頭で理解しようとしすぎたかな。
 
面白いのは曖昧なようで明確だということ、というか明確らしいということ。
 
夫にとっては衝撃な映画体験だったようで、帰り道もまだ怯えていた。
 
多分、自分に。
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