最近人に勧められて2011年の人気アニメ『STEINS;GATE(シュタインズゲート)』を全話観た。
アニメやマンガに対する探求心は比較的強い方だと思う。
それは映画や音楽、小説、その他芸術に対する姿勢となんら変わりない。
好き嫌いの境界は極端で、人からすれば「よく分からん」といったところか。
特に好きなアニメは大友克洋の『AKIRA』、押井守の『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』。
これだけでだいたいの趣味嗜好が把握出来そうなものだ。
絵、脚本、構図、動き、音、全ての要素が完璧な調和を保ち、人々を絶対的な空間の中に埋没させる。
ストーリーは複雑かつ難解で、見た人が共有出来る事実なんてほとんどない。
分からないものが分からないまま感覚に訴えかけてくる不可解な快感。
もはや物語は作り手から離れ制作から数十年経った今も、受け取り手の中で膨張し続けている。
私の趣味は置いておいて、話は『STEINS;GATE(シュタインズゲート)』を観ている時に起きた出来事。
少しだけネタバレになるので観る可能性のある人は読まない方がいいかも。
シュタインズゲートは2009年に発売された同名のゲームソフトを原作として制作された。
たった3人の発明サークルでタイムマシンの研究にいそしむ主人公。
その小さな世界で繰り広げられる壮大な時空変遷物語。
天才の加入により完成したタイムリープマシンで意識を過去に送り最悪の未来を変えるべく奔走する。
そんな話だったこともあってか、鑑賞の過程で奇妙な出来事に遭遇した。
話の発端は一緒に観ていた同居人Kとその後のストーリーの展開について話していたこと。
Kが確信に近づく大筋を予想し、私がそれに対し具体的に誰がどうなるかという予想を付け加えた。
私の予想はKの予想あっての話だが、自分で考えて自分で言ったということには確信を持っている。
話は佳境に入り2人の予想が的中したことが分かった。
そこで「やっぱり!私が言ったことが合ってた!」と喜ぶと、Kがあっけにとられた顔をしている。
そして私を訝しむ顔で「それ俺が言ったことだよ。」と言い放った。
あまりにも相手が確信に満ちた顔をしているので、私はこの人頭可笑しいんじゃないかと思った。
あれは確かに私が言ったことだ!
しかし残念なことに相手も本気で私と同じことを考えている。
タイムマシンがない限り事実を突き止めることができない。
過去とは不思議なもので記憶の中にしかないのだ。
記憶とは驚く程に曖昧で信用に値せず、それにより事実もおぼつかない。
今回のような場合人は話し合って事実を一つにしようとするが、それはやめておいた方がいいような気がする。
もちろん簡単に勘違いと納得して終わる場合は良いが、そうでない場合はある意味危険だ。
というのも片方の記憶に一致を図ったところでそれは表面的な事実にすぎず、
実際には譲歩した片方の過去が否定されるも同然であり、それは現在の人格をも否定しかねない。
繰り返すが実際に過去に戻らない限り真実は分からない。
いくら話し合いで一時的な折り合いをつけたところで、それは自己満足の域を出ない。
そしてお互いが記憶する事実が適合せずともなんということなく未来はやってくる。
それならお互いがお互いの事実を尊重し、それ以上押し付けないという空漠たる選択をしてもいいのではないだろうか。
と言っても実際にそれを実施するのはとても難しい。
それは「記憶違い」に対してお互いがこの考えを共有するということ自体がそもそも不可能に近いからだ。
今回はお互いがお互いに納得できないまま、相手に対して不信感だけを残し話は終わった。
まぁ話は終わったのだからそれでもいいか。
そういう意味ではちょっと乱暴だがお互いがお互いを同じレベルで否定するというのもありかもしれない。
アニメやマンガに対する探求心は比較的強い方だと思う。
それは映画や音楽、小説、その他芸術に対する姿勢となんら変わりない。
好き嫌いの境界は極端で、人からすれば「よく分からん」といったところか。
特に好きなアニメは大友克洋の『AKIRA』、押井守の『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』。
これだけでだいたいの趣味嗜好が把握出来そうなものだ。
絵、脚本、構図、動き、音、全ての要素が完璧な調和を保ち、人々を絶対的な空間の中に埋没させる。
ストーリーは複雑かつ難解で、見た人が共有出来る事実なんてほとんどない。
分からないものが分からないまま感覚に訴えかけてくる不可解な快感。
もはや物語は作り手から離れ制作から数十年経った今も、受け取り手の中で膨張し続けている。
私の趣味は置いておいて、話は『STEINS;GATE(シュタインズゲート)』を観ている時に起きた出来事。
少しだけネタバレになるので観る可能性のある人は読まない方がいいかも。
シュタインズゲートは2009年に発売された同名のゲームソフトを原作として制作された。
たった3人の発明サークルでタイムマシンの研究にいそしむ主人公。
その小さな世界で繰り広げられる壮大な時空変遷物語。
天才の加入により完成したタイムリープマシンで意識を過去に送り最悪の未来を変えるべく奔走する。
そんな話だったこともあってか、鑑賞の過程で奇妙な出来事に遭遇した。
話の発端は一緒に観ていた同居人Kとその後のストーリーの展開について話していたこと。
Kが確信に近づく大筋を予想し、私がそれに対し具体的に誰がどうなるかという予想を付け加えた。
私の予想はKの予想あっての話だが、自分で考えて自分で言ったということには確信を持っている。
話は佳境に入り2人の予想が的中したことが分かった。
そこで「やっぱり!私が言ったことが合ってた!」と喜ぶと、Kがあっけにとられた顔をしている。
そして私を訝しむ顔で「それ俺が言ったことだよ。」と言い放った。
あまりにも相手が確信に満ちた顔をしているので、私はこの人頭可笑しいんじゃないかと思った。
あれは確かに私が言ったことだ!
しかし残念なことに相手も本気で私と同じことを考えている。
タイムマシンがない限り事実を突き止めることができない。
過去とは不思議なもので記憶の中にしかないのだ。
記憶とは驚く程に曖昧で信用に値せず、それにより事実もおぼつかない。
今回のような場合人は話し合って事実を一つにしようとするが、それはやめておいた方がいいような気がする。
もちろん簡単に勘違いと納得して終わる場合は良いが、そうでない場合はある意味危険だ。
というのも片方の記憶に一致を図ったところでそれは表面的な事実にすぎず、
実際には譲歩した片方の過去が否定されるも同然であり、それは現在の人格をも否定しかねない。
繰り返すが実際に過去に戻らない限り真実は分からない。
いくら話し合いで一時的な折り合いをつけたところで、それは自己満足の域を出ない。
そしてお互いが記憶する事実が適合せずともなんということなく未来はやってくる。
それならお互いがお互いの事実を尊重し、それ以上押し付けないという空漠たる選択をしてもいいのではないだろうか。
と言っても実際にそれを実施するのはとても難しい。
それは「記憶違い」に対してお互いがこの考えを共有するということ自体がそもそも不可能に近いからだ。
今回はお互いがお互いに納得できないまま、相手に対して不信感だけを残し話は終わった。
まぁ話は終わったのだからそれでもいいか。
そういう意味ではちょっと乱暴だがお互いがお互いを同じレベルで否定するというのもありかもしれない。