先日喫茶店で人とコーヒーを飲んでいた時のこと、
なんでかサッカーの話になりドイツびいきの私はドイツ人選手の名前を並べながらあーだこーだ言っていた。
クラブワールドカップでレアルマドリードが来ていることもあり、レアルに在籍する唯一のドイツ人選手の話になった。
「ほら、あの背が高くて顔が六角形で上品な感じの彼、名前なんだっけ?イケメンのパスミスしないさぁ、ほら」
「さぁ?」
相手はさして興味がないようで、仕方がないのでiPhoneで調べようとポケットをさぐるとどうやら家に忘れてきたらしい。
そういえば、分からないことがあるといつもすぐネットで調べるなあ。
思い返してみれば、最近分からないことや知らないことが少なくなった。
それは私が誰もが羨む優秀な脳の持ち主なんかではなく、インターネットですぐに調べるから。
インターネットにアクセス出来る状態が常に側にあるというのは、知識の倉庫を常に持ち歩いているようなものだ。
だから必要以上にものを覚える必要がない。
でもそれでいいのだろうか。
最近「覚える能力」や「思い出す能力」が弱くなっているように感じるのはこういったことが原因かもしれない。
片手でスイスイ指を走らせるだけで欲しい情報が手に入るのだから、覚えることや思い出すことに執着がなくなっていく。
「あれ〜何だっけ?誰だっけ?」ともやもやする時間すらない。
何かをネットで調べていると、つい先日も同じことを調べていたことにふと気づき愕然とするのだ。
「覚える力」を育むためには、ものを覚える努力をしなければいけないし、
「思い出す力」を育むためには、思い出す努力をしなければいけない。
努力っていうと少し大げさだけど、当たり前にネットを常備している今、そういう問題に意識的になる必要がある。
子どもの頃にたくさんの言葉を覚えたのは脳が柔軟だったから、と現在を卑下する必要はない。
今はそういうことに対し結果的に消極的になっているだけのこと。
子どもの頃は「覚える」というこにも「思い出す」ということにも積極的だった、いや積極的にならざるを得なかった。
日本の学校は覚えることを基本としているから、子どもにとってはそれが仕事のようなものだ。
物を知らないから真っ白いノートに書き込んでいくようなやりやすさはあるだろう。
そういうと大人の脳は既にたくさん書き込まれたノートだから、
消しゴムで消すか開いているスペースを探すという手間があるわけだがそんな大したことでもあるまい。
また、ただ単に無知であるが故、物事を理解するには調べて覚えるしか方法がなかった。
なんとなく予想してスルーするという効率的なずるができない。
忘れもしない『指輪物語』を読んでいたときのこと、古い使い回しが多くチンプンカンプンだったので、
紙の辞書とノートを傍らに置き、眉間に皺をよせ少しずつ読み進めていた。
しかし一巻を読み終わらないうちに調べている時間の方が多いことに気づき読むのを諦めた。
今でも子どもの頃めくった辞書の紙の感覚を覚えている。
また、調べる媒体の少なかった頃は、忘れてしまったことは思い出すしか方法がなかった。
「思い出す」というのは「覚える」ことよりも難しいかもしれない。
思い出す方が得体が知れない。
いずれにしろ一つの情報や言葉と対峙する時間が今はあまりにも少なすぎる。
「分からない⇒調べる⇒解決⇒忘れる」が高速ループしていて、何も身になっていない。
また情報の拠り所として、インターネットとういう情報媒体に頼りすぎている部分がある。
ネットの世界というのは果てしなく広がっているように見えて、実は一元的で広がりに欠ける。
そこには電気信号しかない。
とにかく匿名性の高い情報とはある程度の距離を置くべきだ。
「情報」「言葉」はそれ単体で成り立つものではなく、
出会った時の字面だったり紙の感触だったり人と話したときの微かな風景とともに「記憶」として残るのだと思う。
ドイツ人選手の名前はあの後しばらくの間意識的に調べないでいた。
きっとあの選手のことを思うこの時間が、のちのち彼のことを覚える手助けをしてくれるだろう。
そうしておとずれたレアル・マドリードVSクラブ・アメリカの試合の日、スタメンで出場していたときはなんだか凄く嬉しかった。
その名はトニ・クロース、やはりかなりの男前だった。
普段あまりサッカー中継をしない日テレだが、スター軍団を前に盛大に盛り上げようとしているのが伝わった。
解説のアナウンサーもサッカーにあまり詳しくないのかとにかく選手の名前を連呼していた。
「誰々はこういう選手」という平面的な情報ばかりで、クロースがシュートしたとき外れたにもかかわらず、
「正確なシュートーー!」と叫んでいたのが面白かった。
ただ、日テレ全体がレアル寄りなのが気にくわず、全力でクラブ・アメリカを応援したけどね。
クロースの件が片付いたと思ったら、
今度は同居人が「あのさ、バドミントンの羽ってなんて言うんだっけ?」というどうでもよさそうな疑問を持ち出してきた。
「えーっと、ロケットじゃなくて」
「パドル!?パドルじゃない?なんかしっくりきた。」
「それカヌーで使うオールのことだから!」
ということでこれまた思い出すまで調べない約束をして話は終了したのだった。
なんでかサッカーの話になりドイツびいきの私はドイツ人選手の名前を並べながらあーだこーだ言っていた。
クラブワールドカップでレアルマドリードが来ていることもあり、レアルに在籍する唯一のドイツ人選手の話になった。
「ほら、あの背が高くて顔が六角形で上品な感じの彼、名前なんだっけ?イケメンのパスミスしないさぁ、ほら」
「さぁ?」
相手はさして興味がないようで、仕方がないのでiPhoneで調べようとポケットをさぐるとどうやら家に忘れてきたらしい。
そういえば、分からないことがあるといつもすぐネットで調べるなあ。
思い返してみれば、最近分からないことや知らないことが少なくなった。
それは私が誰もが羨む優秀な脳の持ち主なんかではなく、インターネットですぐに調べるから。
インターネットにアクセス出来る状態が常に側にあるというのは、知識の倉庫を常に持ち歩いているようなものだ。
だから必要以上にものを覚える必要がない。
でもそれでいいのだろうか。
最近「覚える能力」や「思い出す能力」が弱くなっているように感じるのはこういったことが原因かもしれない。
片手でスイスイ指を走らせるだけで欲しい情報が手に入るのだから、覚えることや思い出すことに執着がなくなっていく。
「あれ〜何だっけ?誰だっけ?」ともやもやする時間すらない。
何かをネットで調べていると、つい先日も同じことを調べていたことにふと気づき愕然とするのだ。
「覚える力」を育むためには、ものを覚える努力をしなければいけないし、
「思い出す力」を育むためには、思い出す努力をしなければいけない。
努力っていうと少し大げさだけど、当たり前にネットを常備している今、そういう問題に意識的になる必要がある。
子どもの頃にたくさんの言葉を覚えたのは脳が柔軟だったから、と現在を卑下する必要はない。
今はそういうことに対し結果的に消極的になっているだけのこと。
子どもの頃は「覚える」というこにも「思い出す」ということにも積極的だった、いや積極的にならざるを得なかった。
日本の学校は覚えることを基本としているから、子どもにとってはそれが仕事のようなものだ。
物を知らないから真っ白いノートに書き込んでいくようなやりやすさはあるだろう。
そういうと大人の脳は既にたくさん書き込まれたノートだから、
消しゴムで消すか開いているスペースを探すという手間があるわけだがそんな大したことでもあるまい。
また、ただ単に無知であるが故、物事を理解するには調べて覚えるしか方法がなかった。
なんとなく予想してスルーするという効率的なずるができない。
忘れもしない『指輪物語』を読んでいたときのこと、古い使い回しが多くチンプンカンプンだったので、
紙の辞書とノートを傍らに置き、眉間に皺をよせ少しずつ読み進めていた。
しかし一巻を読み終わらないうちに調べている時間の方が多いことに気づき読むのを諦めた。
今でも子どもの頃めくった辞書の紙の感覚を覚えている。
また、調べる媒体の少なかった頃は、忘れてしまったことは思い出すしか方法がなかった。
「思い出す」というのは「覚える」ことよりも難しいかもしれない。
思い出す方が得体が知れない。
いずれにしろ一つの情報や言葉と対峙する時間が今はあまりにも少なすぎる。
「分からない⇒調べる⇒解決⇒忘れる」が高速ループしていて、何も身になっていない。
また情報の拠り所として、インターネットとういう情報媒体に頼りすぎている部分がある。
ネットの世界というのは果てしなく広がっているように見えて、実は一元的で広がりに欠ける。
そこには電気信号しかない。
とにかく匿名性の高い情報とはある程度の距離を置くべきだ。
「情報」「言葉」はそれ単体で成り立つものではなく、
出会った時の字面だったり紙の感触だったり人と話したときの微かな風景とともに「記憶」として残るのだと思う。
ドイツ人選手の名前はあの後しばらくの間意識的に調べないでいた。
きっとあの選手のことを思うこの時間が、のちのち彼のことを覚える手助けをしてくれるだろう。
そうしておとずれたレアル・マドリードVSクラブ・アメリカの試合の日、スタメンで出場していたときはなんだか凄く嬉しかった。
その名はトニ・クロース、やはりかなりの男前だった。
普段あまりサッカー中継をしない日テレだが、スター軍団を前に盛大に盛り上げようとしているのが伝わった。
解説のアナウンサーもサッカーにあまり詳しくないのかとにかく選手の名前を連呼していた。
「誰々はこういう選手」という平面的な情報ばかりで、クロースがシュートしたとき外れたにもかかわらず、
「正確なシュートーー!」と叫んでいたのが面白かった。
ただ、日テレ全体がレアル寄りなのが気にくわず、全力でクラブ・アメリカを応援したけどね。
クロースの件が片付いたと思ったら、
今度は同居人が「あのさ、バドミントンの羽ってなんて言うんだっけ?」というどうでもよさそうな疑問を持ち出してきた。
「えーっと、ロケットじゃなくて」
「パドル!?パドルじゃない?なんかしっくりきた。」
「それカヌーで使うオールのことだから!」
ということでこれまた思い出すまで調べない約束をして話は終了したのだった。