「なんでアホであることが恥ずかしくないのか」
とある本で問われ読む手が止まる。
こと第一次中曽根内閣以降に生まれた世代に多い態度なんだとか。
ドンピシャである。
10年くらい前、友人が「自分から自分はバカだと言う奴は嫌いだ」と言っていたのを思い出す。
彼は思慮深く傷つきやすかったが、ものははっきり言う人だった。
その時はあまりピンとこなかった。
まぁそういう人もいるだろうくらいの感想しかなかったのだ。
しかし本の中で「なんでアホであることが恥ずかしくないのか」と問われ、
立ち止まり改めて考えてみるとこれは私に言っているんだと気づいた。
今までどこかで他人事だったのだ。
別に私はそう思ってないからいいやって(「別に」という前置きを母は嫌っていた)。
私が彼の言葉にピンとこなかった時点で私の問題だったのだ。
これが世代的な傾向だとすると内側から考えてもよくわからない。
他の世代のことをよく知らないからね。
でもそろそろ全体を見渡して相対的に自分たちのことを考えないといかんよなと思うわけです。
いつまでも口うるさい上の世代におんぶに抱っこではいけない。
もちろん前時代的で腹の立つ輩もたくさんいるけれど、まだまだ学ぶことの方が多い。
年長者たちは「今の若い人たちには歴史感覚がないんですよ。」としきりに訴える。
私自身、圧倒的にその感覚が乏しい。
これは世代的な傾向なのかもしれない。
どうして今があるのか、なぜこのような状況にあるのか、という感覚を持ちにくい。
我ながら中国人や韓国人の反日感情に無反応だったように思う。
「なんであんなに日本を嫌っているんだろう」って他人事。
知ろうと思うフックがそれまでなかったのだ。
授業は比較的真面目に受けていたが、学校でそういうことは教わらなかった。
個人差はあるけれど無知なままほいほいと社会に放り出される。
私は年長者たちの話や議論を聞くのが好きだ。
大人たちのそういう話を聞いているだけでどこかで安心していた。
やっぱり今の今までどこかで他人事だったのだと思う。
何回気づいても何回も忘れてしまう。
この人たちが言っているのは「わたし」のことなんだと。
自分のことだと実感すれば痛みを伴う。
その痛みを引き受けていくしかないのかな、ないんだろうな。
とある本で問われ読む手が止まる。
こと第一次中曽根内閣以降に生まれた世代に多い態度なんだとか。
ドンピシャである。
10年くらい前、友人が「自分から自分はバカだと言う奴は嫌いだ」と言っていたのを思い出す。
彼は思慮深く傷つきやすかったが、ものははっきり言う人だった。
その時はあまりピンとこなかった。
まぁそういう人もいるだろうくらいの感想しかなかったのだ。
しかし本の中で「なんでアホであることが恥ずかしくないのか」と問われ、
立ち止まり改めて考えてみるとこれは私に言っているんだと気づいた。
今までどこかで他人事だったのだ。
別に私はそう思ってないからいいやって(「別に」という前置きを母は嫌っていた)。
私が彼の言葉にピンとこなかった時点で私の問題だったのだ。
これが世代的な傾向だとすると内側から考えてもよくわからない。
他の世代のことをよく知らないからね。
でもそろそろ全体を見渡して相対的に自分たちのことを考えないといかんよなと思うわけです。
いつまでも口うるさい上の世代におんぶに抱っこではいけない。
もちろん前時代的で腹の立つ輩もたくさんいるけれど、まだまだ学ぶことの方が多い。
年長者たちは「今の若い人たちには歴史感覚がないんですよ。」としきりに訴える。
私自身、圧倒的にその感覚が乏しい。
これは世代的な傾向なのかもしれない。
どうして今があるのか、なぜこのような状況にあるのか、という感覚を持ちにくい。
我ながら中国人や韓国人の反日感情に無反応だったように思う。
「なんであんなに日本を嫌っているんだろう」って他人事。
知ろうと思うフックがそれまでなかったのだ。
授業は比較的真面目に受けていたが、学校でそういうことは教わらなかった。
個人差はあるけれど無知なままほいほいと社会に放り出される。
私は年長者たちの話や議論を聞くのが好きだ。
大人たちのそういう話を聞いているだけでどこかで安心していた。
やっぱり今の今までどこかで他人事だったのだと思う。
何回気づいても何回も忘れてしまう。
この人たちが言っているのは「わたし」のことなんだと。
自分のことだと実感すれば痛みを伴う。
その痛みを引き受けていくしかないのかな、ないんだろうな。