子供の頃に比べてここのところ文字を書く機会が格段に減っている。
昔は出かける際メモ帳は必須だったけれど、今はメモもスマホに残す時代だ。
それもずいぶん前から。
私だってわざわざ時代に逆行したいわけじゃないが、
文字を書く時間はつくるようにしている。
なぜなら字を書くのが好きだから。
細かく言うといい紙にユニボールシグノの0.38で文字を書くのが好きなのだ。
紙の手触り、臭い、滲むインク、ボールペンの書き心地、増えていく文字、
これらを上から確かめるのがある種の快感なのだ。
趣味というほどではないけど、欠かせない暮らしの一コマである。
私は声は小さいが字はでかい。
だから必然的にノートもでかくなる。
小学校で使う最初のノートがB5だからか、
みんな何の疑いもなく「ノート=B5」だと思っているけれど、
B5って縦も横も全体のバランスも中途半端なんだよな。
私には手狭なのでいつもA4を使っている。
私は毎日日記を書くので多くの現代人より文字を書いていると思う。
どんどん字を書くことに慣れていくので、どんどんスラスラ書けるようになる。
向上心もあるので、スタイルが出来てきて「なんかいい感じ」にもなってくる。
そしてついに「私、字うまくね?」となったのだ。
でも本当にそうだろうか。
雰囲気イケメンと同じで、雰囲気字綺麗じゃないのか。
これを確かめる方法がある。
いつも横書きなら縦書きで、いつも縦書きなら横書きで書いてみるとよくわかる。
案の定、縦書きになった途端バランスが崩れ目も当てられなくなる。
私は別に習字の先生みたいに字がうまくなりたいわけじゃない。
日々文字について考え書いて確かめているだけだ。
ただ字を書くことに臆したくないのだ。
なぜなら字を書くのが好きだから。
私は人の字を見るのも好きだ。
でも個性のない綺麗な字はあまり好きじゃない。
なぜなら文字に滲み出る人間性に興味があるからだ。
丸っこい字、雑な字、綺麗だけど読めない字、妙にとんがった字。
ぎゅうぎゅう詰めに書く人、字と字の間が広い人、本当にいろいろだ。
筆跡鑑定なんてものがあるくらい、人の字というのは根強い個性なんだな。
そういう意味では「個性のない綺麗な字」から読み取れる人生もあるか。
私は幼馴染のあの子が書く字が好きだった。
彼女の字を家族以外で私ほど見た人もいないだろう。
小学校1年生の冬に引っ越してから高校3年までずっと文通をしていたからね。
途切れた期間もあったけれど、付かず離れず緩やかに続いていた。
高3になっても彼女の字は決してうまくならなかった。
なんて言ったらいいのか、不器用だけどおおらかな字。
一文字一文字はバランスが悪いのに、それが連なると不思議と調和している。
一文字一文字が独立しているから、
縦書きだろうが横書きだろうが斜め書きだろうがきっと変わらないのだろう。
便箋を一枚の絵としてみたら、それこそ「いい感じ」なのだ。
誤字も多いし、当たり前のように絵も入っている。
今見返すと小学生の頃からあまり変わらない。
上手いとか下手の外にある字。
彼女は字も絵も書くのが好きだった。
だから、私は彼女の字も絵も好きだったのかもしれないな、と今思う。
『ダ・ヴィンチコード』の最後の5ページが読めなくて内容を忘れた、
サラダばっかり食べて私は虫だ、虫の中でもイモムシだ、
書きたい事がいっぱいあるけど書いてしまったら「佐々木さんの自伝」になってしまう、
とか独特のユーモアで今読んでも笑ってしまう。
未だにその「佐々木さん」が誰なのかわからないけれど。
「最近のピザはすごい」と言ってピザを図解した手紙は名作として手元に置いてある。