歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

日課をつくろう

2021年01月11日 | 日記
「日課」という言葉に憧れる。

私には日課にしていることはないし、同じことを続けることが苦手だ。

しかし困ったことに日課とかルーティーンだかに憧れている私がいる。

単にちゃんとしている人に憧れているだけかもしれない。

悉く失敗しているのにどこかでまだ諦めていない。

そういえば適当日記が10か月ほど続いている、過去最長記録だ。

綺麗なノートに文章をきっちり書こうとすれば三日坊主に終わっていただろう。

メモ帳に汚い字で書きなぐるだけの、日記なんだかメモなんだかわからないような日記だ。

何のために書いているのかはよくわからない。

私に万が一があって身近な人が読んでも、得ることのない陳腐な日記だ。

でも続けることには意味があるような気がする。

意味なんてなくてもいいんだけどね。



ここ何日か自転車で多摩湖へ行っている。

朝起きて猫に餌あげて準備運動して出発する。

1日がシャキッとするし、運動にもなるし気持ちいいし一石四鳥くらいはある。

多摩湖はサイクリングの目的地に最適だ。

片道25分ほどだけど、続けるにはこれくらいが丁度いい。

それに多摩湖に臨む丘の坂が、なかなかきつい。

多摩湖に着く頃には息は絶え絶え、足はプルプル。

そのちょっとした苦労があるから、空が開けた時に毎回感動できるのかもしれない。


どんよりと重い雲。こんな日もある。


空の色によって湖の色も変わる。


こんなに人がいないのは初めて。正月はこの道に人がごった返していた。


面白い雲。


水面がキラッキラしていて綺麗だった。


昨日。最っ高!綺麗な青。


湖の反対側は公園になっている。



今日は休みにした。

たまには休憩も入れていかないとね。

というより寒すぎで気持ちがしぼんだ。

走ったらすぐ温まることはわかっているけど、最初の一歩がどうもね。

続けるにしても楽しめないと嫌だから、自分のペースでやっていこう、うんうん、、。

明日は雨だから休みだー。

明後日また行こう、うん、それだ。
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関口巽が好きなんだ!

2021年01月07日 | 
京極夏彦の『絡新婦の理』を読み終わり、再び序章へ戻る。

なるほどね〜面白い。

文藝誌でよく見かける細かい文字の二段組に829ページ。

なかなか読み応えがあった。

シリーズ第一弾『姑獲鳥の夏』で初めて百鬼夜行シリーズの分量と二段組を目の当たりにした時は驚いた。

重量と難解さによって度々読む鈍器なんて評されることがあるシリーズだ。

それを聞いていたのでなかなか手を出せずにいた。

そもそもビジュアルがやばい、でかい。

あ、鈍器って物理的にということ?

しかし読んでしまえば、京極の沼にはまる。

『絡新婦の理』の一説に「快感とは小さな苦痛であり苦痛とは大きな快感です」とあるが、

難解で分厚い本を読むという行為はある種の苦痛を伴うことで快感に昇華されてしまうのかもしれない。

読み終わった後に「もっと難解な言葉を、もっと多くの文章を」と欲している自分に気がつく。

もしそこまで計算尽くだとしたら恐ろしいな。

いや京極夏彦なら十二分にありえるか。



構成要素が多すぎて全てを把握できているわけではないし、

一度読んだくらいで考察できるほど私に知識量があるわけでもないので以下はただの感想。

ネタバレあり。





『絡新婦の理』



京極夏彦 著
講談社 1996年



ストーリーはここに書いてもしょうがないので省く。

本当はシリーズ第二弾の『魍魎の匣』と四弾の『鉄鼠の檻』についても書きたいのだけど、

この2作は面白すぎてまだ感想すら書けない。

特に京極夏彦に全幅の信頼を置くに至った『魍魎の匣』はちょっとすごい。

登場人物の一人である小説家久保竣公による「『匣の中の娘』」は、

それ自体が一つの作品として成り立つ密度を持っており鳥肌が立つほど面白い、というか怖い。

初め私は赤川次郎や江戸川乱歩の短編の引用か何かだと思っていたくらいで、

それが『魍魎の匣』のためだけのオリジナルだと知った時は京極夏彦に平服するしかなかった。

いずれ「『匣の中の娘』」について書ければと思う。



本題は『絡新婦の理』だ。

この本を半分ほど読んで思うのは、「あれ、今回関口巽は出てこないの?」ということだ。

それ以前の4作では語り部としていつも物語の中心(でなくともその近く)にいた。

中禅寺秋彦や榎木津礼次郎など他の登場人物に比べ凡庸で内向的な小説家でパッとしない。

いつも頭をこねくり回して悩み苦しむ面倒な人物だ。

何回そのまどろっこしさにイライラさせられたことか。

しかしどこかでこの悩ましくも人間らしい彼こそが主人公だと思っていた。

百鬼夜行シリーズという膨大な知識、難解な言葉、残虐な事件に立ち向かうのに、

いつもそばにいてくれた、そう読者(私)の一番近いところにいたのがきっと関口巽だったのだ。

スーパースターみたいな人間離れした人々の中で彼は人々の心に寄り添ってくれる装置だったのかもしれない。

それを教えてくれたのが今回の『絡新婦の理』なのだ。

私は関口巽が大好きだったのだ。

今更気付くなんて。



しかし終わってみれば、今回の話に関口巽が出てこなかったのも納得だ。

今回の語り部は飄々とした伊佐間一成、考えるより動く木場修太郎、

頭のいい中学2年生呉美由紀の3人で割り合いスムーズに話が進む。

それでいてここまでのシリーズで最長ボリューム。

こんなところに関口が入ってきたら829ページどころの話じゃない。

それに『姑獲鳥の夏』で深く傷ついた関口にとってなんとなくだが今回の話は少しきついような気もする。

今回に限りあの悩ましい小説家を休ませてあげよう。



百鬼夜行シリーズで注目すべきは中禅寺秋彦こと京極堂と榎木津礼次郎の事件に対するスタンスだ。

私立探偵である榎木津は気分屋でいつも突拍子がないが、彼の正しさと変わらなさにはいつも救われる。

彼が出てくるだけで場面がパーっと明るくなってまさに英雄だ、変人の部分も含めて。

探偵として受けた仕事でも報酬をもらわないことがあり、どうやって生活しているのか謎めいている。

京極堂は古書店店主であり、かつ陰陽師も生業としているのであくまで仕事だ。

誰かに依頼されたり、事件が自分の仕事に支障をきたす場合に動く。

だから関口などが単に知人の頼み事として事件の解明を迫っても基本的には動かない。

今回は今川雅澄の正式な依頼によって動く事となった。

榎木津はづかづかと内側から事件に入り込み空気を送り込む。

京極堂は古書店で人々から話を聞き客観的に事実を分析する。

この二人の信頼関係が味噌である。



今回不思議だったのは事件の中心人物ではない今川が京極堂の依頼者だったことだ。

今川は事件のど真ん中にいる織作家の憑き物を落とすよう京極堂に依頼するわけだが、

それって余計なお世話なのでは?と思ってしまうのだ。

それによってさらに3人もの命が失われる事になった。

葵が死んでしまったのはちょっとショッキングだったな。

絡新婦の仕掛けによって遅かれ早かれ失われる命だったのだろうけどね。

憑き物落としの場面では皆個人としてその場に立っている。

木場や青木は警察としての立場を横に置いてしまっている。

不思議でもあり興味深いのが、目的が事件の解決ではなく憑き物を落とすことということだ。

今回の真犯人も結局逮捕される事はなかった。



『絡新婦の理』で面白かったのは、

猟奇的な犯行と全ての事件を企てた蜘蛛(真犯人)との間に距離があるという事だ。

蜘蛛の巣があり糸と糸が交差する点にそれぞれ関係者がいて互いに作用しあって事件を引き起こしている。

気づけば人々は糸に絡め取られ蜘蛛の餌となっている。

実行犯たちは気の毒ですらある。

実際に起こる惨劇と蜘蛛の間には常に距離があり、誰が悪なのかわかりにくい。

掴もうとしても指の間をすり抜けて捕まえられない羽毛みたいに重力のないふわふわとした事件だった。

良い悪いで断ずる事ができない話だからこそ面白いというのもあるだろう。

しかし、これまた面白いのは多分大抵の人はある程度読んだら犯人を予想できるということだ。

それでいて予想以上の結末が用意されているのだから驚いた。



京極夏彦の文章はいつも新しい発見や日々の生活における気づきを与えてくれる。

考え方を180度変えるなど、読む者に強く影響を及ぼす力が彼の文書にはある。

宗教における女性の立ち位置や、武家の父権制度、社会に根付く男根主義的な階層差別意識、

性差別など様々な問題について考えさせられたけど、これに関してはあまり理解できていない。

しかし細かいところでいうと、私の長年持つ疑問に一つの答えを提示してくれた。

それは「大人とは何か」である。その答えが、

「世界と個人を分かつ境界は運動ー経験です。弛まず経験を重ねることで境界は明瞭になる。
大人と子供の境界は呪術ー言葉です。現実を凌駕する言葉を得た者を大人と云うのです。」

正直よくわからないけれど、一つの答えとして覚えておこうと思う。

憑き物落としの一環で発した物とは言え、京極堂の言葉なのだから説得力があるというものだ。

それにしても京極夏彦がこれを書いたのが33歳の時だなんて、もうなんというかね、

書くために生まれてきたんだろうね。



とにもかくにも面白うござした。



さーて次は上下2巻かぁ〜さらに長いな〜、、、やっふーい!

苦痛は快感か、、、。

早速『塗仏の宴ー宴の支度』を読み始めたら最初から関口巽が語り部ではないか!!

わーい!わーい!思いの外嬉しい。

やはり私は関口巽が好きなんだ。
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恐怖のキーカチャン

2021年01月06日 | 日記
真夜中布団の中で本を読んでいた。

京極夏彦の百鬼夜行シリーズ第5弾『絡新婦の理(じょろうぐものことわり)』だ。

まだ前半も前半、湿り気のある不可解な事件が多発する導入部。

ぬったりとした手に足をつかまれ、じわじわと京極夏彦の世界に引き込まれていくかというまさにその時、

階下からかすかにキーカチャンッと硬質な音が聞こえてきた。

思わず読む手が止まる、いやまさかな。

ここで京極効果が効いてくる。

ありえない、ありえないんだけど、少し怖い。

キーカチャン、

キーカチャン、キーカチャン、得体の知れない何かが近づいてくる。



有名な怪談で「十三怪談」という話がある。

引っ越したアパートで夜寝ていると階段を上がる足音が聞こえてくる。

それは日をおうごとに一段、また一段と近づいてきて14日目に何かが起こるという話だ。

得体の知れない何かが少しづつ近づいてくる恐怖はなかなかである。

大学1年生の頃チームでショートムービーにしたので多少詳しいと思う。

なかなかいい出来で映画研究部内の小さな大会で優勝した。

なんて、そういういろんなことが頭を駆け巡る。



しかし現実は現実である。

「キーカチャン」は実際にこの家の中で鳴っている。

冷静になれば想像はつく。

そしてゆっくり寝室の扉が開いた。

そこには猫じゃらしをくわえたジュゲム(猫)がいた。

引きずられた猫じゃらしの棒の部分がその音を鳴らせていたのだ。

そして分厚い『絡新婦の理』のそばに猫じゃらしをポトっと落とした。

遊べ、と言っている。

きゃーわーいーいーー!!!

夫にこの話をすると夫も同じ体験をして密かに怖がっていたらしい。

これには笑った。








肌身離さず。相当気に入ったらしい。
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あけましておめでとうございます

2021年01月06日 | 日記
遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。



予想だにしなかった2020年が終わり、さて、2021年です。

コロナの勢いはとどまるどころか何倍にも増大して、特に首都圏では猛威を振るっております。

つい先日3都府県において緊急事態宣言が発令されることが決まりました。

ふーむ、「要請」って言葉の意味をこれほど考えたのは今までで初めてです。

「GO TOキャンペーン」で動くお金を飲食店への補償に回せなかったのか、悔やまれるばかりです。

お金持ちの為に回すお金や根回しの体力はあるのにね。

文句ばかり言っていてもしょうがないけれど、それでも言い続けなければいけないらしいです。

こらーーー!!



今年の年末年始は珍しく弟が家に来て夫と3人で過ごしました。

カニを食べたりうどんを麺から作ったり夜通しニンテンドーswitchで桃鉄をやったり、

夜な夜な餅を食べたりお好み焼きを作ったり禁断のトランプゲームをしたり初詣に行ったり、

普段だらだらテレビを見るだけで過ぎていく正月がお祭り騒ぎでした。

姉は弟のバイタリティーにちょっとびっくり、元気なやっちゃ。

私の自転車で町を探索した弟が大きな湖があってそれが良かったというので私も行ってみました。

緩やかな坂をギア1で地道に登って息も切れ切れになりもう無理かもと思ったあたりで、

空間が急にパーっと広がって目の前に想像より大きな湖があるではないですか。

うわーきもっちいいいいーーー!!







家の近くにこんないい場所があっただなんてね。

未曾有の困難に見舞われて大変ですが、目の前のこまごました暮らしの中にはいいことが溢れています。

遠くの方に見えた顔の大きなカラフルな鳥はオシドリかな。

よし、今年は初めてのことをいろいろやっていこう!



ということで、皆さんにとって良い年になるよう願っております。
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