国道118号線を南下します。
石川町を通過すると水晶の町の看板を見かけます。石川町は日本有数の水晶の産地で、水晶と共に稀少鉱物が採掘されることでも有名でした。現在では採掘されていないようですが、稀少鉱物には微量のウランも含まれていたため、戦時中には採掘して軍事利用する研究(要するに原爆製造)が進められていたということです。結局含有量が少なすぎるのと、当時の日本の技術力不足で成功はしませんでしたが。
宿泊したすわやや母畑温泉の温泉が放射能泉なのも関連があるのかもしれません。
国道118号線の途中に猫啼温泉という温泉があります。和泉式部が残した猫が鳴いて病気になったが、ここの水で治ったことに由来するということです。
和泉式部は京都の貴船神社で夫が戻ってくるように祈願し、復縁したことで、縁結びの効果があるという話の起源となった人ですが、出身地といわれる場所は日本各地に何か所かあるようです。
さらに南下して、棚倉町に入ります。
棚倉は元は城下町で、初代領主はあの有名な戦国武将、立花宗茂です。宗茂は関ケ原の戦いで西軍についたため戦後改易され、その後大名に復帰して棚倉の領主となりました。
後に旧領の筑後柳川に加増転封されると、その後領主になったのは丹羽長重、織田信長の家臣で有名な丹羽長秀の長男です。長重も関ケ原で西軍についたため改易され、大名として復帰して棚倉の領主になりました。現在の位置に築城したのも長重ですが、完成する前に隣の白河に加増転封されます。以降、何度も大名が転封を繰り返し、幕末を迎えますが、戊辰戦争では奥羽列藩同盟に加盟し、新政府軍により落城しています。
なので江戸時代には政治、経済の中心として繁栄したのですが、明治になって東北本線が開通すると状況が一変、白河と結ぶ鉄道が計画され開通しますが、水郡線が開通すると経営難となり国鉄に買収されますが戦時中に休止され、そのまま復活することなく、現在ではJRバスの路線となっています。
棚倉町で面白いのは町の中央に分水嶺があることで、中央やや北部の丘陵地帯の南が久慈川水系、北側が阿武隈川水系となっています。これだけ大きな河川の分水嶺が町中にあるのはかなり珍しいのではないでしょうか。
そんな棚倉町にある産直「みりょく満点物語」に立ち寄ります。
大きくて新しい施設で、多くのおいしそうな野菜が販売されています。
この中にあるミルク工房で休憩することにします。
コーヒーゼリーカフェオレ。ミルクの甘みが強く、ガムシロップは必要ありません。
少し崩れていますがクリームソーダ。クリームはおいしいのですが、メロンソーダもおいしいです。よくある甘ったるいどぎつい味ではなく、上品な味です。
ミルクもよく観光地にあるようなただ濃厚なだけでなく、奥が深い味で非常においしいです。
ここのミルクはおすすめです。でも、おいしそうなトマトがあったのに、買うのを忘れました。次の道の駅でも買えるだろう、と思っていましたが結局買えず。旅先では、欲しいものは見かけた時に買う、迷ったら買う、が鉄則です。
さて、棚倉は歴史ある町なので、見どころは結構あります。この産直にも見どころの案内があり、結構観光にも力を入れているようです。数ある名所のうち、山本不動尊に行ってみることにしました。
山本不動尊は弘法大師がこの地に来たときに護摩壇を築き、八溝山系に住む悪鬼を調伏祈願したのが始まりとされています。
先ほどの産直から南西方向に山の中へ進んでいくと、15分くらいで到着します。周辺にキャンプ場もあるようで、駐車場は共用となっています。
駐車場からは思ったよりもよく整備された立派な参道があります。
ここも紅葉の時期にはさぞきれいでしょう。
参道を進むと朱塗りの橋があります。
橋の下は結構深い峡谷です。
橋を渡ったところに護摩殿があります。思ったよりも非常に立派です。
さらに進むと、護摩殿の後ろに奥の院があります。
奥の院に行くには130段の石段を登らなくてはなりません。130段は大したことないように思えますが、石段の幅が狭いこと、段が不揃いなこと、手すりが低いこと、途中に踊り場がないことにより、かなりきついです。
階段を登りきると、そこには霊地があります。
何の予備知識もなく訪れましたが、非常に素晴らしい場所に出会えました。
山本不動尊の御朱印です。今回、御朱印帳は持ってこなかったのですが、素敵な御朱印帳だったので御朱印帳毎いただきました。
<その3に続く>