青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

特急“白鳥”よ永遠に!

2024-06-02 | 昭和・思い出は色褪せない

海外旅行、国内旅行、いろいろな場所に行きましたが、学生時代や若い頃の旅行ほど記憶に残っています。旅行資金を作るのにアルバイトを頑張り、出来るだけお金が掛からないように工夫したり、若い時だからこそ出来る経験をしたからだと思います。

学生時代の国内旅行ベストと言えば、1か月以上かけて1周した北海道旅行です。野宿して朝起きたら、頭の上に「熊注意」の看板があって驚いたり、牧場で働かせてもらって旅費を稼いで乗馬までマスターしたり。長距離トラックに乗せてもらった上に、荷の積み下ろしで小遣いをもらったり。今では消えてしまった青函連絡の長い乗り換え通路を、重い荷物を背負って走ったことも思い出です。

列車の旅で忘れられないものが2つ。冷凍ミカンとお茶です。今では消えた食堂車に行く贅沢が出来ず、駅弁さえも買えなかった僕が、唯一買っていたのがこれらでした。

この容器に入ったお茶。ペットボトルのお茶なんか無かった時代の高い買い物でした。赤い網に入った5個入りの冷凍ミカンは、少し溶けて来るのを待ってから食べたものです。安上がりのアイスクリームの代替品という感じでした。

北海道には学生時代に2度行っていますが、その両方で利用したのが「特急白鳥」でした。大阪~青森間を走った、昼行特急列車としては日本一の走行距離を有する列車で、朝の10時18分に大阪を出て、23時50分青森着。そこから青函連絡船が0時40分~4時。ディーゼル特急おおぞらで函館を4時45分に出て、札幌に到着するのが翌朝8時45分でした。

写真は平成13年(2001年)3月3日の、特急白鳥さよなら記念式典。JR大阪駅には沢山の鉄道マニアが詰め掛けました。

これは僕が北海道に行くのに乗車した時の特急券です。今も残っています。

こちらは当時ベストセラー作家であり、トラベルミステリーで一時代を築いた西村京太郎の作品「特急白鳥14時間」です。十津川警部と亀井刑事のコンビ作品で、僕の1番のお気に入りです。発表が1984年で、これを読みながら通った駅の数々を思い出しましたが、昨日これを何十年ぶりかで読み終わり、当時の旅の追体験が出来ました。

年齢を重ねて、あるいはリタイアしてからのんびり楽しむ旅行は最高ですが、若い人にはどんどん若いうちに旅行に行って欲しい。自分探しとかではなく、冒険旅行を楽しんで欲しいと思います。

 


大切だった “学内掲示板”

2024-05-30 | 昭和・思い出は色褪せない

大学に行ったら1番に行く場所、それは「掲示板」でした。

掲示板・・いろいろな場所の掲示板が失われて行きます。「駅の掲示板」は、待ち合わせの伝言に使われていました。そこに書かれている伝言から、いろんなことを想像するのさえ楽しかった。大学の学内掲示板は、大学生活には不可欠なものでした。

もう今から50年前の関西大学の掲示板前の写真です。今ではネットを使って、授業の休講の連絡やいろいろな学内の連絡事項を入手出来ますが、僕の学生時代にはインターネット等無く、掲示板の前に立つことなく休講を知ることもありませんでした。

1回生の時代ならともかく、4回生にもなれば週に1~2回しか登校しないのは普通でした。卒業に必須な単位は、ゼミと1~2科目しか残っていなかったからです。その1日の為にアルバイトも休んで登校すると、この掲示板に休講の連絡が。入学金から授業料まで全て自分で稼いで払った僕は、正直4年間休講のたびに「休むなら金を返せ!」と思ったものです。「前もって言えよ!」とも。

休講になったら2時間近く、次の授業との間に時間が空きますから、クラブに属していた者は部室で時間を潰せます。そうでない人で、懐の温かい人は喫茶店に。何も無ければ僕は部室コースでしたが、たまたまこの掲示板の前で「喫茶店に行かない?」と声を掛けられたら、同じ授業を取っていたクラスメートと喫茶店に行ったものです。そんな時に店内で聴いて気に入った音楽は、レコードを買って今も愛聴盤になっています。音楽を聴けば、あの頃の思い出が頭の中で再生されます。まるで映画のように。

これは「島耕作」シリーズの中の1コマですが、当時は大学にアルバイトの求人が、こんな風に張り出されていました。「アルバイト情報」「アルバイトニュース」などの有料情報誌(今はもうありませんね。)を買うまでもなく、いろんな求人から探すことが出来ました。大学OBの方の会社のアルバイトに当たった時などは、待遇も他の大学の人よりも良くして頂きました。

求人募集は書体も色も書き方も様々で、人のぬくもりというものを感じました。同様に僕らも履歴書には真剣に取り組みました。字が綺麗だとそれだけで得をしました。履歴書に添付する顔写真も、きちんとカメラ屋さんで撮ってもらっていました。インスタントの証明写真では・・。

掲示板と言えば雑誌の「読者のコーナー」などには、「文通募集」や「交換しましょう」「売ります・買います」等の投稿があり、そこには本名、住所などが明記されていました。個人情報にうるさい現代からは考えられないことですが、当時はルールというか常識のある人ばかりで、それが問題にはならなかった。良い時代だったと今更ながらに思います。

インターネットや携帯電話が登場し、世の中が飛躍的に便利になりましたが、それを使うのは人間です。人が正直であれば、普通に何も事件は起こりません。人の心の在り方が、あの当時とは随分変わり、その為にいろんな事件事故が発生し、世の中が住みにくくなっていると感じてなりません。

 


ブックファースト渋谷店が懐かしい!

2024-05-19 | 昭和・思い出は色褪せない

東京に住んでいた時、本屋さんと言えば神田神保町に行くのが楽しかった。行けば行くほどに懐かしい古本や、「こんな本があったのか!」という素敵な本を見つけてしまい、いつも帰りには財布が空っぽになってしまいました。

でも新刊などを買う時は、渋谷のブックファーストを利用していました。大好きな西村フルーツパーラーの並びにあった大きな書店でした。大きな貫禄のある建物で、すぐに気に入りました。

そもそもブックファーストは1996年(平成8年)3月24日に、阪急電鉄直営の書店として、僕が通勤乗り換えに使っていた川西能勢口駅の改札内に1号店が開店しました。

この写真が1号店である、川西能勢口店ですが、今はもうありません。また同年12月11日には、阪急電鉄梅田駅構内の2階にあるJR大阪駅連絡通路にもブックファーストは開店し、お馴染みの店として利用していたものです。

時が建ち2000年代に入り、僕が東京での初日に所用で降り立ったのが渋谷駅。そこで目に留まったのがブックファースト渋谷店でした。

関西の書店が東京にある!と店内に入ると、地下では後に世間をお騒がせした女優の高樹沙耶さんがサイン会を開催していたのを覚えています。目の前で見る女優さんはさすがに綺麗でした。この店舗は1998年6月、東急百貨店本店の斜め向かいにオープン。渋谷駅周辺で最大の6フロア計約920坪の売り場を持つ大型書店として雑誌や専門書など約70万冊を取り扱っていましたが、残念なことに2007年10月14日に、ビルの建て替え工事に伴い閉店となりました。

しかし、驚いたのはその4日後、もともと「旭屋書店渋谷店」(2005年9月閉店)があった渋谷第一勧銀共同ビルの地下1階・地下2階に「渋谷文化村通り店」として電撃・移転オープンしたのです。

地下の為に店舗は地上からは分かりませんが、看板はマツキヨの上に!これは2009年の様子ですが、西村フルーツパーラーの横、マツモトキヨシの上にブックファーストの看板があります。

書店内部も綺麗でしたが2フロアに縮小されたことで在庫数も少なく、かなり物足りなさを感じ、ちょっと新刊を覗く程度の使い方になって、ここで書籍を購入することは明らかに減りました。

渋谷店が閉店してビルの工事が始まった時は、渋谷文化村通り店がオープンしていたのにも関わらず、年末の雰囲気とも相まって、とても寂しい気分になったものです。

その渋谷文化村通り店も、僕が東京を離れて大阪に戻った後の2017年6月に閉店したと友人から聞きました。スクランブル交差点前のスタバのあるビルにも書店はあり、小さくても不自由は感じないと友人も言っていました。

大型書店の撤退・規模縮小は全国どこでも後を絶たず、町の本屋さんも減少する一方です。ネットで購入するのはターゲットが決まっている時は確かに便利ですが、漠然と「何か面白そうな本が無いかな?」と本を探す時は、実店舗に足を運ぶに勝るものはありません。

写真は僕の息子が大学生時代にアルバイトをしていた、大阪・梅田店です。昔、御堂筋を挟んで建っていた旭屋書店のように、随分古い本の在庫もあったし専門書も置いてあったので重宝していたのですが、平成26年(2014年)2月に閉店してしまいました。今はブックファーストは阪急電車の駅周辺に広く展開しているので、雑誌や大手出版社の発行部数の多い新刊を購入するのに使っています。

専門書を探すには大阪茶屋町のジュンク堂。ネットでは「日本の古本屋」を時々。忙しくて大阪や神戸の大きな書店に行く暇も無い場合だけアマゾンを使います。僕は本が大好きで、電子書籍は1冊も購入どころか読んだこともありません。インターネットはPCで。スマホで文字を追うのは目が悪くなるだけではなく、いろんな意味で事故の元だと考えています。歩きスマホに運転しながらスマホ、絶対やめてもらいたい!

 


選挙もCMも “名前の連呼!”

2024-05-08 | 昭和・思い出は色褪せない

最近はTV番組をほとんど見なくなりましたが、見ていて思うのはコマーシャルが昔と随分変わったこと。オシャレで人気のCMと言えば、ウイスキーやタバコのCMが定番でしたが、今はそういうCMは流れていません。自動車のCMさえ見掛けない。スマホやゲームの宣伝ばかりです。

もう1つ昔と違うのは、最近は最後まで見ても何の宣伝なのか分からないコマーシャルが多い事。昔はとにかく会社名や商品名を連呼するCMが多く、50年以上経った今でも、忘れられない記憶に定着したCMソングも少なくなりません。「ロート、ロート、ロート、ロート製薬♪」や「明るいナショナル、みんな家中なんでもナショナル♪」「タケダ、タケダ、タケダ~♬」のタケダ製薬など、人気番組を一社提供してオープニングでこういう曲を流していたので、嫌でも記憶に残っています。

それと同じように名前をとにかく売り込むのが、選挙でした。

この写真は大阪府池田市五月丘の昭和38年(1963年)、市議・市長選の投票所付近の家族連れ。周囲は全てをかき消すように、候補者名のビラで一杯です。ところがこれ、当時の選挙制度上、何の問題もありませんでした。選挙になれば普通に目にする、今ではあり得ない光景です。

「とにかく名前を売り込む」ことが、当時は重視された時代でした。

 


音楽は生き残れるのか?~レコードもCDも何処へ?~

2024-05-02 | 昭和・思い出は色褪せない

音楽は生き残るのでしょうか?僕は最近「新譜」を買うことがほとんど無くなり、昔買ったお気に入りのレコードやCD、そしてSACDを、自分のそこそこに高級なオーディオ装置で、音楽を楽しむと言える音量で聴いています。音楽を聴くと、その曲を聴いていた頃の若かった自分の事は勿論、当時の事が脳裏に浮かんでは消えて行きます。やはり自宅でくつろいで、スピーカーからの空気の振動によって音楽を聴くのは楽しいし、音楽だけではなく、エンジニア達が工夫を凝らして作り上げた「音」そのものに、耳を傾けるのも楽しいものです。

僕が音楽CDを買わなくなったのは、お気に入りのアーティストが引退したり亡くなって、もう新作がリリースされないことも大きいのですが、最近の歌詞が聴き取りにくい(僕の耳が悪くなっていることも含め、歌い手の活舌が悪い。歌そのものが下手だから。)メロディラインが無い、単純な音楽が僕の趣味ではないからです。

でも、それだけが理由かと考えてみると、TVから音楽番組が消え去ってしまったことにも一因があると思います。新しい情報がまるで入って来なくなりました。誰が新作を発売するとか、誰が来日するとか、そういう情報に触れる機会も少なくなりました。FMでもトークが重視され、音楽を聴くこと重視から番組の方針が離れて行きました。

YouTubeで再生を稼いだり、サブスク等で音楽を販売しても、アーティスト達は利益をどれだけ得ることが出来るのでしょう?昔はコンサートはレコードを販売するための販売促進活動でした。しかし、いつの頃からか、CDを販売する為ではなく、逆に大きな器でのコンサート開催こそが大きな利益をもたらすように業界が変化しました。レコードやCDの売上枚数よりも、他のことで利益を上げるようになっていったのです。売上の軸が変化しました。その結果、街中のレコード屋さん、レンタル店が姿を消して壊滅状態となっています。

この浜田省吾のレコードが発売された時、作品そのものとは少し違った所で話題になりました。当時はレンタルレコード店が雨後の竹の子のように次々とオープンしていた頃で、これではレコードが売れなくなって、アーティストが食えなくなると大騒ぎになっていました。

このレコードの中で、浜田省吾がレンタルレコードに対する見解を、ファンに訴えたのです。

レンタルレコードの「黎紅堂」が勢いを増していた頃で、この後CDが登場し、レコードからレンタルCDにメディアが変更。同時にレンタルビデオやレンタルDVDが大流行し、TUTAYAが業界を統一してしまいました。(今はTUTAYAさえ姿を消して、Tポイントも消えてしまいました。)

レコードだって、学生などはそうそう月に何枚も購入できる訳でもなく、友人たちと交換してカセットに録音していたし、ラジオでエアチェックもしていましたから、レンタルレコード店が出来たからと言って、そんなにアーティストの収入が減るのだろうかと疑問に思ったものです。そもそも全国のレンタルレコード店が多くの枚数を仕入れます。

その後CDが登場すると、後を追って世の中を席巻したパソコンによって、簡単に複製を作ることが可能になり、メーカーは対抗してコピーガードを施し、CDをいつも購入している購買層から、それによる音質の劣化を危惧する大反対の声が沸き起こり、パッケージとしての音楽の販売方法が大きく揺らいで行きました。輸入CDが国内盤よりも遥かに安価に、タワレコやHMV等の大型店で販売されるようになったことも、音楽業界を揺るがしました。

そして紆余曲折があって現在、老若男女誰もが知っている時代を代表する曲というものは、世の中から消滅してしまったと言っても過言ではありません。これからも、人の心を揺さぶる名曲と呼ばれる音楽は、人間社会でどのように生き残って行くのでしょうか?除夜の鐘の音や公園で遊ぶ子供の声さえ、騒音だと言われる現在、どんな音楽がどんな形で人々に愛されて行くのでしょう。