今の若い人たちには話題にもされていないよう、いや、今の若い世代はもう「忠臣蔵」を知らないのかもしれません。年末12月ともなれば、映画や時代劇スペシャルが放送されていたものですが、2000年を超えてからは、そういう放送枠も取られなくなりましたから。
今日12月14日は、赤穂浪士の討ち入りの日です。
余りにもそこへの言及が無いことに、何とも世の中から余裕が消えていると感じます。
元禄14年3月14日(1701年4月21日)に江戸城中で赤穂藩藩主の浅野内匠頭長矩が、高家旗本の吉良上野介義央に対して遺恨有りとして殿中刃傷に及ぶも、討ち漏らして切腹処分となりました。その後、浅野の遺臣である大石内蔵助良雄以下赤穂浪士47士が翌15年12月14日(1703年1月30日)に吉良屋敷に討ち入り、主君に代わって吉良上野介を討ち果たし、その首を泉岳寺の主君の墓前に捧げたのち、幕命により切腹しました。これが元禄赤穂事件ですが、ドラマや映画ではいろいろな脚色がなされています。
浅野内匠頭長矩が、江戸城松之大廊下(まつのおおろうか)で吉良上野介義央を斬りつけましたが、時代劇では襖絵に巨大な松が描かれている作品が多い。でも、数年前に実際の襖絵の資料が発見され、松之大廊下は松並木が続いたものであることが分かりました。でも、その絵に変わった忠臣蔵のドラマや映画は1本しか作られていません。2008年の今日放送された田村正和主演の「忠臣蔵・音無しの剣」では、松並木になっていました!現在、皇居東御苑内の松之大廊下があった場所には、その所在を示す碑が建てられています。
また討ち入りの時に雪が降っていたというのは『仮名手本忠臣蔵』での脚色であり、実際は冷え込みが厳しかったが満月のほぼ快晴だったと言われています。
僕も昔は京都で史跡巡りをしたり、東京や函館まで足を延ばして新選組関連の史跡を訪ねましたが、関東に出た時には、赤穂浪士の史跡を見ておかなくては!と思い、47士の足跡を訪ねました。
ここは東京墨田区の本所松坂町公園。ここが何と忠臣蔵の討ち入りの「現場」である、吉良上野介邸の跡地です。
赤穂浪士を語るなら行かなくてはならないのが、東京都港区高輪二丁目にある曹洞宗の寺院で江戸三箇寺の1つ、泉岳寺(せんがくじ)。浅野内匠頭と赤穂浪士が葬られているお寺がここです!駅からわずか徒歩1分の場所にありました。現在も多くの参拝客が訪れますし、毎年12月13日、12月14日には義士祭が催されます。ところがこのお寺は、義士の討ち入り後、当時の住職が義士の所持品を売り払って収益を得たことに世間の批判が集まり、あわててこれらの品を買い戻しに走ったというエピソードがあります。実話です。
境内に入って行くと、大石内蔵助の銅像が出迎えてくれます。(しかし関東は銅像が好きだな・・・と思うのは私だけでしょうか。いろんな所で銅像を見ます。)
そしてこの寺の敷地内には義士を祭る場所や、何やら「いわく」のある場所がありました。まずはここ。
浅野内匠頭が田村右京大夫邸の庭先で切腹した際に、その血がかかったと言われている梅の木と石です。
「首洗井戸」!吉良上野介の首級をこの井戸で洗い、浅野内匠頭の墓前に供え報告したところから、この名がついた井戸です。さすがにこういうものを見るのは不気味です。
ここからが赤穂の義士の眠る場所になりますが、きちんとどれが誰のお墓であるかが分かるように、見取り図もあります。
浅野内匠頭のお墓も、彼の家来達と共に眠っています。辞世の句は「風さそふ花よりも猶我はまた春の名残をいかにとか(や)せん」。
こちらは討ち入りの指導者である、大石内蔵助良雄のお墓。辞世の句は「あら楽や思ひは晴るゝ身は捨つる浮世の月にかゝる雲なし」です。
ちなみに当日、吉良を討った義士達が、吉良邸から泉岳寺まで歩いたコースを辿って見ると、約12キロ、歩いて3時間ほど掛かりました。途中、いろいろ見学しながらでしたが・・。2~3時間にも及ぶ討ち入りの後の、この勝利の凱旋12キロは、義士の胸に何を去来させたかは僕には分かりませんが、今の若者にはこの討ち入り~行軍は、結構タフなものになるのは間違いないでしょう。