青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

ステレオがやって来た!ヤァ!ヤァ!ヤァ!

2017-02-27 | 青春の音盤

僕の育った家庭は、裕福ではありませんでした。小さな家を買うために、両親が朝から夜中まで働いていました。物心ついた時に住んでいたのは、アパートの2階。週に1回、金曜夜8時のプロレス中継が終わった後、「プロレスの日」と銘打って、父親がプロレスごっこで遊んでくれていたので、その物音に苦情が来ることも。

ちなみにこのプロレスで、僕はワン・ツー・スリーは勿論、20までの数字を英語で言えるようになり、リング、シューズ、ゴングと次々と英語を覚えました。フィギュア・フォー・レッグ・ロック(足4の字固め)、アイアン・クロー(鉄の爪)と技を覚えると、単語が更に6個も増えました。興味のあることから覚えた単語は忘れません。

もう少し後に近所の子供同士で遊んだ野球では、まだ「野球」「一塁」「盗塁」「犠牲フライ」と日本語も多く、バット、グローブ、ホームラン、ヒットという単語は使うものの、そう多くの英単語は出て来ません。プロレスではほぼ全身の部位の単語を覚えることが出来ました。その上、臆病者=チキンなども3歳になる前には覚えていたのですから、これはもう英語の英才教育です。(笑)

そんな頃、掃除のバケツの水を当時まだ3歳になるかどうかの僕がひっくり返して、階下が水浸しになりました。この時に両親は引っ越しを決意したそうです。あの家を買いたいと、何度も売れていないかどうかが心配で、「まだ売れていませんように」と確認に何度も足を運んだ物件を買うことに。高知県から大阪に出て来た若い両親の保証人になってくれたのは、父親の勤める運送会社の社長さん。息子のように面倒を見てくれたそうです。僕もその社長さんを、今でも覚えています。

二戸一の家に引っ越しした時、最初に僕が言った言葉は、僕も両親も今でも記憶しています。「この家は飛んでも怒られないの?」でした。プロレスごっこでドロップキックをするたびに、アパートでは下から「うるさい」と言われていましたから。

この家に最初に来た「宝箱」は、勿論テレビでした。しかし、僕が4歳の頃にはカラーテレビより先にステレオが我が家の応接間(玄関とキッチンの間の6畳スペース)に来ました。いわゆる家具調ステレオでした。このステレオから両親、母親の妹(結婚まで同居)が聴いていたのが、ビートルス、ローリング・ストーンズ、エルビス・プレスリーのLPであり、大人気テレビドラマ「ローハイド」や「逃亡者」のシングルレコードでした。カスケーズの「悲しき雨音」、ビージーズの「マサチューセッツ」。春日八郎や殿さまキングス、ザ・タイガース等のレコードもよく聴きました。イエスタディは3歳の僕が、耳で聴いた通りに意味も分からずに歌っていたお気に入りだったそうです。

勿論僕は、怪獣ドラマや宇宙少年ソランのソノシートにも夢中になりましたが、今でも1番聴いたことを覚えているのはビートルズ。そして「黒猫のタンゴ」「薔薇が咲いた」「帰って来たヨッパライ」「恋の季節」「ブルーライト・ヨコハマ」も忘れられません。

幼年期から語りますとキリがないので、物心ついた時から洋楽を聴く環境にあったことだけを本日は記しておきたいと思います。ただし、バイオリンもピアノも、そろばんも習いには行っていません。庶民の暮らしの家でした。