青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

ドライブインシアター Star Dust

2020-04-26 | 昭和の映画館

今でも行きたい、僕の思い出の場所・・・「ドライブ・イン・シアター」“drive-in theater” です。駐車場に巨大なスクリーンが設置されており、観客が自動車に乗ったまま映画を鑑賞します。周囲を気にしなくていいので、ストーリーを少々話そうが、飲食しながら鑑賞しようが、雰囲気が高まってキスくらいするのも自由でした。

そもそも車を持っていないと行くことが出来ない場所でしたから、彼・彼女とドライブ・イン・シアターで映画を観るというのは、80年代においては結構お洒落なこと。デートにおける映画が占める役割も、大きかった。でも、現在のようにポップコーンを食べながら観ることははばかれましたし、会話しながら観ようものなら、すぐに周囲が咳払い、いや「静かにしろ!」と声を飛ばしたはずです。だからこその、ドライブ・イン・シアターだったのです。



車に乗ったまま大きなスクリーンを観るのですが、音声は?会場内に音声をFMで飛ばし、カーステレオのFMで受信するのです。しかしドライブ・イン・シアターが出始めた85年当時、FMラジオにカセットステレオというカーステレオを装備していたのは、金持ちか、余程の音楽好き。普通の車にはAMラジオしか付いていませんでした。だから、カーシガレットから電源を取る、アダプター付のFMラジオを会場で借りることが出来ました。

ところが、エンジンを切ってステレオを付けたら、バッテリーが上がると(実際、その程度で上がらない!)思った連中が、エンジンを付けたアイドリング状態で排気ガスを出しながら観てる・・・そんなのもいました。エアコンをつけたり、ヒーターをつけるためにエンジンをかけっぱなしにしているのも。

僕が初めてドライブ・イン・シアターに行ったのは、85年、神戸のポートアイランドです。「マクセルシアター・イン・神戸ポートアイランド」。夏限定でした。入場料は1台1名の場合1,500円。1台2名以上は3,000円。まるでアメリカのようだ!と、観に行ったのですが、何の映画を観たのかは全く記憶にありません。テレビかレンタルビデオで観たことのある作品だったけど、ドライブ・イン・シアターを体験したくて行った記憶があります。

その後すぐに大阪は「シネ・モービル・ドライブインシアター」が、千里万博公園にオープンしました。こちらの方が神戸より広かったのですが、夜景や港もセットの神戸の方が、雰囲気があったと思います。このシネ・モービル・ドライブインシアターが、88年には「ドライブインシアターStar Dust」1と2の二つのドライブ・イン・シアターになりました。北摂のお洒落な喫茶店に行くと、(新御堂筋沿いの箕面にある白くて大きな喫茶店サンタモニカには、大型プロジェクターがあり、ミュージックビデオや洋画を流していました。)ここを紹介するチラシが置いてあり、割引券が付いていたのでよく利用しました。



「ゴースト」、ダイアン・レインの「愛は危険な香り」や「バック・トゥ・ザ・フューチャー」「危険な情事」等はここで観ました。

若者がアルバイトに精を出して車を手に入れ、彼女を作ってドライブに行く。これがデートの定番の1つだったのが、80年代後半だったのです。

そんなドライブ・イン・シアターですが、日本にはただの1か所もありません。全滅しました。日本中どこにも無いのです!残っていません。ドライブ・イン・シアター・・・懐かしく思い出される方、1度は行ってみたかったという方も、きっといらっしゃると思います。僕も出来ることなら、もう1度行きたい!

新型コロナでドライブ・イン・シアターが見直され、各地で復活の兆しかと報道されていますが、とても、80~90年代のような本格的な施設はありません。採算を考えながら不定期開催であったり、料金がかなり高額だったり。当時の雰囲気を感じるのも、少し無理な感じがします。

 

岡江久美子 YES, I FEEL

2020-04-25 | 青春の音盤
先日亡くなられた岡江久美子さん。
 
「金曜日の妻たちへⅡ~男たちよ、変気かい?」に出演した時の可愛い奥さん役が好きでした。ちょっと僕より年上なので、結婚生活なんかについても、妙にリアリティがありました。あんな可愛い女性がご近所に越してくる訳はありませんが(笑)。
 
伊武雅刀, 高橋恵子, 竜雷太, 田中好子, 坂東英二, 篠ひろ子, 小西博之, 泉谷しげる, 志穂美悦子・・メンバーも揃っていました。
 
そんな彼女がレコードをリリースしていたのをご存知ですか?阿川泰子に影響されジャズ・シンガーを目指して出した1枚がこれです。アルバムタイトルは「YES, I FEEL」。
 
 
また、週刊誌にヌードを発表した時は、話題になりました。その後「スコラ」増刊号で写真集も発売。綺麗でしたね。でも、清純派女優が脱ぐ、いや、女優さんが脱ぐことが珍しかった時代ですので、「どうして?」と思ったことを忘れられません。
 
朝のワイドショーに出ている時は、正直そんなに大したことを話さないので、観てなかったのですが・・・。僕には「金妻」が心に残る彼女の作品でした。
 
心からお悔やみ申し上げます。

コロナ禍の「遊び心」

2020-04-25 | 今を考える

「新世界国際劇場」の手書き看板が、映画好きの僕の琴線に触れました。

「緊急事態宣言」に伴い、映画館は休業要請の対象なのですが、この劇場では「休館記念!フェイクニュース 暴力報道2020」「決断 戒厳の長き夜」「インチキ映画特集 コロナマン 最凶ダークヒーロー爆誕」の手書き看板が掲げられています。

昭和25年にオープンした「新世界国際劇場」は、週替わりで洋画を3本立て上映する二番館。

冨岡和彦支配人は、「この期間に何かやろう」と架空映画の絵看板の制作を発案。「手描きの看板だから、こういうことは自由にできますね」。

どれも意味深な映画タイトル。その真意について尋ねると、「タイトルは思いつきです。まあ、いろんな情報がニュースで入ってくるので、こういうタイトルはどうかなという感じ。深い意味を話しちゃうのは野暮なんで内緒にしときますわ。どういう内容の映画か想像してください」と。

看板を掲出した理由は、映画館が休業することによる看板職人の廃業危機を救うこと、そして劇場の士気をあげること。

「世の中が暗いので遊び心を出したかった。このやり方はうちしかできないけど、一方で映画館全体としては、こういう現状であっても毎日、劇場内を掃除したり、いつでも興行を再開できるようにしておくこと。希望を持って日々を過ごすことが大切。映画の仕事にかかわらず、何もしなかったら萎えてしまうのは当たり前。何か、自分なりにできることを探して仕事をするべきだと思います」と冨岡支配人は語る。

今後も、架空映画の絵看板の制作案はあるそうだが、「ネタを明かすとおもしろくないから秘密です。ただ、こう見えてもタイトルのバランスを考えてやっているんですよ(笑)。ひとつがアクションだったら、あとはサバイバルと人間ドラマの3本立てにしようとか。次はもっとバラエティに富んだジャンルの絵看板をやりたいですね」と声を弾ませた。

隣接する成人映画館「国際地下劇場」の方も凄い。(笑)

最後のこの上の3本立てについてのコメント・・・プロの映画人を感じますね!


1980年代・“サンタモニカ”という喫茶店があった。

2020-04-24 | 昭和の喫茶店

新御堂筋の北側突き当り(箕面)と、国道171号線の間にあった「サンタモニカ」を懐かしむ人は多いと思います。

真っ白な建物、店内のイスやテーブルや壁も白で統一。駐車場には星条旗、オレンジ色のポロシャツとジーンズをユニフォームにした店員さん。大型プロジェクターで、洋楽ビデオクリップや、フラッシュダンスなどの洋画のビデオを流していました。ゆったり座れる座席が心地よく、午前も夜中も楽しめました。アイスコーヒーとハンバーガーをセットでオーダーしたことが多かったと記憶しています。

自動車を持っていないと行くことが出来なかったお店。だから、カップルがデートで来ているのがほとんど。車とGFもしくはBFがいた人は、絶対にここに足を運んだはずです。

1990年代に入っていつの間にか、新御堂筋沿いの箕面~江坂間にあったキラ星のような素敵な喫茶店&レストランは、1軒ずつ店を閉め始め、現在ではそこにお店があった面影さえも全くないのは、本当に寂しい限りです。

同時に昔は多かったラブホテル(ファッションホテル)も今ではどんどん姿を消しています。男と女が出会い、楽しみ、一緒に過ごす場所が激減し、車にもスポーツにも異性にも興味のないスマホ・ゲーム&ネット族が増加すれば、少子高齢化も当然の流れなのかも知れません。


青春の “旧” 大阪府立体育会館

2020-04-20 | 昭和・懐かしい大阪の風景

昭和の青春時代を思い出す時、絶対に外せないのが、大阪のイベント会場です。その多くが今はもう無くなってしまっているのが寂しいのですが・・。例えば南海ホークスの本拠地大阪球場。野球だけではなく、1989年・UWFの前田―ドールマン戦がありました。大阪に住んでいた僕と同年代の女性なら、西城秀樹のコンサート会場として有名かも知れません。

扇町プールは、建物自体は見たことがありますが、僕の父親世代には、力道山とルー・テーズの世界戦が行われた場所として有名でしたが、今はもう昔に取り壊されました。

僕の大好きなイベント会場は大阪府立体育会館。「体育館」ではなく、「体育会館」が正式名称でした。1987年2月、現在の建物が2年がかりの工事の末に完成しました。綺麗で明るい体育会館。

でも、僕にとっての大阪府立体育会館は、やはり1985年2月を最後に、その歴史を閉じた旧・大阪府立体育会館です。

何度、この会場に足を運んだのか数えきれませんが、強烈な思い出は、初めてここを訪れた昭和44年12月2日。アントニオ猪木がドリー・ファンク・ジュニアに挑戦したNWA世界ヘビー級戦でした。60分3本勝負なのに、1本をどちらかが取ることもなく、フルタイムを動き回っての引き分けに終わった名勝負でした。

体育館の総合的な設備の面では、現在の大阪府立体育会館は何の申し分もありません。しかし、あの旧・大阪府立体育会館の独特の古ぼけた雰囲気、埃っぽい感じが忘れられません。

今のイベント施設と違い、当時の府立体育会館にはエアコンが無く、天井は鉄骨が剥き出しの施設でした。夏のプロレス観戦はおろか、コンサートでも、うちわを片手に鑑賞しなければならない施設でした。



音響も、フェスティバルホールどころか、厚生年金会館にもかなわない施設でしたが、あのビリー・ジョエルが「ストレンジャー」「ニューヨーク52番街」「グラスハウス」の大ヒットとグラミーを引っさげて、1981年4月20-21日に来日コンサートを行ったのが何とここなのです。あれにはたまげました!(笑)  東では武道館なのに、大阪では「ここ?」と心底驚きました。

コンサートでは京セラ・ドームや、ザ・シンフォニー、大阪城ホール、いづれ再オープンするフェスティバルホールには歯が立ちませんでした。しかし、プロレス会場としては、これ以上にない雰囲気を醸し出した思い出の体育会館でした。

東京ではタイトルマッチが興業を成功させますが、大阪は違います。他では見られないカードを大阪人は好みました。今でも「タイガー・ジェット・シン対上田馬之助、レフェリー・アントニオ猪木」のカードで超満員になった大阪府立体育会館を忘れられません。外国人同士の対戦など初物にも大阪人は弱かった。(笑)