青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

初めてのアルバイト

2021-07-31 | 昭和・思い出は色褪せない

誰もがアルバイトの経験があると思いますが、コロナ感染拡大のあおりを受けて、この夏休みにバイトが出来ない学生さんも大勢いると思います。社会に触れ、いろいろなことを学ぶ。アルバイト代を手に入れ、行動範囲が広がったり趣味を広げたり。そういう経験が出来ないのは、人生にとって大きなマイナスです。

僕が生まれて初めて経験したバイトは、高校1年の冬の年賀状配達。家から少し離れているけど、知っている場所を担当させていたのがミソ。(笑)

中学1年の時から通っている散髪屋。そこから実家までの付近が僕の受け持ち区域でした。散髪の後何十年ぶりに歩いてみると、阪神淡路と北大阪地震でもつぶれず、昔からのアパートが残っている!(住民はいませんでした。)

文化住宅と呼ばれた、どこが文化的か分からないアパート。僕が配達している当時は、1階も2階もドアの横の家の外に洗濯機が置いてあり、表札も出ていない、ポストも新聞受けがあればいいくらいで、住所はこのアパートでも、どの部屋が誰か分からないという困った配達先でした。「希望荘」「錦荘」それがここの名前ですが、そういう名前が多かった。

こういうアパートや、猛犬注意の家、なぜか人影を見て怒鳴る人の住んでいる家、配達するのが嫌になる所が数軒あったのを思い出します。

自分の家が小さいながらも持ち家で、増改築して行くので、いろんな家を見ていると、両親が本当に頑張って働いていたんだなと思ったものです。

あまねく配達する・・・「あまねく」なんて言葉を覚えたのは、このバイトをしたからでした。守秘義務は守りましたが、今なら時効で言える話。①学校での嫌われ者への年賀状には、「今年こそ〇んで下さい」なんて書いてあるのが何通もあった。(驚)この手の嫌われ者は暴力に訴える輩だったので、誰が書いたか筆跡からバレたらどうする気だろうと心配しました。②映画の試写会や、抽選の当選って意外に多い!「え?世の中、狭い区域の中でもこれだけ当選する人がいるの?」と驚き。そこから僕もいろんな抽選に応募し始めましたが、これが当たる当たる!(笑)

大阪の中でもお金持ちの多い北摂でも、こういう空き家や古い家が増えています。少子高齢化の波は、確実に身近にヒタヒタと迫って来ています。


「クリアリー・ラヴ」~いじめられた子供時代

2021-07-30 | 青春の音盤

僕は小学校に入学した時には、近所の一緒に遊んでくれる年長のお兄さんたちにもらって、「少年マガジン」や「少年ジャンプ」を読んでいました。「巨人の星」「あしたのジョー」などのスポ根ものから、「荒野の少年イサム」や「男一匹ガキ大将」「ハレンチ学園」まで、小学校の1年生にも関わらずマンガ雑誌を読んでいました。実は、小1で既に大人の読む文庫本も読めました。

小学校入学前には、ひらかな、カタカナ、漢字を覚えていたので、いや、母親に叩き込まれていたので、自分で興味のある本を図書館から借りて来ては、片っ端から読んでいました。同級生が国語の教科書を読むのに苦労していているのを見て不思議でしたし、算数も九九は覚えていましたので、小学校1~3年は本当に授業が退屈だった。

文字を覚えると、本が読めます。本が読めると、自分の欲しい知識がいくらでも手に入ります。そうやって成長して行くのですが、人よりも早く、正義感や自分の考えというものを持ってしまうので、周囲に溶け込むことが出来ませんでした。「●●くんが一緒なら僕もやる」とか、「みんながするから僕もする」的な考えを全く持ったことが無い。自分がしたいことをする子供だったのです。

小学校の5年からは生徒会役員にもなり、6年には生徒会長、卒業式では卒業生代表で答辞を読みました。中学に入っても、周囲に押されて学級委員に生徒会役員です。ところがこんな子供は周囲に敵を作ります。正しいと思ったことを言うだけでも、反感を買うことがあるのです。

いわゆる素行の悪い連中に目をつけられる。消しゴムが無くなったり、エンピツが折られていたりはまだしも、ノートが無くなったりすると、これは虐めだと気が付きます。何かにつけて言いがかりを付けられ、喧嘩を売られて殴られることもありました。

それでも、僕はまだ恵まれていました。1番仲の良い小学校からの友人Wが、不良も避けて通るほど腕っぷしが強く、人望があった。彼のおかげで、虐めから助かることがかなりあったのです。教師に殴られたことを言っても、「お前も言い方が悪かったのではないか」などと言われるくらいで助けてくれません。「話し合いで解決しろ」と言います。教師は、そんな問題をこっちに持ってくるなという姿勢でした。

そんな時はWが不良に、「俺の友達に手を出すな」と言ってくれます。Wの目の届く範囲では、攻撃を受けることはありません。ただし、ノートに落書きがされていたり、有形無形の嫌がらせはありました。これは中学の3年間続きました。ただし、学校にいる間はそうでも、下校してしまえば近所の友人たちと野球をしたりして遊び回っていました。運動神経はイマイチでしたが、スポーツは好きでしたから。

そんな時に買ったのが、オリビア・ニュートン・ジョンの“クリアリー・ラヴ”です。シングル・カットされた曲はラジオで聴いたのですが、はっきり言ってイマイチ!でも、ジャケットの美しさに負けて購入しました。

中身はアコースティックサウンドが心地良く、いわゆるヒット曲は無いものの、シングルカットされない曲の中に、「夢のかなたへ」(Sail into Tomorrow)や「愛らしい嘘」(Crying, Laughing, Loving, Lying)、「クリアリー・ラヴ」(Clearly Love)等の美しい曲が多数あり、大満足の1枚でした。

見開きのジャケットやライナーの裏などにオリビアの写真がたくさんあり、ますますファンになりました。当時は女優の“オリビア・ハッセー”“デボラ・ラフィン”も大好きでした。

僕が受けた虐めはどんどんエスカレートして行きました。僕の時代の虐めと、今の時代の虐め。どちらが酷いかは分かりません。しかし、子供を見守るハズの学校や教員が、虐めにきちんと向き合って解決に導くということを怠る、あるいはその能力が無いということは、今も昔もあまり変わらないと思います。

人と少しだけ違うということが、虐めの1つの原因であるならば、昔に比べてアレルギーを持つ子供や支援児が多い今の学校の方が、虐め問題をたくさん抱えているという気がしてなりません。確かに人も動物で、社会は競争です。でも、一般社会では警察が機能しているように、学校内でも強い何かが機能すべきだと僕は考えます。

蛇足ながら、今なら分かることが1つあります。正しいことを言うから、するから嫌われるのではなく、僕が言うから嫌われるということ。好意を持っている人に言われても何ともありませんが、嫌いな人に言われると「セクハラ」「パワハラ」と言いたくなるのと同じですね。


メダリスト達よ、日本を救え!

2021-07-29 | 今を考える
コロナ感染が止まらず過去最悪の状態なのに、人々がそれを恐れないという最悪の状況になって来ました。第一波の時の、あの「人が消えた街」はどこに・・。
 
毎晩五輪メダリストがTVでインタビューを受けていますが、最後の「応援ありがとうございました」という言葉の代わりに、全員が「コロナに気をつけましょう」と言ってくれたら!そう思うのは僕だけでしょうか?
 
 
「海外メディアが世界中から日本に来ている今だからこそ、明日から無人の街を世界の人々に見せて、日本人の凄さを世界に知らしめよう!」と言ってくれたら。凄いことが日本人全員で達成できるのに!
 
写真のようにメダリストが、メダル獲得の日にインタビューを受けている光景はTVで何度もどの局でも流されています。これから先もメダリストは、何度も何度もインタビューを受けるでしょう。その時に、「五輪開催ありがとう」「応援ありがとう」に加え、「コロナに気をつけましょう」と言ってほしい!
 
五輪の政治利用は駄目と言っても、メダリストが健康へのメッセージを言っても駄目なのか?メダルを捨てる覚悟で、メダリストよ、日本を救え!
 
それが五輪アスリートの、国民全員への恩返しではないか?
 
菅総理をはじめ、政治家が何を言っても、医療従事者が必死に叫んでも、非常事態宣言を出そうがお金を出そうが、「現在の街の光景」が日常になっているから駄目なんです。
 
 
誰に頼まれたのでもなく、第一波の時に出来た「ステイホーム」。あれを2週間再現出来たら、今のコロナ感染拡大に歯止めが掛かる!あの時の「恐怖」を思い出してほしい。僕はずっと今まで忘れたことがありません。
 
その声掛けを日本中に発信し、今最も人の心に響かせることが出来るのは、五輪でメダルを獲得した選手であり、彼らが真剣にカメラに向かい、テレビやネットを見ている人々に訴えることです。
 
誰か、お願いだからやってくれ!

最高のロールキャベツ ~アカシア 新宿本店

2021-07-29 | 昭和の喫茶店

いつも関西のお店の話ばかりですが、僕は横浜や東京での生活も長かったので、今日は東京の話を。僕が家庭にもいろいろあって、温かい食事に本当に飢えていた時。何気に「どこかいいお店教えて」と訊いた時、友人のYさんが連れて行ってくれたお店がここ。

新宿駅東口、紀伊国屋の裏を少し歩いた場所のお店でした。「アカシア 新宿本店」、1963年(昭和38年)にロールキャベツシチューのお店として開業したお店。いつも満員のお客さんのお店だということだったけれど、運良くすぐに座れました。「2つ食べたら結構お腹一杯になるよ」とYさんがオススメしてくれました。

温かくて美味しくて・・・いろんな友人達と一緒にここに行きました。気に入ってしまうと何度でも行ってしまうのが僕。ついでに、紀伊国屋や紀伊国屋のDVD店にも行けるのが便利でした。

会社の連中にも奢ってやると、「たまにはもっといい店に連れて行って下さいよ」と言い出した。こんなに良いお店ではなく、銀座とか、歌舞伎町に行きたかったのだろう。そんなくだらない連中を、この素晴らしいお店に連れて行った記憶だけは消去したい!

あの頃は、そういうくだらない人間と、どう付き合うかを学んだ時期でもありました。しんどかったな、あの頃は・・。


「川西駅」と「能勢口駅」は別々の駅でした

2021-07-28 | 昭和・懐かしい京阪神の風景

現在「川西能勢口」と呼んでいる、大阪は阪急宝塚線の駅は、昔は「阪急・能勢口駅」と「能勢電鉄・川西駅」の2つの駅でした。僕らは北摂の感覚ですが、実はここは兵庫県です。

阪急・川西駅と能勢電・能勢口駅と、逆に記憶している人が多いことに驚きます!(笑)

これが証拠写真です。小学校の低学年の頃に遠足の定番・妙見山に行く時に乗せ口駅で乗り換えの際、1度阪急の改札を出て、再び能勢電の改札を入っていたことを覚えています。

現在は「川西能勢口駅」という1つの駅となり、ホーム間の乗り換えです。能勢電に乗ると、そこは遠足で行く山の中へと続く、文字通り田舎電車でした。現在のように普通に家が建ち並ぶ沿線になるとは夢にも思いませんでした。

川西市は地場産業の無い町で、今も田舎には違いありませんが、僕が子供の頃は道路も狭く暗く、年に1回自動車で「蛍」を見に行く時にだけ行く方面でした。本当にゴルフ場以外、何もありませんでした。

もう1枚は、以前紹介した宝塚ファミリーランドの写真が1枚出て来たので。

昭和43年(1968年)のものです。同園が閉館したのは平成15年でした。もっと前に閉館したような気がしていたのですが、意外と最近のことだったのですね。

こういうコーヒーカップの乗り物、今でも現役のところがあるのかな?懐かしいです。