青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

1982~3年の京阪神・年末年始興行!

2024-12-07 | 昭和の映画館

師走になり、今週末からは本格的な冬が到来です。師走のロードショーは、学生時代の僕には1番の楽しみでした。大学で部活を勤しむ身としては、GWや夏休みの興行にはなかなか行く時間が取れなかったものですが、年末年始だけは授業も部活も休みに入ります。冬休みのアルバイトの間隙を縫って、劇場に足を運んだものです。

現在と違って、70年代後半から80年代の京阪神には、映画館が今とは比較にならない程多く、またシネコンではない大劇場が多くありました。年末年始にデートや家族でのお楽しみと言えば、映画館。まだまだそういう時代でした。写真は昭和57年(1982年)年末の、難波・南街会館です。

さて、この昭和57~58年(1982~1983年)の年末年始、京阪神の劇場ではどんな映画が上映されていたのでしょう?懐かしいラインアップを思い出してみましょう。

今では消えてしまった映画館、名前は残っていても当時とは違う建物の映画館がほとんどですね。往年のファンには懐かしい劇場名ばかりだと思いますが、これ全てロードショー劇場であり、2番館などの名画座は含まれていません。今とは比較にならない程、映画館が京阪神には並んでいたのです。

この時は「E.T.」が大ヒットとなり、配給元の会社ではボーナスが大盤振る舞いされたと、当時新聞記事になったほどでした。あんなに多くの人で埋め尽くされた劇場を見たのは、当時でも何年ぶりだったでしょう。特に子供が多く、ちょっといつもより劇場がざわついていました(笑)。

この期間に僕が劇場で鑑賞したのは、「E.T.」「ランボー」「ポーキース」「愛と青春の旅立ち」の4本。その中で1番気に入ったのは「ポーキーズ」でした。友人たちと笑いが止まらず、苦しかった!次が「ランボー」で、勿論いい映画でしたが、この中では「E.T.」が第4位。「E.T.」はこの後もビデオ、LD、DVD等一切買っていません。僕の子供たちはTVで観たと思います。

 


南街劇場 ~さよなら南街ラストショー!

2024-10-03 | 昭和の映画館

僕が若き頃に映画を観まくった劇場は、大阪は「キタ」と呼ばれる梅田界隈の劇場。時には神戸・京都・北摂地域の映画館にも、映画は元より「映画館」自体を観たくて足を運んだこともありました。また、旅行先でも地方の映画館がどんなものか見に行きましたし、海外でも映画館を見たくて足を運びました。

2番館やいわゆる名画座も足げく通いましたが、大阪の「ミナミ」と呼ばれる難波周辺の映画館に行ったことは、そんなに多くはありません。ミナミと言えば旧・大阪府立体育会館。70年代~80年代のここでの新日本プロレスの興行は全て観戦しました。そんな僕ですが、ミナミでも「南街会館」だけは時々利用していました。

1番記憶に残っているのはホラー映画の「サンゲリア」。なぜかキタでは上映しておらず、南街劇場まで足を運んだのを今でも覚えています。

さて、この南街会館ですが、2004年2月1日、大阪府知事選挙の戦いが繰り広げられる中、建物の老朽化が進んだために、その50年の歴史に幕を閉じました。

1月31日、2月1日の2日間に閉館イベント「さよなら南街 ラストショー ~ありがとう、映画のような50年~」が開催され、31日は「ベン・ハー」「アラビアのロレンス」「ラストタンゴ・イン・パリ」「ブラック・レイン」、1日は「伊豆の踊子」「太陽を盗んだ男」「エレキの若大将」が上映され、最終上映は「七人の侍」で、その前には浜村淳のトークショーもありました。オープン以来、50年間の総動員数は8300万人。年間最高記録は1959年(昭和34年)の295万人。

南街会館の最期には、シネマスコープの「南街劇場」「南街東宝」「南街シネマ」「南街スカラ座」「南街文化劇場」が入っていました。この地には南街会館の前には「南地演舞場」が建設され、1897年(明治30年)2月15日、フランスのリュミエール兄弟製作によるシネマトグラフが上映され、この上映会は入場料を接収した日本で初めての興行であり、そのことから南地演舞場跡地の南街会館が映画興行発祥の地とされ、その碑はTOHOシネマズとなった現在も、1階のTOHOシネマズ直通エレベーターの右側の壁に埋め込まれています。

ちなみに南街会館での初の映画は、1953年12月の「聖衣」が南街劇場のシネマスコープで公開。座席数1,488席は、キタの北野劇場と並び大阪の映画の殿堂と呼ぶに相応しい劇場でした。

閉鎖後は南街会館は解体され、会館跡には「なんばマルイ」が建てられ、8階から11階に後継館であるTOHOシネマズなんば・本館(開業当初は単にTOHOシネマズなんば)が開館して、現在に至ります。ミナミの映画館については、キングさんの長く続く映画ブログ「MOVIE KINGDOM」に、とても詳しく書かれていますので、ぜひご覧下さい。

 


これが2番館 ~“十三東映”・“十三ロマン”

2024-06-11 | 昭和の映画館

映画好きには懐かしい言葉かも。「2番館」や「3番館」。大劇場が消え去り、シネコンばかりになっても、映画公開の興行形態は今も残っています。

大阪や東京などの大都市の映画館は、「ロードショー館」と呼ばれ、新作が封切られます。しかし、余りにも客足が悪ければ上映期間が短縮され、逆に大ヒットになると延長されたものです。でも、大都市の郊外や地方の映画館は、封切り日が遅い代わりに2本立てや3本立てで映画を観ることが出来ました。こういう公開の遅い映画館を「2番館」、更に公開の遅れる映画館を「3番館」と呼びました。

スクリーンも小さいけれど、2本立て3本立てだし、家から近いし、料金も安いし、見逃した作品を観れるというメリットは大きかった。でも、今ではこういう映画館はどんどん閉館となっています。新作映画もすぐにDVDになってレンタルが開始されたり、配信で家に居ながら観ることが出来るからです。

ここは阪急宝塚線・十三駅の商店街にあった「十三東映」です。「十三」は「じゅうそう」と読みますが、藤田まことのヒット曲「十三の女」で有名になりました。大阪第一学区の最高レベル校「北野高校」もあれば、駅前に商店街があるだけではなく、駅近くに「風俗店」や「パチンコ」「キャバレー」「ラブホテル」が密集する特異な場所です。映画「ブラックレイン」のロケ地にもなりました。

上の写真では分かりにくいですが・・・

このように商店街の中にある小さな映画館でした。「十三東映」は1,400円・学生1,100円。「十三ロマン」も1,400円・学生1,100円。

80年代には十三には映画館が、まだ沢山残っていました。他には「十三シネマ」は松竹系を公開。料金も梅田のロードショー映画館より100円安いだけの1,400円・学生1,200円。でも2本立て。「十三アカデミー劇場」はポルノ3本立てで1,400円・学生1,100円。「十三弥生座」は洋画・邦画問わずの3本立てで、一般1,000円・学生900円でした。

この時代、梅田「北野劇場」でのロードショーが、一般1,500円、大学・高校1,300円、中学1,100円、子供900円と結構細かい料金設定で、「OS劇場」や「阪急プラザ」「三番街シネマ1~3」も同じ。梅田コマ劇場にあった(現在のHEPファイブ)「コマ・ゴールド」と「コマ・シルバー」は、洋画のリバイバル2本立てで、ゴールドは一般900円学生800円、シルバーは一般800円学生700円という良心的なお値段でした。

 


“大劇名画座” と “大劇シネマ” ~遥か昔の映画館

2024-06-08 | 昭和の映画館

ついつい忘れがちなところで、大阪劇場(大劇)を覚えている方はどれくらいいらっしゃるでしょう?

この写真は昭和42年(1967年)のものです。

昭和8年(1933年)に映画館として営業を開始、映画とレビューの2本立て興行を行い、大阪大空襲で焼失するも再建、昭和42年(1967年)に独自興行を打ち切り廃座となります。歌謡ショーでは、三波春夫や美空ひばり、橋幸夫。喜劇ではエノケン、シミケン、アチャコらが活躍した劇場です。

廃座後は劇場部分を含めて大劇ビル全体を閉鎖し、総合レジャービルに改装。同年「大劇レジャービル」として生まれ変わりました。ジャズ喫茶「やかた」、ボウリング場「大劇ドリームボウル」、ダンスホール「大劇ダンス天国」、キャバレー、アルバイトサロン、ビリヤード場、射的場、サウナ、パチンコ場、お化け喫茶サタン、大劇プレイランド、貸店舗スペースなどが設置され、館内はさながら複雑な迷路状態となっていました。

僕が知っているのはここに「大劇名画座」と「大劇シネマ」という2つの映画館が入っていた頃の中でも、1970年代から1980年代のことです。「大劇名画座」では毎週洋画が2本立てで上映され、昭和57年頃(1982年)学生は700円で一般は900円。「大劇シネマ」はポルノ映画館で、ポルノ3本立てが学生1200円、一般1300円という料金。洋画よりポルノの方が安かった!

1991年(平成3年)にビルは解体され、跡地は「なんばオリエンタルホテル」となっている。オリエンタルホテル南側の商店街「なんば千日前通」は、劇場閉鎖後も長らく「千日前大劇南通」と呼ばれていました。

 


三番街シネマ ~シネマ1・2・3

2024-06-06 | 昭和の映画館

大阪梅田の茶屋町。ユニクロの向かいにあるのが百又ビル。現在はイースクエア茶屋町ビルとなりましたが、かつては1階がゲームセンター、喫茶店。上階にはボウリング場と映画館3館が入っていました。スクリーンは小さ目でしたが、よく利用した映画館です。勿論このブログに取り上げられているので、今はもうありません(笑)

写真は平成19年(2007年)9月の、ラスト上映の時。映画館には青春時代の思い出が詰まっていますので、閉館はどこの映画館であっても寂しいものです。

映画のチラシを窓口に貰いに廻っていた1975年の4月に、三番街シネマはオープン。暫くするとシネマ2がオープンして2館が入っていました。阪急梅田駅からすぐなので、映画を観て紀伊国屋に寄って帰宅するという簡単散歩コースにしていました。1977年12月にシネマ3がオープンして、全盛期の3館体制に。

この頃は少し中津に向かって歩くと、「梅田スポーツガーデン」があり、スケートリンクも人気がありました。80年代にはまだ残っていたのですが、いつの間にか消え去ってショックでした。羽生選手がスケートで大人気になっても、スケート場は全く増えない。人気選手が出れば、そのスポーツも普及するという流れが、今や消え去っていることに驚きます。

この当時はどこもそうでしたが、座席指定も入れ替えも無い良い時代でしたので、面白い映画は2回観たものです。

シネマ1では「ハバナ」、シネマ2では「パリ、テキサス」を観たのを覚えていますが、どの館かは分かりませんが、「13日の金曜日」「プロ野球を10倍楽しむ方法」「007シリーズ」等もここで観ました。

閉館時の最後の上映作品はシネマ1が「もののけ姫」、シネマ2が「お葬式」、シネマ3は「サタデー・ナイト・フィーバー」で、意外と言うか、ちょっと僕が足を運ぶ映画ではないなと、ラストショーには行くこと無く、とても残念だった気持ちを覚えています。