生まれてから社会人になるまで、自分の家が大阪・阪急宝塚線沿線にあったので、僕の生活は阪急電車を使って、京都・大阪・神戸に出掛けるというものでした。甲子園球場に行く時は、梅田で阪神電車に乗り換え。ミナミ周辺に出掛ける時は、市営地下鉄・御堂筋線。だから、国鉄、現在のJRには全く無縁の人生でした。
そんな僕が国鉄と関わり合いを本格的に持ったのは高校時代。国鉄茨木駅の周辺に住む友人が出来たからです。国鉄茨木駅前のような大きなバスターミナルを持つ駅は、阪急沿線では見たことがなく驚きました。「奥」「余野」「忍頂寺」「サニータウン」・・バスの向かう先の地名も、それまで聞いたこともないものばかり。
昭和45年(1970年)の国鉄茨木駅前。まだまだのどかでした。写真内右の、駅・改札からの階段を下りたところにあった喫茶店「チップ・イン」は、僕の友人の家が営んでいたお店でした。写真の右側にピザ・ハットがオープンしたり、1980年頃にはどんどん賑やかになって行きました。
国鉄茨木駅から阪急茨木駅に向かう産業道路はよく歩きました。道路沿いにはゲームセンターも多く、書店・レコード屋・喫茶店と賑わっていました。
阪急側からJR茨木駅方向を向き、緑の歩道橋方面を撮影したもの。歩道橋手前右側に商店街があったような記憶があります。ゴールデンバットという両切りの安タバコが売っていたタバコ屋さんが入口付近にありました。
こちらは1970年代後半と、現在の同じ場所を比較したもの。撮影地点の背後が、冠水が心配になるJRの線路下です。
この先、茨木市役所の辺りには昔は映画館も数館ありましたが、今ではその面影もありませんし、とにかく歩いている人も少なくなりました。どこの町でも同じですが、少子高齢化が本当に目立って寂しい風景になりました。
ビルの中を高速道路が貫通する、大阪・中之島の独特の光景。
阪神高速11号池田線の中之島分岐と出入橋出口の間で、朝日新聞ビルの中を貫通していました。1964年に、高速道路がビルの中を通るように設計されて作られ、2013年に朝日新聞社ビルや、フェスティバルホールの建て替え時に、この光景は無くなりました。こちらの記事をご参照下さい。
今日の昭和の写真は、この場所の昭和39年の建設時の光景です。
阪神高速1号環状線は、西横堀川などの河川や堀川跡の上に造られ、昭和39年(1964年)に土佐堀~湊町間で開業、翌年に梅田~道頓堀川まで延伸しました。
写真は土佐堀川を越えるS字橋の工事風景で、当時としては画期的な技術で架橋されました。
手前の橋は土佐堀川可動堰(錦橋)、右奥のビルは大同生命、左奥は住友銀行本店です。