誰にでも人生に懐かしい思い出があるでしょう。今日、8月26日は僕が学生の時の強烈なイベント、「プロレス夢のオールスター戦」が行われた日です。昭和54年8月26日ですから、今から29年前です!ウワ~私も歳を取ったという実感が湧かざるを得ません。場所は日本武道館でした。プロレスを後押しする東京スポーツの創立20周年記念として企画されましたが、各団体との交渉は難航。僕が修学旅行(1週間の北海道)に出発するまでには事態は変わりませんでした。まあ、実現は無理だろうと思っていました。函館の青函連絡船の前の売店で見たスポーツ紙には「西部の王者、Jウェイン逝く」の大見出しが1面に載っていました。全紙を買い込み、悲しみにくれましたが、オールスター戦の話は載っていませんでした。
ところが!新大阪に着いて売店で見た大阪スポーツ(関西では東スポは大スポの名で親しまれている)の見出しは!「オールスター戦実現!」でした。当時のプロレス3団体(新日本、全日本、国際)との交渉の末、6月14日に正式発表されたのです!交渉が難航したのは、猪木-馬場のカードを巡ってでした。対戦を要求する猪木と、相手にしない馬場が双方とも譲らず、一時は実現も危ぶまれましたが、最終的に馬場と猪木が8年ぶりのタッグを組んで、ファン選出のタッグチームと対戦するという案でまとまったのです。馬場、猪木組の対戦相手のファン投票は、最後にファンクスを逆転してブッチャー、シン組に決定しました。これは今でも出来レースだったと信じています。(詳細は省く)
この時僕が東京に行くのに使ったのが、長距離高速バスの「ドリーム号」でした。これなら運賃も安く宿を取る必要も無い。(笑)東京行きはまさにドリームでした。行きは早朝の6時過ぎに八重洲南口に無事到着し、汁の濃いそばを食べました。渋谷の「すみや」でサントラ盤を買いました。忘れられない思い出は、試合時間が大体の予定をいい意味で裏切り長くなり、帰りのバスに間に合わなくなったこと!友人に全ての荷物を持たせ、地下鉄も分からないので、大手町から東京駅のバス停まで走り(僕は長距離走ならインターハイクラスでした)、バスの出発を止めて友人と無事帰阪したのです。帰りのバスの他の乗客は、遅延に対して文句も言わず、私に全試合の詳細を教えてほしいと依頼してきたので、何時間も話していたのを忘れません。(笑)
ファンの反響は爆発的なものとなりました。チケット販売開始の8月3日の午前10時には1,000人の行列が出来ました。試合当日は、開場の午後4時半には1キロものファンの長蛇の列が武道館周辺に出来ていました。私は友人と将棋を指していました。(笑)別に並ばなくてもと思われるでしょう?指定席ですから。でも東京見物をするお金がないので、どこにも行けず、また先着何百人に記念品のプレゼントがあったので並んだのです。記念品はこの興行のポスター、記念タオル、猪木が販売していた「アントンマテ茶」でした。当然頂戴しました。前から3列目のリングサイド席。最高の席を私は手に入れていました。
そうそう大会のパンフは友人にも頼まれて、何冊も買いました。大会パンフレットは1部500円で7,000部用意されましたが、全て完売。さらに通販用のパンフレットも製作された。当時は武道館クラスの大会で1部200円のパンフレットが2000~3000部売れれば良かった方なので、この大会の世間の注目度がいかに高かったのかが分かります。
当時は新日本がテレビ朝日、全日本が日本テレビ、国際が東京12チャンネルと、それぞれがテレビ中継に関して専属契約をしていたので、他局と契約状態の選手を放送することで生じるであろう軋轢を避けるべく、今大会のテレビ中継は一切なされなかった(逆にテレビ中継がなかったからこそ、この大会が実現したとも言える)。しかし事前の取り決めで、報道ニュース扱いで映像を流すならば、専属契約の有無に関わらず各局とも自由に放送できることとしました。これにより各局の当日のニュース枠で約3分間だけ映像が放送された。その為、この全ての試合を目撃出来たのは、会場にいた16,000人の超満員の観客だけだったのです。僕は見たくても見れない友人達の為に、8ミリでの撮影に成功し、大阪に帰って公民館で上映会をしたものです。音楽活動をした数年前には、テレ朝の関係者から当時の録画をDVDに入れてもらいました。
カードは全8試合で出場選手は30人でしたが、特別試合のバトルロイヤルにも19人が参加して総勢49人となり、出場しなかったのは体調を崩していたグレート草津だけという正に文字通りオールスターになったのです。今回はこの記念すべき試合を、僕の所有している当時の雑誌(増刊号)から抜粋して掲載しておきます。
第1試合のバトルロイヤルは、今考えるとすごいメンバーです。
山本小鉄、魁勝司、小林邦昭、平田淳二、前田日明、斉藤弘幸、ジョージ高野、渕正信、園田一治、大仁田厚、百田光雄、肥後宗典、伊藤正男、ミスター林、鶴見五郎、高杉正彦、米村勉、デビル・ムラサキ、若松市政です。結果は山本小鉄が、大仁田厚をバックブリーカーでギブアップさせて勝利を収めました。写真左下でギブアップしているのが大仁田で、右下には若き前田が見られます。こんな豪華なメンバーが前座でひとまとめにされていたんですから、驚きですね。
第4試合では玄人好みと言われた試合が組まれました。長州力(新日本)とアニマル浜口(国際)がタッグを組んで、全日本の極道コンビと戦ったのです。後のジャパン・プロレスの核となる長州と浜口が、初めて手を合わせた試合でした。後から考えれば、まさに歴史の始まりのカードでした。アニマル浜口?ハイ!あの「燃えろ~」の浜口京子さんのお父さんです。写真は若いでしょう?(笑)
第7試合の6人タッグマッチ45分1本勝負
ジャンボ鶴田、ミル・マスカラス、藤波辰巳の夢のトリオが実現。マサ斎藤、タイガー戸口、高千穂明久を相手に名勝負を繰り広げました。藤波・鶴田のWドロップキックや、3人のトリプル・ドロップキックは、ファンを満足させてくれる見所でした。
メインの第9試合、タッグマッチ時間無制限1本勝負
ジャイアント馬場、アントニオ猪木 VSアブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー・ジェット・シンの試合は、13分3秒、猪木がシンから逆さ押さえ込みでフォールを奪いました。
試合後、猪木はリング上で「馬場さん!この次、このリングで顔を合わせる時は戦う時です!受けてくれますか?」とマイクアピールし、馬場も「よし、やろう!」と応じた。場内の興奮は最高潮に達しました。あの時の興奮のシーンは今でも目に焼きついています。しかし、その後両雄はリング上では一度も顔を合すことなく、馬場は1999年没。よって当大会が最後のBI砲そろい踏みとなりました。ファンの望むものを実現させないプロレス界が、奇跡的にまとまった一度限りのオールスター戦。確実にマット界を底上げし、この後プロレス界は新日本プロレスを中心に、隆盛を誇りました。そしてオールスター戦は、その後2度と実現しませんでした。
・・・それどころか、今や日本におけるプロレスは風前の灯です。このリングに立った、ほとんどのレスラーが引退、もしくは既に鬼籍に入られているのには、驚きます。馬場、鶴田がこの世にいない。園田一治は飛行機の墜落事故で亡くなり、スネーク奄美も81年に脳腫瘍で亡くなっています。ロッキー羽田も91年に43歳の若さで亡くなりました。
バトルロイヤル
決勝 山本小鉄(12分14秒 背骨折り) 大仁田厚
第一試合 (新日)荒川真(8分26秒 片エビ固め)スネーク奄美(国際)
第二試合 星野勘太郎(新日)、マイティ井上(国際)vs 石川隆士(全日)、木戸修(新日)
◎星野(12分32秒 回転エビ固め)木戸
第三試合 阿修羅・原(国際)、佐藤照夫(全日)、木村健吾(新日)vs 永源遙(新日)、藤原喜明(新日)、寺西勇(国際)
◎原(16分22秒 回転エビ固め)寺西
第四試合 長州力(新日)、アニマル浜口(国際)vs グレート小鹿(全日)、大熊元司(全日)
◎浜口(11分8秒 反則勝ち)大熊
第五試合 (新日)坂口征二(6分34秒 片エビ固め)ロッキー羽田(全日)
第六試合 ジャンボ鶴田(全日)、藤波辰巳(新日)、ミル・マスカラスvs タイガー戸口(全日)、マサ斎藤(フリー)、高千穂明久(全日)
◎マスカラス(14分56秒 体固め) 斎藤
第七試合 (国際)ラッシャー木村(12分4秒 リングアウト勝ち)ストロング小林(新日)
第八試合 ジャイアント馬場(全日)、アントニオ猪木(新日)vs アブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー・ジェット・シン
◎猪木(13分3秒 逆さ押さえ込み) シン