青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

どうなる東京五輪? ~1964年・記念切手

2021-05-31 | 今を考える

正直申し上げて、現在の東京都が発表している、東京都の新型コロナウイルス新規感染者数を僕は信用していません。なぜあんなの検査数が少ないかも含め、作られた数字にしか思えないからです。すなわち重症者数・死者の数も信じていません。

東京五輪が決定した時は、本当に日本中が期待しました。ところが今は、日本中が「中止」を期待しているような気がします。五輪は無事に開催されるでしょう。でも、問題は五輪後です。いろいろなコロナウイルス変異種が登場し、日本はコロナ変異種の「見本市」にならないかと心配になります。

海外からの人々に病人も出るでしょうし、医療崩壊は避けられません。今、狂ったようにワクチン接種を行っても、決して間に合うものではありません。誰が中止を口にして、中止に向かって日本を動かすのか?このまま開催という博打を打つのか?命がけのゲームを楽しんでいるのは誰なのでしょう?

今回の東京五輪の記念切手を、よく考えると僕は目にしていません。でも、こういうモノは持っています。1964年東京五輪の記念切手シートです。主要会場と聖火をモチーフにしたもの。

そして、五輪競技別の記念切手です。柔道・レスリングは今もしっかり残っていました。



額面に「5+5」と書いているのは、5円の寄付金付き5円切手ということ。使う場合は5円として現在でも使用出来ます。ただし、こういう記念切手を知らない郵便局員が、たまたまその郵便物を扱ったら、配達されずに戻されるかも知れませんね。

何年か前に、サンリオのキティちゃんの切手を郵便局が発売しました。それを郵便局の窓口で買い、その場で封筒に貼って局員に渡すと、翌日僕のところに返って来ました。「シールでは郵便物は送れません」と言われました。実話です。

本当に五輪が日本中から歓迎されていたら、記念切手だけではなく、いろいろな五輪グッズが販売されたり、販促グッズとして登場したり・・世の中もっと明るい気分になっているハズです。

宿泊施設、旅行業、飲食店、五輪が中止になることで、大きな打撃を受ける業界があるのは事実です。五輪が中止になっても、新型コロナウイルスなどが無かったら、誰もそんなことにはならなかったのですが・・。もう起きてしまったことは変えられない。では、これから起きる事態には、国をあげて備えるべきです。正当な補償も含めて、今こそ日本人が日本を守らなければならないのです。


木下大サーカス を覚えていますか?

2021-05-30 | 素晴らしかった興行・イベント

「サーカス」・・僕は子供の頃、2つのイメージを持っていました。

まず、空中ブランコやライオンの火の輪くぐり、愉快なピエロ。これはアメリカ映画から得た知識が基になっています。もう1つは、「言うことを聞かないと、サーカスに売り飛ばすよ」と、大人が子供に言うイメージ。こちらは古い邦画や舞台からの言葉でした。

このイメージに関わらず、サーカスというものを1度は見たいと願っていました。「サーカス一座」という言葉は、海外の小説や映画や歌詞には付きもので、頻繁に耳にしたからです。

70年代初め小学生のある日、TVでサーカスのCMが流れました。「見たい!」心からそう思い、両親に連れて行って欲しいとねだりました。

それが「木下大サーカス・ショー」で、昨日記事にした「宝塚ファミリーランド」にやって来るというのです。当時僕の家では読売新聞を購読していたのですが、そこが宝塚ファミリーランドやエキスポランドの入場券を定期的に配っていました。そのチケットで、無料で観に行くことが出来たのです。

猛獣使い、ピエロ、映画の中で見たショーの数々を、目の前で観ることが出来た僕は、本当に興奮しました。

そのクライマックスは「空中ブランコ」でした。ネットを張ってはいたものの、落ちたら死ぬんじゃないかと怖かったし、物凄いスリルと興奮を経験しました。

そして、球体の中をバイクが雷のような音をたてて、上下左右を立体的にグルグル回るショーも目玉の1つでした。ただ、残念ながら当時の僕は、このショーの凄さが理解出来ていませんでした。遠目に見え難かったこともあり、空中ブランコが僕の1番のお気に入りとなりました。

僕は無料券をもらい、この時にもう1度。そして違う年にも行っていますので、人生で木下大サーカスは4回観たと記憶しています。宝塚以外の場所でも観た記憶があるのですが、それが和歌山だったのか、エキスポランドだったのかは覚えていません。

今の若者や子供たちは、あのサーカスの熱気を知っているのでしょうか?バーチャルの世界や映像で見るのと、目の前で観るのとは全く違います。1人でも多くの子供たちに、サーカスを目の前で観て欲しいと思います。


宝塚ファミリーランド ~阪急が誇ったレジャーランド!

2021-05-29 | 昭和・懐かしい京阪神の風景

宝塚ファミリーランドの写真、子供を連れて遊びに行く場所ですから、子供は写っていても、ファミリーランドの園内を撮ったものが意外にありません。フィルム代が高かった時代、今のデジカメみたいに手当たり次第に撮影できませんでした。

遊園地だけではなく、動物園・植物園もあれば、宝塚歌劇や宝塚大温泉もあり、大人も子供も遊べる場所である宝塚ファミリーランドは、万博跡のエキスポランドよりも歴史が古く、僕自身子供の頃に親に連れて行ってもらいましたし、僕も自分の子供を連れて遊びに行きました。

ファミリーランドの歴史は古く、阪急の創始者・小林一三氏が武庫川右岸にあった「宝塚温泉」に対抗し、明治時代に武庫川左岸の荒地を整備して国内初の室内プールを設置、一大レジャー施設へと発展して行きました。戦前には既に、温泉・歌劇・動植物園に遊戯施設が揃っていました。

1960年(昭和35年)、宝塚新温泉の開園50周年を記念して、動植物園や遊戯施設を含めた名称を一般から公募し、その結果「宝塚ファミリーランド」が選ばれ、以後はこの名称で呼ばれる様になりました。同年には、武庫川左岸の温泉設備を拡張・整備して、「宝塚ヘルスセンター」(のち「宝塚大温泉」に改称)も開業。

僕の子供時代1967年(昭和42年)には、園内東側の敷地に「宝塚大人形館 世界はひとつ」が開館、さらに二重大観覧車の設置や急流すべり、お化け屋敷や屋外プールの設置も行われ、施設は充実しました。毎年夏になると、「ゲゲゲの鬼太郎」のイベントが開催されたのも覚えています。

80年代にはホワイトタイガーを飼育、宝塚ファミリーランドもシンボルにもなりました。

1960年代から70年代にかけては僕が遊び、1993年には僕の子供を連れて行き、最後に訪れたのは1998年の8月でした。目を閉じれば、いろんな楽しかった光景が浮かびます。家から電車1本乗り換えなし。車で行くにも近い割には、行った回数が少ないのは、小学校の遠足でも行くことが多かったからです。阪神パークにレオポンを見に行ったことも覚えていますが、宝塚ファミリーランドの方が使われる回数が多かった。

しかし、USJを始めとした大型アミューズメントパークの開園や、レジャーの多様化、少子化等の影響もあって、2003年(平成15年)8月31日に営業を終了。宝塚新温泉から数えて90年以上の歴史に幕を閉じました。

ファミリーランドの写真、皆さんも探してみて下さい。


新御堂沿いの「伝説の喫茶店」

2021-05-28 | 昭和の喫茶店

これまで当ブログのカテゴリー「昭和の喫茶店」で紹介してきた「喫茶店」は、ほとんどが今は行くことのできないお店ばかりです。壊滅しました。

その代りに「今は、こんな良い茶店があるよ・・・」なら良いのですが、減っているだけという現状。本当に寂しい。僕らが思い出の店に行く機会も永遠に無ければ、若い人は僕らが過ごしたような時間を過ごせないということ。部活をする比率も下がっているし、人との付き合いや友人を持てない若者が増加するばかり!可哀想に思います。だからネットカフェ、キャバクラ等の中途半端な遊戯施設が増える。



さて、消え去った「新御堂筋沿いの、あの当時の喫茶店」のマッチが出て来ましたので、一挙公開。喫煙率も高かった!あの時代のコストの掛かったマッチ、見てるだけで楽しいです。


ディスコ ~“フォーカルポイント”&“ボトムライン”

2021-05-27 | 昭和・懐かしい大阪の風景

梅田・阪急東通り商店街にあった懐かしい場所と言えば・・「ディスコ」です!僕たちの1つ下の世代なら、ディスコとは呼ばず、「クラブ」と呼び、場所も阪急・かっぱ横丁の横の「D.D.ハウス」に移っていたと思います。

東通りにはメジャーなディスコが2つありました。「ボトムライン」と「フォーカルポイント」です。

フォーカルポイントは紫光ビルの2階にある大人向きのディスコで、男性は女性同伴で無ければ入店出来ず、女性は女性だけで入店出来ました。ナンパ目的の男だけのグループをシャットアウトすることで、女性の集客を狙っていました。

騒々しくも無く、スーパーニッカを3,500円でボトルキープするシステムでした。上品にハイクラスなイメージ戦略のお店だったような気がします。

ボトムラインはフォーカルポイントと同じビルの3~4階にあり、ロックバンドの演奏もうるさい、若さ弾けるヤング向けのディスコでした。こっちは男同士でも入店出来たため、女の子をひっかけに来る男のグループが多かった。

その為に、ボトムラインでは時々喧嘩もありました。カップルで来ている女の子にナンパを掛けた男と彼氏が喧嘩になる。お酒も入るし、肉食男女が集まる場所でしたからね。

ところで、両店は同じビルにあったのに、入り口が極端に左右に分かれていたので、少し離れた場所に位置していたと記憶されている人も多いようです。現在の東通り商店街の「まんだらけ」のビルでした。

東通りの写真は1985年当時のものです。時計が、すごい時間を指している・・・。繁華街が眠らない街だとか、情報発信基地などと呼ばれ始めた頃ですね。