青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

“鬼軍曹”逝く 元プロレスラーの山本小鉄さんが死去

2010-08-29 | スポーツの話題

新日本プロレスリング株式会社・山本小鉄顧問が、8月28日(土)午前6:42に低酸素性脳症(ていさんそせいのうしょう)により、お亡くなりになりました。享年 68歳。長野・軽井沢で倒れ、軽井沢町の病院で、呼吸困難の状態となったまま帰らぬ人となったという。通夜・告別式は親族、関係者のみで行われます。
 
山本小鉄さんは1941年10月30日、神奈川県横浜市出身。1963年1月に日本プロレスに入門。星野勘太郎さんとのヤマハ・ブラサーズとしてアメリカで活躍。1972年3月には、新日本プロレス旗揚げに参加した。1980年4月には、まだまだ現役を続行希望も、後進の指導とテレビ解説を猪木から依頼され、惜しまれて涙の引退。鮮やかに現役を退いた。引退後は、コーチとして後進の指導にあたり、“鬼軍曹”と呼ばれる熱血指導で数々の名選手を生み出した。前田日明や初代タイガーマスクらも指導された口で、小鉄さんの車の音が道場に聞えただけで、震え上がったというエピソードは余りにも有名。また『ワールドプロレスリング』(テレビ朝日系)のテレビ解説者としても活躍し、当時・実況を担当していた古館伊知郎氏との名コンビでも知られる。

選手経験のあるレギュラー解説者は昔もいまも珍しく、特に大技のときは「危ないですよ、これは危ないですよ」「いまのはキツいですよ」と叫んだ。マットの下には鉄骨が十字型に組まれており、例えば同じパイルドライバー(脳天杭打ち)の落としどころも、鉄骨の上とそうでない部分とでは威力が違うという。「だからキツい」。その言葉に妙な説得力があった。また、同時に「審判部長」の肩書きがあり、外国人レスラーが暴走しだすと、山本さんは「あっ、ちょっと待ってください」と解説を放り投げて放送席を飛び出し、力づくで事態を収拾。大試合では自らレフェリーを務めた。「あっ、ちょっと待ってください」は流行語にもなりました。

自分の所属団体だけではなく、本物を伝える、プロはこうあるべきだという考えから、女子プロレスラーであっても指導するなど、団体の垣根を越えた指導者として活躍していた。 近年は、J SPORTS ESPN 新日本プロレス中継の解説を担当するなど、多方面で活躍していました。また、早朝に六本木に行けば、愛犬を連れて散歩(トレーニング?)する小鉄さんの姿が見かけられたものでした。

■アントニオ猪木のFAXによるコメント「また一人、また一人と、我々の仲間を見送るのは非常に寂しいものです。選手の育成に尽力したことに感謝するとともに、故人のご冥福を心よりお祈り致します。」

僕が新日本プロレスと関係を持ったのも、僕が高校1年生の時、一緒に練習したいという手紙を新日本プロレス宛てに出したところ、小鉄さんから返事を頂き、昔の大阪府立体育会館で開場前のレスラー達の練習の仲間に入れてもらったのが始まりでした。心からお悔やみを申し上げます。