青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

昔とは大違いの “梅雨” ~災害は忘れた頃に

2024-06-13 | 昭和・懐かしい北摂の風景

6月も中旬に差し掛かりましたが、梅雨とは無縁のような毎日で、梅雨を通り越して既に「夏」の日差しと30度超えの気温です。今のままの湿度で、気温がもう少し上がるのが日本の夏なら過ごしやすいのに、あのジトジト湿度の夏が、遅れてもやって来るのでしょう。

それにしても昔は梅雨と言えば長く雨が降り、雨もしくは曇りの日が続く。紫陽花、カタツムリ、長靴、傘、水たまり、アメンボ、水を張った田んぼ・・・といったイメージがありましたが、近年は夏日の間に雨の日が時々来る。晴れか雨かのハッキリした日が続くのが、梅雨に明らかに変わりました。

この写真は昭和36年(1961年)の大阪・池田市の猪名川です。梅雨前線の雨で、猪名川がカーブする桃園付近で、川が氾濫寸前です。

もう少し下った川沿いにはダイハツ工業の池田工場があり、ここが氾濫しようものならダイハツは壊滅してしまいますので、猪名川のこの付近は、他の地点に比べても桁外れに河川敷が整備されました。

川幅が広くなっただけではなく、堤防も遥かに高くなりました。

こちらは同じ日の新町・五月山裾。家の足元にまで水が迫っています。

こちらもダイハツ前ほどではありませんが、堤防が整備されています。でも、もう少し上流の川西市になると、川から水が溢れる危険性がある地点が今もあります。

この年の梅雨前線の豪雨は、日本中で被害をもたらしました。兵庫県でも死者41名を出しています。あちこちで町は昔よりも整備されていますが、それでも水害で大きな被害が毎年出ていますので、逆に渇水の怖さもありますが、災害への備えは忘れてはいけませんね。


今も昔と変わらない “珍しい踏切”

2024-05-24 | 昭和・懐かしい北摂の風景

北大阪の阪急電車は、昭和50年代(1970年代)という早い時期から、踏切渋滞の解消や事故防止の為、線路の高架化工事には結構取り組んで来ました。「この踏切で、いつも長い間待たされたな~」と記憶に残る場所、ほとんどが今は高架化されて踏切が無くなっています。もしくは80~90年代と比べて自動車の交通量が減少したため、昔ほど渋滞が起きません。

今は踏切で車が混むというより、駅構内の人身事故で乗客が運転再開を待たされる時代になりました。どんな理由があるにせよ、他人に迷惑を掛ける行為は絶対に止めてもらいたいものです。

ここは昭和55年(1980年)の吹田市寿町1丁目、やなぎ遊園南端付近の踏切です。

この場所は現在もほとんど変わっていません。線路右側の建物は、当時の建物が今も残っています。ただその手前の空き地だった部分は、土地の有効活用なのかマンションやアパートになっています。無駄な空き地は、交通の便の良い場所では今はほとんど見かけません。

交通標識や消火栓の標識も、おそらく昔のものがそのまま今も使われていると思います。さすがに色落ちしているし、歪みも見えます。

建物は替わっても左端に写る新聞販売店は、上の写真から40数年経った今も残っています。しかし「看板」はかなり小さなものに替わりました。新聞配達というシステムが、そもそもいつまで残るのでしょうか。かなりの数の配達所が今では消えていますし、通勤電車の中で駅売りの新聞を買って読んでいる人も、今ではほとんど見掛けません。

 


石橋に架ける橋

2024-05-20 | 昭和・懐かしい北摂の風景

町の景色が変わっても国道はその場所にあるし、川がある限り橋は残ります。電柱が残っていれば、昔と現在の位置を特定出来ます。例えその残っているものが変わっていても、その変化に時代の移り変わりを見て、楽しむことが出来ます。

ここは大阪府池田市石橋。駅で言えば阪急電車・宝塚線・石橋駅(現在の石橋阪大前駅)西口改札を出て、北に向かった場所。石橋商店街北端の箕面川に架かる「赤い橋」です。商店街入り口ゲートの横幕に「毎月18日は商店街の定休日」とある。これは昭和34年(1959年)の様子です。

こちらが現在の同じ場所です。

地図では①の場所になります。

地図②の場所に今も昔も架かるのが「天神橋」で、現在の様子が下の写真です。

かつて①の位置の「赤い橋」と、②の位置・上の写真「天神橋」の間、地図「?」の位置には、もう一つ小さな橋がありました。今や覚えているのは地元の高齢者だけだと思います。

これがその橋です。撮影は昭和34年(1959年)。この2~3年後には、この橋は消えてしまいましたが、左右の家は2019年には、まだ残っていました。

橋が1本無くなれば、そこを使っていた人々は大回りを強いられ、とても不便です。昭和30~40年代にはこういう小さな橋があちこちの町にたくさんありましたが、橋の老朽化と共に消えて行きました。橋が落ちては人命にかかわるので、橋の維持にはお金がしっかりかかります。だから、地元の少人数の人々だけに親しまれていた橋は、消えゆくしかありませんでした。

この橋には欄干が付いていますが、欄干も無いコンクリート板1枚の橋や、木造の橋もよく見かけたものです。田んぼや溜池が多かった北摂では、幅広の用水路にそういう橋が架かっていました。

 


庄内 ~賑わいのある町でも今は!

2024-05-18 | 昭和・懐かしい北摂の風景

阪急電車宝塚線・庄内駅。あちらこちらの駅前が再開発で激変して行く中、庄内駅西口の姿は、今もほとんど変わりがありません。これは昭和55年(1980年)の風景です。1980年は、若い人には大昔でしょうが、僕にはついこの前という印象。1番多感だった頃だからでしょうか。

カラーの方は昨年の写真。よく見ると白黒では奥に見える関西相互銀行のビルが、今では無くなっています。この町には子供も多いので、駅前には塾が並んでいます。

中央にローソンがありますが、80年代にはここに「アコム」が経営するレンタルビデオ屋があり、他では置いていない作品がレンタルされていました。NHKビデオの1980年全米オープンの上下2巻。青木功が2位に輝いた試合です。その為にわざわざ、ここに足を運びました。(笑)

ここから少し南下すると、そこには「庄内駅西商店街」が今もあります。

これも昭和55年(1980年)の「庄内駅西商店街」の写真です。アーケード内が買い物客で賑わう商店街の様子は、今見ても楽しくなります。歳末大売り出し、庄内えびすの横断幕もあるので、正月の買い物に人々が繰り出しているのでしょう。庄内の市場は値段も安く、広く北摂の人々が年末には押しかけていました。庄内の賑わいを表す昭和の1枚。

ここから庄内ダイエー、キリンドーと梯子するのが年末の我が家でした。小学校に上がる前の僕は、行くたびにダイエーの本屋さんで、「サイボーグ009」の単行本や「怪獣図鑑」などを買ってもらいました。その代わり「早く帰ろう」等とは言わないという約束で。(笑)

年末ではないものの、現在は全盛期を知る者には寂しい光景になっています。

 


“大阪万博” に夢はあるか?

2024-05-14 | 昭和・懐かしい北摂の風景

来年の大阪万博が何かと物議を醸していますが、今更何を言っても開催は中止になりません。それが分かっていて中止を叫ぶのは愚の骨頂。どんな万博にするのかを真剣に考えるべきです。また、どう考えてもロクでもないイベントであるなら、どうすれば少しでも利益が出るのかを考えるべきでしょう。

昭和45年(1970年)の「日本万国博覧会」は3月15日(日)~9月13日(日)の183日間。入場者は6421万8770人に上り、入場料は大人(23歳以上)は800円、青年(15~22歳)は600円、小人(4~14歳)は400円でした。

この写真のような混雑ぶりが開催期間中続いたのですが、それだけ夢があったのでしょう。僕はまず、肌の色の違う人々を目の前で見たのが初めて、いろんな国の聞いたことが無い言葉が耳に入って来たのも人生初の経験でした。目当ては「月の石」。他にも見るモノ全てが輝いていました。でも、その時キラキラ輝いていたものは、今では全部誰もが知っているものばかり。昔もテレビはあったけれど白黒で、洋画を見ても肌の色は分からなかった。セリフも吹替で英語は聞けなかったのです。

ネットで未成年でもヌードではなく、性行為すら見れてしまう今の世の中。わざわざ足を運んでまで子供たちがわくわくする夢が、今度の大阪万博にあるのでしょうか?だから子供たちを無料招待と言っても、ガス漏れが危ないので行くかどうか・・を理由にして学校側が喜びもしない。

万博会場内には電気自動車もあり、会場周囲を回る写真のモノレールにも子供たちの歓声が上がりました。

右から左に書くアラビア文字、暗号のような文字が沢山目に入ってくる中、このイギリス館は逆に新鮮でした。中央にある4本の柱からワイヤーで建物を吊り下げる構造が特徴で、空中に浮かんでいるように見えたのが凄かった。「英国」と書かれた漢字が和風で面白い。

この写真はカナダ館。鏡張りの建物で四方を囲まれていて、これも綺麗に輝いていました。そして、ここに行くとメープルリーフのピンバッジが貰えて、とても嬉しかった。サウジアラビア館で貰った、サハラ砂漠の砂も嬉しかったことを忘れません。

大人がいろいろ言っていますが、今度の万博、子供たちが見たいのか?楽しいのか?そこに夢が詰まっているのかどうかが1番大切だと思います。そういう視点でもっと次世代のことを考えて欲しい。育児手当とか、大人の懐具合のことばかり議論しても世の中は良くならないと思います。