青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

カップヌードルミュージアム、孤軍奮闘中!

2024-11-30 | 昭和・懐かしい北摂の風景

土日ともなれば、歩行者が途切れることのない阪急宝塚線・池田駅前からの道。城下町であり、いろんな文化が栄え、70年代~80年代は大きなゴルフ練習場、何面もあるテニスコート、複数の映画館が駅前にあり、それ以前には演劇も栄えた町。今はそれらは全部消え去りましたが、今度は「落語の町」を売りに、ラーメン博物館などによって、昔より町の1部は、インバウンドで賑わっています。

今では僕にとって、友人も多く住む馴染みの深い町ですが、子供の頃は社会見学で、ダイハツの最新鋭の工場を見学に行く町でした。僕は小学校の修学旅行で鈴鹿は本田の工場も見学しましたが、当時はそれに勝るとも劣らないダイハツ工場でした。

写真は下の地図の丸印がついた地点、池田市姫室町の昭和40年(1965年)。現呉服町交差点です。道を渡るのは呉服町小学校の児童たち。写真右端にダイハツの工場の方向を示す看板が立っています。下は現在の様子で、ローソンになっています。

昔はこの辺りは工場しか無かったのですが、地図の赤丸右下にカップヌードルミュージアムが載っているように、ここが人気の観光地になっています。

同じ交差点の違う角度からの写真。角には煙草屋がありました。こういうお店はタバコだけではなく、パン屋さんを兼ねていたり、公衆電話が置いてあり、地元には不可欠なお店でした。現在コンビニがなくてはならない存在であるのと同じようなものでした。

この交差点の西北角の煙草屋が壊され、現在(上写真)のように電報電話局の別館が建ったのは昭和42年(1967年)。NTTと名称が変わった現在では、人の出入りが全く無く、ここは何のために残っているのか分からないし、目の前の公衆電話も壊れたままです。

池田市池田は全体から見れば、明らかに寂れていますが、カップヌードルミュージアムだけは孤軍奮闘中です。


服部 ~お行儀の良い庶民の町

2024-10-23 | 昭和・懐かしい北摂の風景

服部天神。僕が高校受験のために通っていた塾があったり、母親の勤める洋裁店があったことから、服部駅は子供の頃からお馴染みの駅です。服部天神は、最初は「えべっさん」の賑やかで明るい駅前の雰囲気につられて、物心がついたかどうかの子供の頃に足を運びました。賑やかな音楽が境内に鳴り響き、飾りの付いた笹が売っていたり、初詣から1週間足らずでのイベントに驚きました。高校~大学~社会人と過ごした中で、基本「えべっさん」は、関西人だけが知るイベントでした。

服部天神は、菅原道真公がここで足の病からご回復、太宰府まで無事到着されたことにちなんで「足の神社」として知られています。でも、僕はえべっさんの方を先に知ってしまったのです。普通の神社だと分かったのは中学を卒業するころでした。後にこの神社の宮司さんが、友人のお兄さんだと判明して驚きました(笑)それ以来、厄払いなどをここでお願いして来ました。いつも静かな綺麗な神社です。

ここは服部天神の西側の路地を北に見ています。昭和50年(1975年)の町並みが分かります。右手前に服部店神宮の入り口が見え、この道を真っすぐに進むと、服部駅東商店街に出ます。

同じ場所の現在の風景がこれ。沢山あったお店も無くなってしまいました。

寂しげに見えますが、天神さんの東側は国道176号線。そもそも駅周辺は全て服部店神宮の敷地だったのですが、阪急・宝塚線がその敷地の真ん中を通過したことによって、現在のような形になってしまったのです。

その証拠に、服部天神のご神木は今も元々の位置、服部天神駅のホームに残されています。

門前町であったため、服部駅の商店街はお店が減ったとは言え、今も沢山のお店が並んでいます。昭和の時代の賑わいが嘘のようですが、住宅地と商店、神社が同居する場所で、1つ北の駅である高級住宅地で知られる「曽根」と、1つ南のごみごみした戸籍を持たない人が昭和30年代に溢れた「庄内」との間にあり、まさにお行儀の良い庶民の町でした。

 


懐かしい昭和・駅の売店!~昭和と令和の“石橋”

2024-10-13 | 昭和・懐かしい北摂の風景

自分が長年慣れ親しんだ駅前の光景ほど、記憶に残る景色は無いと思います。通勤・通学・買い物・・いつも通る駅前の景色。高架工事や駅前再開発で、昔と随分変わってしまった駅も多い中、阪急宝塚線の「石橋駅」、現在の「石橋阪大前駅」は、今も昔の面影を残しています。

これは昭和30年(1955年)頃の石橋駅東口の景色です。現在と比べてみると・・・

何となく面影が残っているでしょう?

左端の駐車禁止の標識の左手は今も、僕が学生時代だった70年代もタクシー乗り場です。写真右側のオレンジの建物は、現在2階が学習塾になっていますが、1978年頃に当時この北摂でも大きな書店として建てられました。映画「赤穂城断絶」や「病院坂の首縊りの家」の、公開前に発売された原作のハードカバー本をここで買ったのを覚えています。また、コピー機が最初に置かれたお店もここでした。1枚30円~50円で高価でした。80年代に入ると値引き競争が始まり、1枚10円~20円に落ち着きましたが、現在と大差が無い値段というのに驚きます。今ではトナーの質が良くなり、コピーの出来上がりも当時と比較にならない程綺麗で、カラーコピーも普通となりましたが。

写真中央、日通のトラックが停まっていますが、その後ろの壁の部分は70~80年代は長く、新聞や宝くじを販売している駅の売店でした。僕は70年代、ここで大阪スポーツを買い、前夜のプロレスの結果に一喜一憂していました。また、宝くじ1枚100円を生まれて初めて「1枚だけ」買ったのもここで、それが1万円の当選!これは嬉しかった!今でも忘れることが出来ません。

1枚目と同じ日の昭和30年頃の改札のアップですが、改札左におばちゃんが座っているのが、駅の売店の初期。新聞と雑誌を当初は販売していましたが、徐々にタバコや飲料、ガムと品数が増えて行き、駅舎の1部を使ったきちんとした売店に変わって行きました。今ではローソンが駅に入って、こういう売店は消え去りました。大阪梅田の阪神百貨店前の地下通路には、こういう屋台が沢山あり、そこで新聞や雑誌、飲み物等を売っている光景が80年代まで見られました。

当時の朝のラッシュ時、サラリーマンが次々と新聞や雑誌、タバコなど複数の品物を買う中、瞬時に金額を計算して品物を渡しているおばちゃんの仕事ぶりは、今と比較すると人間業ではありませんでした。今はレジがあって自動の読み取り機までもあるのに、どれだけ待たされることか!当時はテレビで時々、駅のおばちゃんが何秒でお客を捌いているか、特集していましたね。早く捌くために、お釣りのコインを何枚単位でどのように予め積み上げて置いておくとか。

今の駅の売店の人に、当時のおばちゃんの真似をするのは絶対に不可能。あれだけ早く暗算が出来て、瞬時に手が動いて品物とお金を交換してお釣りも渡す。一流企業のオフィスで働く人でも、あんなに早く暗算をしてパソコンをタイプする人はいません。そういう優秀な人が、駅の売店で働いていたのです。昭和の人々の働きぶりは、現在とは異次元でした。

昔のスーパーのレジのおばさんも、自分の指で品物の値段を1点1点打っていたのに、今の読み取りレジよりどれだけ早かったか!レジに並んで、その遅さにイライラしたことが昔は無かった。働き方改革と言われますが、人の能力が低下しているのに、更に楽をして賃金だけが上がって行くのは如何なものでしょう。

もう1つ書いておきますと・・最近のレジはバーコードの読み取りでレジ係が、同じものを10個買っても「×10」とはせず、1個1個握って読み取る。例えばアイスクリームが溶けようとも・・。魚のお刺身でも、調理したお惣菜でも、カップ麺でも、中身があっちこっちに動こうとも、バーコードの位置を探して360度どの方向にでも品物を向ける。レジ係の賃金は上がっても、質は落ちることはあっても上がらない。買い物をするのが楽しくなく、面倒な・・・不幸な世の中になりました。

 


関西大学「寮祭」パレード!

2024-09-29 | 昭和・懐かしい北摂の風景

秋と言えば、「学祭」。中学校~高校なら「文化祭」と呼ばれているのかも知れませんが、大学になると「学祭」と呼ばれていると思います。学祭には参加しない学生が、昔も今もいると思いますが、僕は高校時代の文化祭も、大学時代の学祭も、高校に夜遅くまで残ったり、大学に泊まったりして思い切り楽しみました。

運動部に所属していたので、催し物を開催したり、そもそも学祭の実行委員会のメンバーだったので運営にも携わったりで大忙し。忙しければ忙しいほど楽しかった。普段話もしなかった人と仲良くなったり、先輩からいろいろなことを学び、それが就活や社会人になってからも役立ったり、多くの女子生徒と仲良くなったり。今でも学祭シーズンには母校を訪ねます。

ここは昭和47年(1972年)関西大学の校門前の坂道です。関西大学にはユニークなイベントがありました。大学祭は周辺の人たちに大学に来てもらいます。学祭だけではなく、春には広い学内の桜が綺麗に咲き乱れますので、その時にも大勢の周辺の方が花見に来てくれます。

ところが上の写真は「寮祭」のパレードで、寮祭は学生たちが仮装して学外に繰り出します

関大の寮では僕が学生の時は、朝はラジオ体操から始まり、歌唱指導として「学歌」や「寮歌」などを教えてもくれました。建物も古かったですが、関大前駅の周辺もまだまだ田舎で、廊下は裸電球。窓の外は崖に竹藪。蛇も出れば、部屋の中ではムカデとも戦ったものでした。また女子との合同ハイキングも。

今のように学生時代には団体生活や部活などを避け、就職してからは飲み会も無い。個人主義が優先されるのは時代の流れなのでしょうが、その結果狭い世界で生きている若者が多過ぎると危惧します。先輩、後輩、異性との楽しい付き合いを通じて、いろいろなことを経験し、大人になって行くのが学生時代だと思うのですが、今は歳を取っても子供のまま・・という若者が多い。コミュニケーション障害なんて言葉、昔は無かったですし。

 


昭和の駅前再開発 ~池田・ステーションN

2024-09-08 | 昭和・懐かしい北摂の風景

阪急電車・宝塚線・池田駅前ビル「ステーションN」。今もお店が入っていますが、昔に比べれば本当に寂しくなりました。池田駅から直接繋がっており、池田市役所や豊能税務署、池田郵便局・池田警察等への通り道でもあるので、もっと栄えても良いと思うのですが・・・。

後ろのビルがステーションNで、手前の池田駅前公園から国道176号線を跨ぐ歩道橋の開通式が行われたのが、昭和60年(1985年)。池田駅前公園にテントを張って、祝賀式を行い、開通した歩道橋を撮ってビルに向かいました。駅前にあった和光証券も、駅前再開発で立ち退き、このビルに入りました。

ステーションNの店舗の開店は、歩道橋開通後でした。エスカレーター乗降口前の小広場では、着ぐるみの虎やパンダが風船を配って開店を祝いました。

この当時は2階に文具店の長谷川アートがあり、重宝したのですが、その後はコンビニになり、今ではそのコンビニも姿を消しました。

また、旅行代理店のJTBも多くのお客さんが旅行プランの相談や、飛行機や電車・ホテル等の予約に訪れていましたが、インターネット普及と共に姿を消しました。2階には大きな書店もありました。

池田駅前は書店にとっては鬼門なのか、その書店だけではなく、栄町商店街から国道176号線を挟んだ耕文堂書店は、1階が一般誌、2階が参考書や漫画売り場で広い売り場面積がありましたが閉店し、マンションのモデルルーム受付に。その後はビル自体が現在解体されて工事中。サンシティ2階にあった書店も、サンシティのリニューアルに伴って閉店。栄町商店街内にあった書店も営業をしていません。

大阪教育大学附属池田小学校や池田高校など多くの生徒が通る駅前にも関わらず、文具店や書店が姿を消してしまうことが、少子高齢化やインターネット普及による購買スタイルの変化を物語っています。

池田は歴史のある城下町です。昔は映画館が何軒もあり、大規模なテニスコートや広いゴルフ打球場、ボーリング場もあった町で、酒蔵もあり、市の中心機能や学校も駅周辺に集中している便利の良い町です。会社もダイハツ工業の池田工場やリコーがあり、ラーメン博物館は現在も人気です。もっと栄えても良いと思うのですが・・・。前の池田市市長が市役所内に自前のサウナを作ったりしたから、寂れたのだとは思いたくありません。