青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

まだ営業しています!~大阪駅前第二ビル

2021-12-31 | ぶらり散歩
大阪・梅田の駅前第1~第4ビルって、いろんなお店が消えては生まれ、今日に至っているのですが、今尚営業中で、「ええっ!」って思うのがこのお店。第2ビルの地下1階の中古CD店です。
駅前ビルや丸ビルの辺りは、闇市が並んでいました。大阪駅前再開発の際に残っていた店舗が、この駅前ビルの中に立退きで移って来たため、「このお店の利益で、家賃を払えるの?」と思うようなお店が、今でも残っていると思われます。ここはそんなお店の中の1軒。

売れ残ったCDや書籍が数点並ぶだけのお店なのですが、潰れない不思議なお店です。正面に飾られたジョン・ウェインのポスターが僕の目を引いたのですが、高くて買う気にもならない!因みにその前の映画「トラック野郎」のポスターは、額にも入っていないのに3万円です 😱😱😱 失礼ながら、お店なのか物置なのか・・という店構え。でも、古書店もそうですが、個人売りではなく業者間の取引で利益を上げている所も多いので、懐具合は見た目だけでは分かりません。

第4ビルの地下1階には、昔々ソウル五輪の頃には、ニノミヤムセンがあり、僕はそこでビデオテープ、カセットテープのコーナーでアルバイトをしていた時期があります。第3ビルと第4ビルを結ぶ東側(御堂筋側)通路の地下2階には、「銭湯」もありました

大阪で最初にワーナーブラザースの正規レンタルビデオを扱ったレンタルビデオ店も、第3ビルの地下1階にオープン。僕はすぐにそこに行ってレンタルし、ジョン・ウェインの字幕スーパー入りの映画をダビングしました。僕が英語でアメリカWBに手紙を送り、為替を送り、個人で西部劇を輸入に成功した時、その値段が1本12,000円ほどでした。(勿論字幕無し)その作品は「リオ・ブラボー」と「11人のカウボーイ」。その4年後に日本語字幕入りが出たのが1,6000円くらいだったと思います。だから、梅田まで電車賃を使ってレンタルに行き、ダビングしてテープ代も込みで2,000円ほどなら本当に安かった。今ではDVDの新品が1,000円もしないのに。

時代の流れと円高ドル安は、世の中の商品価格を大きく変えました。ニノミヤムセンも銭湯も今は影も形も残っていません。

そして現在ではコロナ禍が、全ての人の仕事に大きく影響しています。でも僕は、COVIDよりそれで動く人々の方が怖い。政治家、メディア、大衆。COVIDそのものは罹患しなければ僕の生活には全く影響はありませんが、それを使って政治やビジネス、その他の活動をする人たちの行動は避けることが出来ず、日々の生活が結構影響を受けるからです。コロナ禍の影響をどれだけ避けることが出来るか・・・来年の僕のテーマです。
 
みなさん、1年間当ブログをご訪問頂きまして、本当にありがとうございました。良いお年をお迎え下さい。😄

高齢化社会でも、これは嫌だ!

2021-12-30 | ぶらり散歩

大阪府・豊中市。国道176号線・桜塚の交差点より北(豊中消防署・郵便局の方角)を、1976年(昭和51年)撮影。左は大門公園の入り口。昔はここが「豊中祭」の会場でした。この公園も更に昔は北大門池という灌漑用のため池だったそうです。

ここからやや南に下り、桜塚交差点を超えた場所から、豊中駅方面(北)を「現在」臨んだ光景が下の写真です。

道路の右には「豊泉家」・・これはお年寄りの施設です。左向いにあるのは「加納会館」・・これは葬祭場。道路を挟んでこの組み合わせって・・しかも、この撮影位置より数10メートル南は豊中市役所なので、死亡届もスムース。😩😩

僕ならこんな場所の施設「豊泉家」は利用しません‼️ 気分が悪い!😡😡😡


大阪・江坂 ~激変した街!

2021-12-29 | 昭和・懐かしい北摂の風景
12月25日・・・高校時代からの友人が突然亡くなりました。「赤いちゃんちゃんこ」を目の前にした仕事中、背中の激しい痛みで救急搬送されるも心不全でした。定年を迎え、すぐにリタイヤ生活を送ることが出来る人も少ないでしょうが、少なくとも第一線は外れます。そして、その後の時間を「老後」ではなく「第二の青春」にするには、健康が何よりも大切です。
 
人生100年と言われても、寝たきりで生きていても周囲に迷惑を掛けるだけです。健康寿命こそが大切です。そのためには身体は少しでも早くから鍛えておくべきですし、趣味も少しでも早くからスタートしておくべきです。定年退職してから、例えばゴルフを初めても上手くはなりません。テニスを始めようにも走れない。人生は課題を先送りせず、今すべきことをきちんとやることが大切です。
 
その亡くなった友人が懐かしむハズだった「江坂」の写真です。僕は物心ついた時から、家に軽ながらも自動車があり、大阪府下、特に北摂のいろいろな所に家族で行きましたので、昭和40年代からの街の景色は、今も思い出せます。今では地価が高騰している江坂。その理由は宅地としても商業地としても、両方に利用できるから人気が高まっているから。
 
僕が都会になった江坂を初めて訪ねたのは、昭和55年、亡くなった友人の住むマンションでした。あの「田んぼ」しか無かった江坂が、こんな都会に!と思ったものです。
 
 
ここは江坂駅南の広芝町交差点です。この歩道橋は、これを撮影した昭和62年(1987年)に出来ました。江坂駅前は昭和50年代になってからビル街になりましたが、それまでは田んぼばかりでした。先日買収された東急ハンズ、大同門という大きなチェーン店の看板が並んでいます。大同門は、日本で最初の焼肉チェーンだと件の友人が教えてくれました。
 
江坂は田んぼばかりの場所だった・・と、先ほどから書いていますが(笑)、こちらがその証拠です。
 
 
これは昭和48年(1973年)の江坂です。奥に見える大同生命ビルは昭和47年の竣工。その右側にあるのは、ダイエー本社ビル(ビーロット江坂ビル)の骨組みが立ち上がっている所です。こっちは昭和50年に竣工となりました。どうです?ついこの前まで、江坂ってこんなに田舎というか、開けていなかったのです。
 
江坂~吹田の懐かしい光景、友人に見せることが出来なかったのが残念です。60を過ぎると、いつ何が起こるか分かりません。だから・・ゴルゴ13は作者のさいとう氏もお亡くなりになったことですから、金儲けの為に連載を続けず、さいとう氏の頭にあった「最終話」をまず作品化してほしいし、ディズニープラスでしか観れない、ザ・ビートルズの「ゲットバック」も「マーヴェリック・トップガン2」もDVD化して欲しいものです。 

「土管」で遊んだ子供時代!

2021-12-28 | 昭和・懐かしい北摂の風景
子供たちが土管で遊ぶ風景。たいていの若い人は「ドラえもん」でしか見たことが無いと言いますが、僕はドラえもん自体をほとんど見たことが無い。(笑)何をやっても駄目で、ドラえもんに助けてもらっても怠け者が主人公のマンガ。僕は子供の頃初めて見た時から大嫌いで、自分の子供にも見せませんでした。
 
僕は子供の頃、本物の空き地に置かれていた「土管」で遊んだことが何度もあります。遊んでいる途中で雨が降って来ても、みんなで土管の中で話をしたりして、時間を過ごしていました。さながら秘密基地!さすがにその写真はありませんが、それに近い写真を発見しました。
 
 
写真は昭和43年(1968年)吹田市・千里山虹が丘の公園です。ここでは土管が、公園の遊び道具になっていました。
 
高度経済成長中の真っ只中、街のインフラを整備するために多くの土管が必要とされ、その工事の最中、当時どこにでもあった空き地に土管が沢山置かれました。土管-実際はコンクリートのヒューム管。昭和30年代の子供の遊び場と言えば、これと有刺鉄線でしょう。
 
遊び盛りの子供たちが、こんな面白いものに興味を持たないハズがありません。秘密基地となったり、土管の上を次々に飛んだり、今なら「危険」「禁止」と言われるような遊びを、昔はみ~んな楽しんでいました。運動神経が今の子と違い、格段に良かったと思います。だから組体操も盛んで、それに対して誰も文句を言っていませんでした。組体操での怪我も、走って転ぶのと同じようなものでした。
 
そう言えば、この土管で生活している人もいましたね。今で言うホームレス。僕は見たことがあります。
 
 
1966年放送の「ウルトラQ」では、土管と子供たちがしっかり写っていますので、当時は全国的にこういう場所があったのでしょう。僕の身の回りには沢山ありました。テレビゲームなんか比較にならないほど、こういう場所で友達と遊ぶのが楽しかった。今の子供たちは本当に不幸せだと思います。人と繋がる機会も、身体を動かす機会も全くありません。

街の光景 ~光陰矢の如し!

2021-12-27 | 昭和・懐かしい北摂の風景

街の光景はすぐに変わります。自分はかつてその光景の中を歩いていた。そういう人にとっては、懐かしい景色であり、ついこの前の出来事のように思い出すことさえ出来ます。

でも、わずか10歳ほど年齢の違う人にとって、その光景は大昔の光景になってしまう。その写真を見せると、「大正時代の写真を見てる見たい😲 電柱と車がなかったら、時代劇にでてきそうな景色ですね」と言われてしまう。(笑)

次の2枚の写真は、同じ場所です。上は昭和40年(1965年)、下は平成20年(2002年)で、37年しか違いがありません。

現在は高速道路が頭の上を通り、瓦屋根の家が全てビルになりました。

ここ「呉服橋」は、江戸時代に西国33か所札所巡りの巡礼道にあり、池田市と川西市を結ぶ猪名川に架けられた橋で、元は「巡礼橋」と呼ばれていたのですが、明治10年に呉服橋と改称されました。
 
商店街右側には映画館「川西座」があったそうです。また、明治26年に摂津鉄道が開業した池田駅(現川西池田駅)も、この付近にあったそうですが、4年で現在の場所に移転しました。現在の橋は平成に架け替えられた橋です。
 
ついこの間までは当たり前だと思っていた光景が、久しぶりに通ると全く変わっている。そんなことはいくらでもありますが、80年代のバブル時に土地を地上げしてビルを建てたり、阪神淡路大震災以降、相次ぐ大災害で耐震基準が何度も見直され、建物の建て替えが進んだこと。そういうことが景色を大きく変えた原因ように思います。また、社会の高齢化によって、家の形も今後更に変わって行くでしょう。
 
郷土史は面白い。大きく変わった景色について調べていると、昔のことをいろいろ知ることも出来るし、なにより近所なので確認に行くことも簡単に出来ます。散歩にもなるし、お金が掛かりません。(笑)