青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

日本を消さないために!今の試験制度は不要!

2023-06-18 | 昭和・思い出は色褪せない

人生を振り返った時、もし人生を変えることが出来るなら高校・大学入試をもう1度受けてみたい。あの入試に賭ける1年間の緊張感には、何とも言えない充実の思い出があります。

もう1度勉強をして、京大・阪大・神戸大の3つの大学に挑戦してみたい。そもそも僕はこの3つの大学に本気で挑んだことがありません。初めから私立の大学に自分でお金を払い、4年間を楽しみたいと考えていました。なぜ私立なのかという理由は、受験科目が少ないから。

僕は英語をペラペラになって社会人になりたかった。しかし、授業料の安い国公立大学に入るには、5科目も勉強をしなくてはならなかった。英語を学ぶために、なぜ数学や生物などの理系受験科目の勉強をしないといけないのか分からない。更に言えば文系私学の受験科目でも世界史や日本史、古文・漢文が受験科目にあるのかが今でも謎です。

ハッキリ言えば、古文などは趣味で楽しめばいいもので、学校の教育科目である必要がもはや無い。漢文?中国文化を学ぶ必要など全くない。こういう科目を受験科目にいつまでも置いているのは、こういう科目の中学・高校の先生の仕事を守るためとしか思えないのです。

英語を学ぶ学部なら、受験科目は「英語」と「現代国語」だけでいい。国語を学ぶのに賛成なのは、語学を学ぶためには、日本語は必要だからです。経済学部なら「経済」という試験科目を作るというように、専門知識を学ぶために必要な基礎知識を持っているかどうかだけを問えばよいと考えます。そこで「やっぱり、日本史や世界史、多少は数学などの理系の常識も知っておかないと」と言うなら、「一般教養」という科目にしてしまえば良い。つまり就職試験のような大学入試にすれば良いのです。

僕は受験勉強で学んだ「世界史」や「日本史」「古文」「漢文」の知識を大学時代に使ったことなど全くありません。大学に入ってから不必要なものが、なぜ入試で問われなければならないのか?そんな無駄な時間を過ごすなら、入学前から英語の勉強だけに集中して、入ってからすぐに本格的な学びをスタートしたかったと思います。

日本はいつまで経っても、本当に改革が出来ない国です。「古文」「漢文」などを教える時間があるなら「お金の使い方~投資や金融システム」について教える方が絶対に良い。誰もが医者や研究員にならないのですから、「地学」や「生物」「化学」から選択させるよりも「コンピュータの使い方」「プログラミング」などを選択科目に入れる方が役に立ちます。

時代と言うより、社会システムや構造が変わっているのですから、生きていくのに必要なものが様変わりしています。なのに学校で学ぶことが昔のままというのが間違っています。昭和の時代から高度成長の時代には労働力が必要でしたから、「平等」だの「団結」だのという意識を人に植え付け、大勢が労働力になるようにした方が社会には都合が良かったのでしょう。

でも、これだけ「格差」が広がってくれば、誰しも頑張って良い暮らしをしたいと思う。考える力のある人ならば。そのためには専門分野に強いことの方が絶対に有利です。

なのに、小学校などから社会を知るためと言って、町のいろいろなお店に数日間「職場体験」のようなものをさせて、儲からない仕事を教えても意味が無い。させるなら大企業での体験をさせてあげるべきです。大企業ではなくても、世の中には「それまで知らなかった働き方がある」という事を学ばせるべきです。YouTubeがいつまであるか分かりませんが、ユーチューバー体験でもいいのです。働くことや、お金を稼ぐことに夢を持てればいいのです。

これは昭和54年1月、大阪大学・豊中校舎における共通1次試験の時の朝の様子です。この年から国公立大学共通第一次学力試験が実施されました。そして、平成2年からは「大学入試センター試験」となり、それが今では「大学入学共通テスト」になりました。

ああだこうだと言っても、所詮は似たようなもので、根本的に何を問われるかは大差がありません。もっと抜本的に、日本と日本人が世界の中で生きていくために必要な若者を育てるために、彼らに何が必要かを徹底的に精査し、そのために必要な専門学部を大学に置き、その基礎となる学力を問うものを大学入試試験科目に据えるべきです。

いつまでも「その他大勢」の若者、死んだ魚のような目をした人間、夢を持たない人間を創り出すのは止めて欲しい。人は馬鹿である方が支配しやすいので、支配する側に都合の良い社会がずっと続いて来ましたが、支配する社会の存続が危ぶまれて行く中、そろそろ国を守る方向に舵を切らないと、日本がなくなることになります。


定期券売り場の行列~変化を受け入れる瞬間!

2023-06-16 | 昭和・思い出は色褪せない

学生時代、通学定期券を買うのに駅で並びました。3ヶ月定期とか1ヶ月定期を、夏休み等の学校の休みと照らし合わせてロスのないように工夫して購入しました。

社会人になってからは、電車通勤をしたことがありません。自動車で通勤したり、会社の近くのホテルを年間契約したり。電車を使うことはあっても、定期券を買うことはありませんでした。

昭和59年1月の阪急梅田駅の定期券売り場の様子です。普段にも増して、長い行列が出来ています。これはこの年の1月25日に私鉄運賃値上げがあったので、値上げ前の定期券を求める人で長い行列が出来たのです。

今は駅の券売機で定期券も発行するようになり、こういう光景を見ることも無くなりました。

本当に便利だと利用する人が思えば、人は変化を受け入れます。しかし、そこに不安を感じれば、人が変化を受け入れないのは当たり前です。なのに強制的に社会システムを変えようとするのはなぜなのでしょうか?しかも、変化の最中に次々と欠陥が出ているのに立ち止まりもしない。マイナンバーカードも、LGBT法案も、入管法改正もそうです。

人と話をする時、自信のない人ほど早口でよく喋ります。質問されるのが怖いからです。自信のある人は、どこからでも質問して下さいと、ゆっくり話します。国会議員、誰のために動いているのでしょう?僕にはとても日本人のためだと思えないことが、国会で決められまかり通っているのが不思議で仕方がありません。僕は「消えた年金」の被害者です。慌ててシステムを変えると良いことは1つもありません!


“駅弁” 旅の風情は今やどこに・・・

2023-05-26 | 昭和・思い出は色褪せない

昭和に比べて、旅行の楽しみが僕にとっては「減った」と感じることがあります。それは「お弁当」です。飛行機嫌いの僕は、海外にはさすがに飛行機で行きますが、国内旅行や会社員時代の出張では、必ず列車を使っていました。

駅弁にビニール容器に入って吊るせるお茶。これからの季節なら網に入った冷凍ミカン。こういうのを食べるのが楽しみでした。ビュッフェが消えて久しい新幹線でも、ワゴンが回ってくるとアイスクリームを食べるのが今でも楽しい。

でも今では、駅構内の販売店やコンビニが充実してしまった為、こんな所で買おうものなら、平日にサラリーマンがオフィスでコンビニ弁当を食べるのと何も変わりません。挙句は列車の中に、551の豚まんやマクドナルドの臭いを充満させるお客が本当に多い。列車の中は家の中とは違うし、昼休みのオフィスでもないのですが、列車内の時間を楽しむという風情が世の中からどんどん消えて行きます。

大阪駅のホームから列車内のお客さんに、駅弁を販売する光景。昭和46年(1971年)12月の光景です。ここまで趣が無くても、1980年代ならまだまだ旅の風情が感じられましたし、新幹線の旅であっても楽しかったものです。

食欲・性欲・睡眠欲は人間の3大欲求だと言われますが、その中の「食欲」。カロリーがどうの栄養がどうのと言う以前の問題として、せめて旅行先や旅の途中では、普段食べない、食べられないものを楽しむのはいかがでしょう?ファーストフーズの臭いは勘弁してほしい。

同時に通勤・通学の在来線における飲食も。おにぎりやコーヒー、アルコールまで電車内で食する人が多いのですが、臭いだけではなく、もし電車が揺れて他人の服を汚してしまったらどうするのでしょうか?電車内で安い品物を飲み食いしているような人に、クリーニング代を潔く払える人はなかなかいないと思います。もう少し、公共におけるエチケットをわきまえて欲しい人が多過ぎます。器用だとは思いますが、電車内でファンデから始まるフルメークを施す女性・・・親は何を教育したのでしょうね。

 


地獄の運転免許「卒検」コース!

2023-05-16 | 昭和・思い出は色褪せない

最近は自動車運転免許を持っていない若者男子も増えているそうです。僕が学生だった頃はアルバイト代を貯め、僕の周囲は全員が1日も早い免許取得を目指しました。家の車を借りたり、自分でローンを組んで中古車や新車を買い、彼女とのドライブを目指したのです。エアコンの無い車、カーステの無い車が多く、パワステではない重ステ、オートマではないミッション車が当たり前でした。

楽しいドライブの為には道に詳しく、運転技術が高く、楽しいドライブコースをプラン出来、車内で楽しいおしゃべりが出来る。そして何より安全運転でないと、1度のドライブで次は無かった!(笑)

運転免許取得には、合宿に行き短期間で取得する方法が人気でしたが、自宅近くの自動車教習所に通うのが最もポピュラーな方法。合宿が人気なのは田舎の教習所で行うので、路上教習中に信号のある交差点が1か所しかない・・なんていう夢のような「楽ちん落ちない検定」だったからです。

合宿に行く余裕が無く、自宅から近い教習所に通って早く免許を取るためには、教習を予約するだけではなく、空き待ちまでしていました。80年代の教習所はとにかくどこもかしこも満員で、教習所の黄金時代。その上に外車や高級車を教習車に採用し、集客を計ってお客の争奪戦を繰り広げていました。

今は厳しく指導すると生徒が減るので、教官が生徒の機嫌を損ねないようにしていますが、80年代は教官が生徒に好き放題していた時代。運転席のヘッドレストを外して、下手な生徒の後頭部をはたく。ちょっときついブレーキを踏むと「おたく、厳しいブレーキ踏みまんな~」と威嚇。口答えでもしようものなら「ハンコ要らないの?」と。こんなヤクザのような教官がゴロゴロいたのです。もうそんな教官もおそらくお亡くなりになっているでしょうし、時効ですから。豊中教習所の3番と6番の車に予約が当たったら、そんな教官なのでキャンセルした方が良いと、そこに通った友人たちは口を揃えて言っていました。実際、事実でした。

「兄ちゃん、下手やな~」と言われ、「上手かったら来ないでしょう?」と返し、「そんな物の言い方してハンコ要らんのかい?」と言われたら、「押さな、どうなっても知らんよ。」と返し、3番6番との対決を楽しんだ日々が懐かしい。

ところで、この教習所が最悪なのは、こんな教官のせいではありませんでした。最悪なのは仮免許を取ってからの路上教習のコースでした。(今はどうなっているのか知りません。)

ここは「ロマンチック街道」から中央環状線を南側に渡った豊中市上野東3丁目の市道曽根箕面線沿いにあった「中野センター」というショッピングセンターです。昭和60年代(1985~)まで地域住民で賑わい、店の中には中華料理店や玩具屋もあり、愛称「中セン」として、地域の子供を含め多くの住民から親しまれていました。写真は昭和57年(1982年)頃のもの。

つまり・・このセンターの前の道路には自動車の違法縦列駐車や、写真のように自転車の道路上の駐車が日常で、横断歩道も信号もない店の前の道路は、子供も大人も自転車族もが好き勝手に横断していたのです。こんな場所が運転免許の「卒検コース」の中にあるのです。運転技能を問われるだけではなく、運転初心者のレベルを超えた「危険予知」「先読み」能力まで問われるため、不運にも子供やオバさんの天下御免の道路横断により、検定中止に追い込まれた生徒は数え切れませんでした。

他にも豊中駅前の当時夕方は開かずの踏切を、多くの歩行者・自転車と共に渡らなければならないコースもありました。ベテランドライバー達でも、開いている間に数台しか渡れない踏切。検定中の車両と分かっていても、グズグズしていると後ろからクラクションを鳴らされる。だから、この教習所で免許を取得するには、他の教習所よりも多くのお金が必要でした。

現在は生徒はお客様。いい時代ですね・・と言いたいところですが、免許は取得した時がスタート、つまりドライバー人生で1番運転が下手な時です。そこでペーパードライバー化せずに、若い人にはドライブを楽しんで欲しいですね!

 


青春の “金沢・六角堂” ~海岸を走る爽快感!

2023-05-12 | 昭和・思い出は色褪せない

「美味しいステーキでも食べて、珈琲を飲もうか」・・・この一言で、何度大阪から車で石川県まで走ったことか。そう、まるで近所の喫茶店にでも出かける感覚で。それだけ若かったこともありました。

行先は石川県金沢市にあるステーキのお店「金沢・六角堂」です。このブログで紹介するお店は、過去にあったお店がほとんどですが、この六角堂は現在もあります。先日の大きな地震の影響が無ければ良いのですが・・。

そもそも僕がこのお店を知ったのは、友人の一人が金沢大学に行き、その下宿を僕が訪ねたことに始まります。金沢大学を「きんだい」と、地元の人は呼ぶそうなのですが、僕ら大阪人にとっては「きんだい」と言えば「近畿大学」。近大マグロも何もなかった、吉村道明が相撲部の監督をやっていたことだけは知っていて、時々酒に酔った大学生が不幸にして亡くなる・・言いにくいのですが、あまりレベルの高くない大学が大阪の「きんだい」でした。だから、件の友人は金沢では「きんだい」と言いますが、大阪に帰省した時は「金沢大学」と呼び、還暦を過ぎた今も大阪に住んでいる彼は、卒業校を「金沢大学」と呼んでいます。

で、その友人が美味しいステーキのお店があるよと連れて行ってくれ、ご馳走してくれたのがここ「六角堂」だったのです。車で少し山を登った所にあるお店は、結構な高級感を漂わせており、初めてお店に入った時は、「せっかく金沢まで来てくれたんだから奢るよ」と言ってくれた友人の懐を心配しました。

ここには写っていませんが、確か外には「大砲」も展示していたと思います。

このスタイルのステーキ屋さんは、今ではあちらこちらで見られるので、もう珍しくはありませんが、当時は本当に驚くほどの高級感を感じました。目の前でお肉を焼いてくれ、肉の横ではニンニクを焼いたり。焼きあがると切れ味鋭い包丁でいくつかにスッと切り分けて、「どうぞ」と勧めてくれる。本当に美味しいステーキでした。

ちょっと仲良くなった友人が出来ると、「美味しいステーキを食べに行かない?」という一言で車に乗せ、まさかと言う距離を走ってこのお店に・・・というのを何回繰り返したでしょう(笑)

その後時間があれば、少し足を延ばしてここに行ったものです。

ここは能登半島の千里浜(ちりはま)なぎさドライブウェイ。全長約8キロメートルの砂浜ドライブウェイで、自動車はもちろん、バスやバイク、自転車でも、砂浜を走行できます。勿論ノーマルタイヤでOK。波打ち際のドライブの爽快感は忘れがたい思い出になり、一緒に行った誰もが満喫しました。何度か目に行った時には、普通に走っても面白くないということで、2トンのトラックをレンタカーで借りてきて、高い運転席から周囲の車を見下ろしながらこの海岸を走りました。いや~本当に爽快で愉快でした。