青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

“泳げる川” は “泳げない川” に ~池田市・呉服橋

2025-02-23 | 昭和・懐かしい北摂の風景

街を歩いていて、1番大きな変化は何かと考えれば、それは「川」と「池」ではないでしょうか?僕が子供だった昭和の時代、あちこちに「溜池」があり、田んぼの用水路や「川」が流れていました。農業の為の「池」や「川」が、人が増えて都会化して行く中で、どんどん壊されて行きました。

溜池は水の事故や宅地不足の為に埋め立てられ、マンションや学校等の公共施設に。田んぼも宅地化され、上下水道が整備されると共に、用水路や川も消えて行きました。そして、そういう大きな変化によって、「昆虫」が消え去ってしまいました。大阪は北摂、豊中~池田間では、かつては雨が降れば「アメンボ」、田んぼに行けば「オケラ」、池には「ゲンゴロウ、タガメ」、雑木林では「タマムシ、クワガタ、カブト虫」を捕まえることが出来たのに、今は日本中どこを探せば良いのだろう?という有様に。

子供も同じです。昔は男の子はみんな泳げたし、走れたし、相撲を取れました。今は泳げない、走れない、ちょっと運動すれば骨折。体育の授業や運動会の種目まで、あれもこれも禁止。環境の変化は人間を変えてしまいました。

ここは阪急・宝塚線、池田駅から川西能勢口の間にある、大阪府と兵庫県の県境を流れる猪名川に掛かる国道176号線の「呉服橋」を、池田市から川西市に向かって撮影した昭和30年代の写真です。

大雨で川が氾濫することは勿論ありましたが、普段は水泳をする子供たちが多く、魚釣りをする人々の姿は珍しくもありませんでした。写真の子供たちは附属池田中学校の生徒たちです。先生も生徒の安全を守るのが大変だったでしょうが、何と大らかな時代でしょう。

こちらが現在の同じ場所。全く違う光景になりました。良い悪いではなく、単純に景色がこんなに変わるとは、昔は誰も想像出来なかった。

子供の水の事故が増え、人口が増えるに従って、世の中がいろんな意味で変わり続け、昭和35年には上の写真のように、この場所では水泳どころか水遊びが禁止になりました。写真は池田警察署と防犯協議会が水に入らないようにとの看板を設置している様子です。ここは上の写真の撮影場所より、橋を挟んで北側です。

 


子供の時、まだ騎馬警官が活躍していた!

2025-02-20 | 昭和・懐かしい北摂の風景

今年の「春の全国交通安全運動 2025」は、4/6(日)~15日(火) でまだ少し先ですが、最近僕が心から思うのは、今よりも更に歳を取った時、自分の最期は交通事故じゃないかな?という不安です。

商店街や駅前、車が走れないショッピングエリア・・後ろから凄いスピードの自転車が、真横をかすめて行くことは日常の光景。子育てが大変・・と子育て世代の大変さばかりが取り沙汰されていますが、自転車の前後に子供を乗せて、悠々とそこのけそこのけと我が道を行く。雨が降れば傘をさしながら自転車を運転。自転車も自動車もスマホを見ながらの運転。キックボード等と言うこれまでに無かったものまで出現。安心して歩行者が歩くことが出来ない。人間だって歩きスマホ。

人にぶつかっても、転倒した老人は大きな怪我に繋がります。自転車は電動アシストもあるので車両重量が重く、ぶつかれば大怪我、時には死亡事故に繋がります。高齢者は骨折~入院~痴呆症~人生の終幕というベルトコンベアに乗らざるを得ない!本当に、もっと車両を運転するということについて、高い意識を持ってもらいたい。自転車だって凶器になるのです。

自動車免許を取得していても、運転マナーではなく交通ルールを理解していない、忘れている、守らない人もいますが、免許の要らない自転車運転者は、交通ルールどころかマナーも、人に当たったらどの程度のダメージを与えるのかすら分かっていない。今後は主婦や子供層に、もっと交通安全マナーを国は啓蒙してもらいたいものです。

この写真は阪急電車・宝塚線・池田駅前の国道176号線、昭和40年(1965年)の全国交通安全週間のパレードです。写真真ん中に写っているビルは、今は無き三和銀行です。

全国交通安全運動は、昭和23年からスタートし、昭和37年(1962年)から政府の肝いりになりました。交通量の増加と共に歩んできた運動で、もうかなりの歴史がありますね。

こちらは上の写真よりも更に最近の、昭和43年(1968年)のもので、池田市の騎馬警官による交通安全・啓発パレードです。昭和40年代に身近なところに、まだ騎馬警官がいた!ということを、写真を見て思い出し、驚いています。時間の経過はあっと言う間ですね。

 


確定申告開始~この時期の出費は最悪!

2025-02-17 | 日記
今日から確定申告の受付開始。
 
減税とか言われても、全く実感がありません。僕は毎年確定申告が必要なのですが、本当邪魔くさい。最近は毎年やり方が多少変わりますし。源泉徴収票も医療費の領収書も添付不要なのに、生命保険の控除証明は添付しないといけない。今年からは当方の控えに税務署印もくれません。
 
国が勧めるのは、減税ではなく、マイナンバーカード取得からの申告と、スマホからの申告。こんな大切な申告をいい加減なセキュリティのネットでやる気にもなりません。
 
僕は法人税も納めるし、自動車税とか・・も。この時期はマンションの契約更改手数料とか(保証人取ってるくせに)保証代とか訳の分からないハイエナが多くって💦 何も手元に残らないものに対する出費が多過ぎて、嫌になります。
 
国は滞在外国人からこそ、健康保険代とか必要なものを取らないと!アメリカファーストのトランプ大統領を持つアメリカが、僕のような層の人たちは羨ましいと感じていると思います。
 
 
僕が税務署に足を運ぶのは提出する為にだけだけど、無料で税務相談を受けたい人たちは、朝からず~っと長蛇の列。お金出して税理士さんに聞いた方が早いし、寒空に並ばないで良いので、健康にもその方が良いのに。そもそも、確定申告って、自分で出来ないと思い込んでいる人が多過ぎます。
 
時間こそが1番大切で高価だと思わない人が、世の中には多い。僕は時間の無駄使いだけはしたくない。時間だけが、万人に平等に1日24時間しか与えられないもの。大切にしたいです。

 


関西大学・天六学舎 ~大学のレベルが高かった時代!

2025-02-16 | 昭和・懐かしい大阪の風景

今や大学が全入の時代になろうとしています。しかし、反面「Fラン」という名前が一般化するほど、大学のレベルが低くなって来ています。東大や慶応等のように、昔も今も入学するのが難しい大学もありますが、多くの大学が昔に比べて合格するのが簡単になっている・・と言うと語弊がありかも知れません。

大学が増え、子供は減っているのに、大学は学生を募集するために学部を増設したり・・。大学に行こうと思えば、今や誰でも入学して卒業可能になりました。完全に最高学府が商売になっています。

ここは関西大学。と言っても、長い関大の歴史の中に消えた「天六学舎」です。

天神橋筋6丁目下車、徒歩5分。大阪市内のど真ん中という立地にあった、関西大学の夜学部です。学生数は少なく、通っているのは昼間は公務員として働いている人たちがほとんど。もしくは弁護士事務所や司法書士事務所で働いていて、弁護士試験を目指している人や、教員免許取得の為に大学に戻って来る人たちの受け皿になっていました。

そのため、千里山学舎よりも入学難易度は低いものの、平均的な大学よりは遥かに偏差値も高い。おまけに授業は夕方5時半頃から夜の9時半頃までの、毎日3時間。それで千里山の全日制と同じ教授陣が教え、全日制と同じ単位取得の厳しさがあったので、入学しても卒業出来る人が本当に少なかったのです。昼間は仕事を持ちながら、夜間こんな厳しい環境で勉強した上に、部活もここでは可能でしたので、そちらに席を置いている人たちの「やる気」「本気度」は凄いものがありました。

道路に面した校門の左手にあった体育館には、夜遅くまで灯りがついていました。

1970~80年当時、関西大学の司法試験合格率は、全国の大学の中で1~2を争っていましたが、この夜間の法学部の司法試験合格率は、昼間の全日制法学部を上回るほどでした。

社会人になって知り合った、ここを卒業した友人と共に、1988年に関大天六学舎を訪れた時に撮影した写真が、上記カラー写真。伝統を感じる、まさに大学といった感じの校舎でした。

天六学舎の歴史を見ると、1935年から1965年までは大学本部と第2部(夜間)がここにありました。昭和28年(1953年)、第2部(夜間)を千里山から天六へ全面移転することになり、この写真の学舎が増設されました。しかし、全国的な夜間学部の人気低迷と共に、平成6年(1994年)に第2部が、再び千里山へ移転するまで長く利用され、法学部をはじめとする学部の2部が置かれ、都心のキャンパスとして苦学生らが学び、関西の政官財界、法曹界などに多数の人材を輩出しました。その後もここ天六キャンパスでは、公開講座などを実施していましたが、2003年に廃止され解体されました。

現在ここは、ジオ天六ツインタワーズとなっていますが、「関西大学・天六キャンパス跡地記念碑」が置かれています。

 


駄菓子屋で売っていた「謎の」紙テープ!

2025-02-14 | こんな「モノ」ありました!

今では街の商店街は廃れ、繁華街のデパートなども生き残りに必死。モノを買うならネット通販が安くて便利、品数も揃っている・・という時代になりましたが、僕が子供の頃に無くてはならなかったお店は、「駄菓子屋」でした。すなわち子供にとっての萬屋。僕が未就学児だった頃は、駄菓子屋と同じものを販売しているお店は、プラモデルを主力商品としていたので、僕や近所の子供たちは「プラモデル屋」と呼んでいました。

ゴジラのプラモデルから戦艦大和や戦車のプラモデル。それらを動かすモーター、ゴム動力で飛ぶ飛行機。チクロ入り(笑)のお菓子、くじ、ブロマイド、コマ、スーパーボール、ワンバンボール、昆虫採集セット、がちゃがちゃ・・・いろんなものが売っていて、扱い商品も季節ごとに替わるので、子供はいくら出入りしても飽きないし、お金はいくらあっても足りませんでした。当時「鍵っ子」と呼ばれた、親が共働きの家の子供たちは留守番のお小遣いというか、おやつ代と称して、普通の母親がいる家よりも高額のお小遣いをもらっており、駄菓子屋でいろんな新しい物を買うことが出来たので、放課後の遊びの場では中心的な存在になっていました。

さて、今日ご紹介するのは、そんな駄菓子屋で売っていた謎の紙テープです。

テープの幅などは、普通の紙テープと変わらないのですが、紙テープのように何かを書き込んだりは出来ません。写真のように穴が開いているからです。それも不規則な穴が初めから終わりまで入っています。子供たちは何に使うのかは分からないのですが、TVや漫画に出て来るコンピュータの記録媒体のように見えたので、面白がって買ったものです。

昭和30年代(1955年~1964年)の子供の頃は、これが一体何であるか分からなかったし、親に訊いても学校の先生に訊いても、その答えは得られませんでした。でも、確かに僕が子供の頃は駄菓子屋で売っていました。

これ、実は子供たちが思った通りのもので、「鑽孔テープ」(さんこうテープ)や「穿孔テープ」(せんこうテープ)とも呼ばれるコンピュータの情報を記録するために使われた紙媒体。そのものズバリだったのです。パンチカード(統計機カード)などと共に、初期の情報用紙の一種とされるものです。若い人は見たことも聞いた事もないかも知れませんね。パチンコ屋で球数の計数機の出力としても使われていました。

こういった使用済みの鑽孔テープが駄菓子屋で商品として売られており、「スパイごっこ」などで活用されていたのですが、どういう流通経路・販売経路で子供たちに販売されるに至ったのかは、僕にとっては今も謎のままです。

因みにこちらは「火薬鉄砲」で使う、紙巻の火薬です。撃鉄がこれを叩き、「パン!」と大きな音が出ました。しかし、音がするだけなので、撃ち合いの出来る「銀玉鉄砲」ほどの長期政権を敷くことは出来ませんでした。

この火薬をそのまま使って遊んだのがこちら。

頭の部分に火薬を挟み、これを頭上に向かって思い切り投げます。落ちて来て先端が地面に当たれば「パン!」と大きな音が。ただし、舗装されていない道路では上手く鳴らないこともあり、学校や公園のコンクリートの上や舗装道路で遊んだものです。しかし、そういう場所は人通りの多い場所だということもあり、この手の玩具はすぐに学校から「禁止」となりました。