青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

日本初の分譲住宅地と、呉服神社「鳥居」!

2024-01-04 | 昭和・懐かしい北摂の風景

僕の今年の仕事始めは、昨日3日でした。その出社前に初詣に参りましたのが、阪急宝塚線・池田駅の駅前に昔からある「呉服神社」です。初詣は「三が日」に行くものと決まっている訳ではなく、新年なるべく早くに行くものですので、皆さんも行かれてはいかがですか?

これは阪急電鉄の古写真に見る、大正時代の呉服神社の鳥居です。神社は写真中央の道ではなく、その右側を斜めに(壁に沿って)入って行った場所にあります。

鳥居の右手には「室町」の家並みが広がり、大きな住宅が多いのですが、この住宅地は箕面有馬電機軌道(現在の阪急電鉄)の宝塚線開通に併せて開発された、日本初の分譲住宅です。

この鳥居は昔は写真のように神社の近くにあったのですが、駅前再開発で現在はもっと池田駅の近くに移動されています。

僕が学生の頃には、この鳥居には「交通安全祈願神社」と入った「貫」がありました。上の写真は昭和54年(1979年)のものです。写真下ギリギリには、当時はまだ阪急電車も地面を走っていたので、その電車の上部がギリギリ写っているのが見えます。

この鳥居が昭和54年に駅前再開発で現在の位置に移された時、「交通安全祈願神社」の「貫」は外されました。

更に昭和60年には鳥居全体が改めて新調され、それが現在も立っています。

これは平成16年(2004年)の写真で、前方に現在の鳥居が見えますが、最初に鳥居のあった場所は、自動車の手前左のミラーのあった辺りで、その右の自動販売機の手前を右に入ると呉服神社があります。現在はこの自動販売機を設置しているビルもありません。

これが昨日撮影した同じ場所で、成長した庭の木が目印になりますが、ここを右に入った所に神社があります。初詣の雰囲気が薄れたと思うやいなや、ここ呉服神社は「十日戎」つまり「えべっさん」で賑わいます。室町住宅周辺の風景は昭和から大きく変わりましたが、まだ所々に昔の住宅も残っています。


どうなる日本!2日連続の悲劇!

2024-01-02 | 今を考える
一体今、日本で何か起こっているのか?昨日から震度5クラスの地震が続き、被害が徐々に明らかになっている能登地震。
 
その能登に救援物資を運ぶ海保の航空機とJAL機が衝突炎上。着陸するかしないかの状態で炎上したJAL機から、379人の乗客乗員全員が脱出できたのは奇蹟としか思えない。海保の乗員の安否は確認が取れていないのですが・・。
 
昨日、今日と、TVをつけるたびに、ネットを見るたびに驚く人がどれほど多いでしょう。
 
 
TVやネットでは新年は悲劇ばかり。メンタルをやられる人が多くいるであろうから、こういう映像ばかりTVで流して欲しくないと思うのですが、「こんな時期になぜ箱根駅伝を放送するのか!」という声が逆にあるらしい。
 
呆れてモノが言えない。こういう人に限って仕事始めから普通に生活を送るのだろう。箱根駅伝の関係者だって、地震が起きようが開催されるのだから、そこを目標に努力をして来て参加するのは当たり前。日本のどこかで何かが起きてるからと言って、自分の人生はノンストップです。
 
僕だって知人が震災被害に遭っているので義援金を送りますが、僕は昨日も今日も明日も、自分の生活を送っています。自分の事はさておき、人の事をどうこう言うネットの書き込みは、もういい加減にしてもらいたい。日本人の民度、どこまで下がるのだろう。多様性だとか綺麗ごとで、余りにも少数派であろうが何でもかんでも認めるからこういうことになる。
 
常識とかマナーを今一度、日本人は見直すべきだと考えます。
 

昭和~令和の “興亡史” ~大阪池田線

2024-01-01 | 昭和・懐かしい北摂の風景

新年明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願い申し上げます。

              2024年 元旦

 

1年で1番道路が空いていて走りやすい、それが元旦!18歳で自動車免許を取得して以来、必ず元旦は車かバイクで走っていますが、本当にいつでも道路がこうならいいのに。目的地まで、下手したら普段の半分の時間で行くことが出来ますから。

でも、今日思ったのは昭和から令和へと移り変わって、世の中は右肩下がりなのでは?ということ。

ここは大阪池田線と阪神高速11号池田線。「餃子の王将」の中で、来店客数と売上が日本一の空港線豊中店を少し南下した、現在のペットショップ「空港ドッグセンター」辺りから南を臨んだ、昭和49年(1974年)の写真です。まだまだ自動車も少なかった時代でした。そこから高度経済成長を経て常に渋滞する道路だったのですが・・。

今では普通に走れる道に。そうです、自動車の数が明らかに減少しました。僕が1番働いた昭和~平成時代は、本当に車の数が多く、常に渋滞していたのに・・・。

こちらは大阪中央環状線と中国道。左端、坂道の上に見えるのは大阪大学の理学棟と正門です。この中環は堺から八尾、東大阪、門真、万博公園を経て池田まで走る主要地方道で、内環、外環と共に大阪府の環状軸を成しています。これは昭和52年(1977年)撮影。ここでも当時は自動車が少ない。

平成9年(1997年)になると、ここに大阪モノレールが架設されました。この辺りが「待兼(まちかね)」と呼ばれる地域で、マチカネ・ワニの化石が出たのもここだし、JRAの馬主である細川益男氏が自らの所有馬にマチカネという冠を付けたのも、この地名にちなんだからです。(細川氏の卒業高校である旧制浪花高等学校が、ここ待兼にあったから。)

こちらも今は本当に空いています。車が増え、道路沿いにいろいろなお店が出来て町が栄えましたが、車が減った今、いろんな道路沿いのお店が消え去り、町から活気が失われて行きます。再び人口が増えて、車が増えて町が賑やかになって欲しいのですが、「結婚しないの?」「子供はまだ?」というような、僕が若い時には頻繁に聞いた単なる声掛けが問題になる社会では、もう望むことも無理なのだろうと感じてしまいます。

昔は当たり前だった言葉が、今では使わないように「指導」もしくは「強制」される。理由・理屈を付けられても、納得できないことです。そういう言葉で不快感を感じる人がいるのは分かります。しかし、常に「いろんな少数派に多様な価値観と言いながら配慮」することで、大切なものが崩壊している気がしませんか?日本という国の構造が、「何者かによって弱体化させられているのでは?」と感じるのです。

失われた時代の思い出を、本年も更新して参りますので、皆さま本年もよろしくお願い申し上げます。