なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪に行って来ようと思う。
かの内田百閒先生の「阿房列車」は、こんな件から始まる。
何かと云っては、休みになるとオートバイで出掛けていくボク(ボク等?)にどこか似ている。
しかも、百閒先生は、この無用の行程に自ら「阿房列車」と名付けたにもかかわらず
阿房と云うのは、人の思惑に調子を合わせてそう云うだけの話で、自分で勿論、阿房(な行為)だなどと考えていない。
と、云ってのける。
きのう書いたリンボウ先生もそうだけど、この百閒先生も、ボクの大好きな、生粋の天邪鬼。
暇さえあれば汽車に乗りに行ってしまうくせに、、所謂「観光」というものが大嫌いで、終点に着くや否や旅館にしけこんでお酒を飲み始める。
先生は相当の有名人だから、地元の方々が、いらしたならばアチコチ案内しようと手ぐすね引いて待っているのに、当の本人はあまり興味がない。宴会、面会、取材等いっさい拒否。あっさり断ってしまう。
じゃあ、そういう興味がまるっきり無いかというと、そんなことはまったくない。
「阿房列車」のシリーズ(第1から第3まで文庫で3巻も出てる)には、季節に移ろう車窓の風景が実に細かく描写されていて驚くほどだ。さらに先生の豊富な知識から語られる歴史や風土の件は、その景色に深みを与え、読むものに強い興味を抱かせる。
旅立つ目的は、ひとそれぞれだと思う。
何も食べなくても、なにも観光しなくても、その土地の風土や季節感を感じることは出来るし、心になにかを刻むことは出来る。逆もまた然り。
必ずしも旅行=観光ではないんですね。
うむ。