卯年祭りの思い出 1999年(平成11年)
個人的な卯年まつりの思い出も、もう前回まで来た。
この年から、五丁歩、大原、論丸の3集落が祭り屋台で参加、舞子大山組10ヶ村全てが揃った最大規模の卯年大祭になった。
とにかく絢爛豪華な祭り屋台が、次から次へと並んだ祭りであったと記憶している。
総勢約50名の稚児行列も見事であった。
個人的には、この年は年初に勤務していた工場が閉鎖になり失業していた頃で、あまり良い状態ではなかった。
しかし、その分時間があり、地区の大祭の会計や子ども神輿を役員の皆さんと共に仰せつかって、またそれまでと違った
立場で、祭りに参加させて頂いた。
前回まだ1歳に満たなかった長女は、11歳で子ども神輿に参加させて頂いて、頑張った。
長男は高校入学直後で、山岳部の合宿のため参加できなかった。
地区の屋台保存会で笛の練習をさせて頂いていたので、家族は祭り支度の長男を期待していたのだが、巻機山の雪の上を
走り回ることになった。
個人的な印象で恐縮なのだが、祭りは絢爛豪華で、最後に山に登るときも大いに盛り上がった。
しかし、前回のように朝から終わりまで祭りの輪の中にいなかったせいか、どうも消化不良という感があった。
そして、とても行儀の良い整然とした盛り上がりのようにも感じたのだ。
そして、99年大祭の時は区の祭りに神楽は出せなかった。
担当する中学生、高校生が少なく、祭り屋台や子ども神輿に回ってもらうことになり、神楽は取りやめになったからだが、
この頃から少子化の影響が出始めていたのは興味深い。
従来は地区の高校生以上の子どもたちは屋台保存会に入って笛や太鼓の練習ということになっていたのだが、この頃から中学生
以上に年齢を下げたことも改めて思い出す。
子ども神輿は、地区在住の子どもたちだけでなく、親戚や知人、友人の子どもたちの参加を募るようにもなった。
見物に来てくださった方々も祭りの輪の中に入って、一緒に楽しむ祭りにしよう、そんな思いが強く出てきたのもこの
1999年大祭だったように思う。
とても美しく盛大であった1999年大祭から12年、2011年大祭はどのような祭りの顔を見せてくれるのだろう。
楽しみである。
写真は、1999年大祭 徳田区の出発、そして実は先頭の旗の出発風景(撮影 星 俊夫氏)

個人的な卯年まつりの思い出も、もう前回まで来た。
この年から、五丁歩、大原、論丸の3集落が祭り屋台で参加、舞子大山組10ヶ村全てが揃った最大規模の卯年大祭になった。
とにかく絢爛豪華な祭り屋台が、次から次へと並んだ祭りであったと記憶している。
総勢約50名の稚児行列も見事であった。
個人的には、この年は年初に勤務していた工場が閉鎖になり失業していた頃で、あまり良い状態ではなかった。
しかし、その分時間があり、地区の大祭の会計や子ども神輿を役員の皆さんと共に仰せつかって、またそれまでと違った
立場で、祭りに参加させて頂いた。
前回まだ1歳に満たなかった長女は、11歳で子ども神輿に参加させて頂いて、頑張った。
長男は高校入学直後で、山岳部の合宿のため参加できなかった。
地区の屋台保存会で笛の練習をさせて頂いていたので、家族は祭り支度の長男を期待していたのだが、巻機山の雪の上を
走り回ることになった。
個人的な印象で恐縮なのだが、祭りは絢爛豪華で、最後に山に登るときも大いに盛り上がった。
しかし、前回のように朝から終わりまで祭りの輪の中にいなかったせいか、どうも消化不良という感があった。
そして、とても行儀の良い整然とした盛り上がりのようにも感じたのだ。
そして、99年大祭の時は区の祭りに神楽は出せなかった。
担当する中学生、高校生が少なく、祭り屋台や子ども神輿に回ってもらうことになり、神楽は取りやめになったからだが、
この頃から少子化の影響が出始めていたのは興味深い。
従来は地区の高校生以上の子どもたちは屋台保存会に入って笛や太鼓の練習ということになっていたのだが、この頃から中学生
以上に年齢を下げたことも改めて思い出す。
子ども神輿は、地区在住の子どもたちだけでなく、親戚や知人、友人の子どもたちの参加を募るようにもなった。
見物に来てくださった方々も祭りの輪の中に入って、一緒に楽しむ祭りにしよう、そんな思いが強く出てきたのもこの
1999年大祭だったように思う。
とても美しく盛大であった1999年大祭から12年、2011年大祭はどのような祭りの顔を見せてくれるのだろう。
楽しみである。
写真は、1999年大祭 徳田区の出発、そして実は先頭の旗の出発風景(撮影 星 俊夫氏)


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