浪漫飛行への誘(いざな)い

海外旅行は102か国、海外旅行、世界遺産、飛行機、卓球、音楽、歌謡曲、初物、語学、仏教シリーズ等の趣味の世界をブログに

フランクフルトとミツバチ研究

2018年05月23日 15時30分09秒 | 講演会
フランクフルトに駐在中、あるミツバチ研究者と知り合いになった。彼は、ミツバチ研究で有名な玉川大学の教授を経て、当時、フランクフルト大学のミツバチ研究所に研究員として在籍していた。どういう経緯で知り合いになったのかよく覚えていないが、ミツバチの生態についていろいろな話を伺う機会もあった。玉川大学といえば、日本ではミツバチ研究で最も有名だ大学で、テレビでミツバチの話題が取り上げられると必ずといっていいほど彼の教え子がテレビに登場していた。フランクフルト大学もドイツではミチバチ研究で有名で、そこで2年ほど研究を続けていたそうである。

彼の肌があまりにつやつやしているので、どうしてかと聞いたことがあるが、ミツバチから摂れるある物を毎日摂取しているからだという説明を受けた。その時はあまり気にしていなかったが、後で想像してみるに、それはプロポリスではなかったか思う。ローヤルゼリーはある程度知っていたが、当時、まだプロポリスという成分はほとんど世の中に知られていなかったので、無理もない。当時は、研究途上だったのかもしれないが、その存在と有効性は関係者しか知らなかったものではないかと思う。

一度、彼の案内で、フランフルト大学のミツバチ研究所に見学に行ったことがあった。そのような施設を見るのは初めてのことで、ミツバチの生態に強い感動を覚えた記憶がある。子供達家族も連れて行ったので、大変貴重な社会研究の機会となった。

ミツバチの話は大変興味深いものがあったので、彼にお願いして、1988年8月には、在留している日本人を対象に講演会を開催することになった。狭い場所だったので、出席者は40〜50人位だったと思うが、皆、ミツバチの面白い生態の話に感動していたようである。特に、ミツバチの生殖行動の話は印象的であった。海外で生活していると、日本では知りあえないような人とも話をする機会があるので、大変貴重な体験ができた事に感謝する次第である。

写真は、ミツバチ研究所でのミツバチの巣
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小塩節先生との出会い

2018年05月21日 22時06分35秒 | ドイツ

 

小塩先生は、1967年から1985年まで、NHKラジオの「ドイツ語講座」を担当していたので、お世話になった人も多いのではないかと思うが、ちょうど自分がドイツに転勤になった頃、ドイツの日本大使館公使、ケルン日本文化会館館長として、ケルンに滞在されていた(1985〜1988年)。自分自身、大学での第二外国語はフランス語だったので、定期的に聴いていたわけではなかったが、素敵な声の持ち主でラジオを通じて少しは存じ上げていた。ドイツ文学者としても有名で、ドイツ赴任前に彼の本を一冊だけだが持っていた。

小塩先生のエピソードとして、真っ先に浮かぶのが、ローレライの一件である。当時、ライン川にあるローレライは観光地として有名で、日本人観光客が多数押し寄せていたが、なんとローレライの岩の下の河岸にカタカナで「ローレライ」と書かれていたのである。場所がわかりにくいので、親切心で設置したのかもしれないが、それを見た小塩先生は日本人として恥ずかしいのですぐにその文字を撤去するよう働きかけ、今ではドイツ語表記のみ残されている。

最初の出会いは、1986年にフランクフルトで、小塩先生の講演会が開催された時であったと思う。次に、ドイツ人客室乗務員の採用にあたって、その研修の一つとして講演をしてもらったと記憶している。ドイツから名古屋に転勤になった時に、たまたま名古屋で小塩先生の講演会が開催され、再会することになった。その後、東京に戻って1994〜1998年まで、航空券を販売する関連会社に出向していたが、その時、小塩先生から航空券の手配を何回か頼まれてやりとりすることがあった。当時、小塩先生は、フェリス女学院の理事長をされていて、卒業生の就職先企業に学生をPRするパーティにたまたま参加して、お話をする機会もあった。

それから何年かして、客室乗務員の教育を担当されていた仕事上の友人が当時文化事業の業務を担当していて、小塩先生に大変お世話になっているとのことで、一緒に食事をするお誘いを受けた。当時、渋谷でドイツ時代の仕事仲間がオーナーをしていたドイツ料理レストランで、フランクフルト時代の支店長と計4人で旧交を温める機会を得た。このドイツレストランはもうなくなってしまったが、今の皇太子殿下と雅子さまがお忍びでドイツ料理を食べに来たことがあったほど雰囲気のあるお店であった。

その後、先生は一時体調を崩されたが、回復された時にお祝いを兼ねて同じメンバーで一緒に食事をする機会があった。遠出は難しいということで、先生のご自宅の近くで会食し、家にもお邪魔させていただいた、ご自宅は経営されている幼稚園に隣接していて、幼稚園とご自宅の両方にお邪魔させていただいた。英文学者の奥様ともお会いし、書斎も見学させていただいた。

個人的には残念ながらドイツ語を勉強する機会がなかったが、生活用語だけは今でも覚えている。小塩先生が書かれたドイツ語の本も何冊か持っているが、宝の持ち腐れの感がある。若い頃に先生からドイツ語を習っていれば、少しは物になっていたかもしれないと残念な思いである。

写真は、4人での会食風景(手前が小塩先生)


YouTubeは、ローレライ  https://www.youtube.com/watch?v=_c7ji5nHt6c

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ニッポン・オクテットコンサート

2018年05月19日 16時04分09秒 | 音楽

 

1988年の記念行事の一つとして、ニッポン・オクテットによるクラシックコンサートがあった。ニッポン・オクテットという八重奏団は、ヨーロッパに在住する演奏家グループで構成され、ヨーロッパ各地で年一回コンサートを開いていたが、当時タイアップして、プロモーション活動を行うことになったのである。日本で初めてコンサートを行うことが決まり、それに先立ち、フランクフルトでもプレコンサートを行い、その模様を機内のプロモーションビデオで放映することになったものである。

ニッポン・オクテットのリーダーは、当時、ベルリン・フィルの第一コンサートマスターであった安永徹さん(第一バイオリン)で、他にコントラバスの河原泰則さんは、ケルン放送交響楽団の首席、チェロの山下泰資さんは、スイス国営ルガーノ管弦楽団の首席奏者という具合に、蒼々たる演奏家で構成されていた。特に安永さんは、彼がベルリン・フィルにいるので、小澤征爾さんはベルリン・フィルには入れないとも言われたほどの名演奏家である。

いざコンサートを開催することになると、初めての経験で慣れていないこともあって、会場探しから始まり、メンバーの宿泊手配、プログラムの作成、PR告知活動、コンサートの進行、演奏会後の打ち上げ手配等となかなか大変な作業の連続であった。特に会場は400人位収容できるホールを探したが、急に決まったことや音響効果がポイントの一つでもあったので、なかなか見つからず、フランクフルトから数十キロ離れたヴィスバーデンという町のホールまで下見に行ったほどである。 最終的には、フランクフルトで適当な会場を見つけることができたが、先方の都合で、開催直前に別の会場に移動させられる羽目になった。ポスターやプログラムは、すべてシールを貼って対応することになったが、今考えるとよくスムーズに対処できたものだと我ながら感心する次第である。

演奏曲目は、ブラームスのピアノ五重奏曲 へ短調作品34及びベートーベンの七重奏曲 変ホ長調 作品20 であった。この2曲については、練習風景から始まり、本番、それにその後、テープやビデオで何度も聴くことになり、今では、自分の好きなクラシック音楽のベストテンに入るほど馴染みの深い曲となった。クラシック音楽については、全くの素人で、ドイツに行ってから時々コンサートに行くようになったが、このコンサートがきっかけで、クラシック音楽も好きなジャンルになっていった。

オクテットによる演奏曲は残念ながらYoutubeにないが、他の楽団が演奏した同じ曲を聴くことができるので、今でも時々聴いて、当時を懐かしんでいる。ともに大変いい曲なので、是非とも一度は聴いてほしい。

ブラームスピアノ五重奏曲へ短調作品34: 

     https://www.youtube.com/watch?v=haBMWnuQWes


ベートーベンの七重奏曲変ホ長調作品20:

     https://www.youtube.com/watch?v=Roz3ToVR8zk


写真は、コンサートの様子

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ドナウの旅人

2018年05月18日 23時18分39秒 | 旅行


1985年にドイツのフランクフルトに赴任したが、その際に持参した本の一つが「ドナウの旅人」(宮本輝著)であった。この長編小説はフランクフルトの街から始まり、ドナウ川に沿ってルーマニアまで旅するのである。

この小説の魅力の一つは、小説とはいえ、出てくる町名やレストラン名がほとんど実在するものであったことである。実在するものがあると妙に引き付けられるし、この小説を片手にドナウの旅に出たものである。フランクフルトでは、「ダ・クラウディオ」というイタリアン・レストランが出てくる。実際にあるレストランで、2回ほど食事に行ったことがある。この小説が世に出た頃、小説を持ってこのレストランに来た日本人がたくさんいたという話を聞いた。小説に出てくるレストランで食事をするというのは、なかなか乙なもので、感慨深い。ハンガリーに旅行した時も、ブダペストでやはり小説に出てきたレストランに行ったことがある。

宮本輝氏は、芥川賞作家として有名であるが、ドナウの旅人の執筆にあたって、1982年にドナウ川流域を巡る取材旅行を行い、1983年から朝日新聞で連載を開始したとのことである。

後に、フランクフルトでこの取材旅行をお世話した人が自分の仕事上のお客様であることが分かった。ダ・クラウディオも彼が宮本輝氏を食事に誘い、紹介したようである。その方に間に入っていただき、1988年9月には、宮本輝氏の文化講演会が実現することになった。当時、支店の移転に伴い、カウンターに多目的の展示スペースを確保したプラザ施設を持っていたので、そこに椅子を並べて、50人以上収容できる講演会場とした。航空券代は当方で持ったが、講演料はご好意だったような気がする。「小説を創る瞬間」という演目で講演をいただき、地元の日本人から好評を博した。講演会終了後は、ザクセンハウゼンという一角にあるレストランで打ち上げを行い、大いに盛り上がった。

1989年10月には、テレビ朝日の開局30周年記念ドラマスペシャルとして、「ドナウの旅人」がテレビドラマ化されたが、その際にも宮本氏がフランクフルトに来られ、ドラマ化についていろいろな話を伺った。主演は佐久間良子、麻生祐未、根津甚八さんで、小説とは違った臨場感があった。ドラマではフランクフルト、レーゲンスブルク、ウィーンやドナウ川周辺の街並みも随所に出てくるので、国際色豊かな旅番組としても興味深いものがある。旅好きな方であれば、是非とも本を一読するかテレビ映像をみてほしい。


写真は、講演会及び打ち上げ(右から3番目が宮本輝さん)の模様 


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UUUとのおつきあい

2018年05月17日 21時03分59秒 | 飛行機

 

UUUとは、業界の隠語で、うるさい うるさい うるさいの頭文字をとったもので、クレイムをよく付けるお客様のことをさす。いろいろ注文を付けるが、言い換えれば、頻繁に利用してくれる常顧客(フリークエント・トラベラー)ともいえる存在、いわゆるPRO-XXXであるので、通常は感謝を込めて丁重に対応する。

現役時代に大変印象に残るある常顧客とのおつきあいがあり、そのおつきあいは退職後の今でも続いている。初めて出会ったのは、フランクフルトに勤務していた時で、空席があったのに、隣席が空いていなかったことに関するクレイムを受けた時だったと思う。

彼は、ある化学メーカーの機械部門の責任者で、出張で年6〜7回は日本とドイツを往復していたが、東京のある旅行会社がその出張手配をやっていた。柔道家で体が大きいこともあり、隣の席を空けてほしいという強い要望があり、その旅行会社が面倒をみていたが、よくトラブルを起こしていた。あとで聞いたところによると、その旅行会社はぎりぎりまで隣の席をダミーで押えていて、直前にキャンセルするということをやっていたようである。

ぎりぎりまで押えていても、満席ともなれば、当然隣りの席にも人が座ることになるが、彼の主張としては、頻繁に利用しているのだから、隣の席の販売は一番最後にしてほしいということであった。満席ならやむを得ないが、乗ってみて、他に空席があるのに、自分の隣の席が空いていないことがわかるとクレイムをあげ、旅行会社のスタッフも対応に苦労していたようである。

彼の会社には、インハウスの旅行会社があって、全社的には出張の手配はすべてその旅行会社がやっていたが、彼の事業部だけは、別の旅行会社を使っていたのである。そのワンマンぶりは、サラリーマンの域を超えており、取引銀行も彼の事業部だけ別であったようである。彼の部屋は、社長室よりも広いと言われ、出張規定も、役員以外はエコノミークラス利用であったが、彼だけは、例外的にビジネスクラスを利用していたようである。

彼は、何年来とドイツに出張し続けていたので、ローカルスタッフとも顔馴染みであり、マネジャーも代々つきあってきたようである。体も声も大きく、迫力があるので、初めての人は震え上がるほどであるが、正論を語っていることが多かった。年に何回も来るので、いろいろと話をする機会があったが、ある時、隣席を空けるトラブル回避のために、一つの提案を行った。

今までは、ビジネスクラスの航空券を東京の旅行会社で買っていたが、ビジネスクラス+アルファの運賃でファーストクラスの航空券を当地で買うことを提案したのである。日本国内では、なかなかできないが、海外支店では、販売促進の一環で、ある程度の割引運賃を提供することが可能であった、ファーストクラスであれば、隣席を空けるような手配も全く不要となるので、ファーストクラスに変更してからは、トラブルはほとんどなくなった。売上も支店の実績となるので、一石二鳥であった。

当時、航空券の売上というのは、券面の航空会社欄にキャリア名を入れた支店の売上実績として計上されていた。例えば、東京で完全なオープンチケットを買ってきて、ドイツでキャリアを指定したなら、その売上は、東京ではなく、ドイツの売上実績となる。もし、東京でキャリアは指定したものの、フライトのみオープンの場合は、ドイツでフライトを予約したとしても、東京の売上実績となる。

ドイツで航空券を買い始めてから、彼からの提案により、彼の事業部からの出張者は、すべて東京で完全オープンの航空券を買わせ、ドイツにてキャリアとフライトを書き込むようにして、支店の売上アップに貢献してくれた。

当時、フリークエント・フライヤー・プログラムの一環として、特別なクラブ制度があり、日本国内では、会員になるのに有料でクレジットカード会員になる必要があったが、その制度についても何回もクレイムを受けた。当時、海外では、無料で会員になれたので、彼はドイツにおいて無料で会員登録を行ったが、ファーストクラスで年に6~7回、日本とドイツを往復するので、マイルもどんどん溜まり、あっという間にヨーロッパではトップクラスの常顧客となった。

彼は、浮気をしないタイプだったので、スケジュールがうまく合わない時でも、無理してでも当社を利用してくれた。東京から1泊でドイツに来ることもあり、往復とも同じ乗務員となったことも何度かあったようである。

ファーストクラス利用になってからは、自分が絡むトラブルはほとんどなくなり、一緒に食事をしたりするほどの親しい関係になり、我が家に遊びに来たこともあった。あくまで、お客様とスタッフという関係であるが、フランクフルト郊外にある有名なイタリアンレストランに何回か招待を受けることもあった。

彼が絡んだトラブルで、緊急時の取扱要領が変更されるという出来事もあった。1996年だったと思うが、成田発フランクフルト行の飛行機が離陸滑走中にトラブルを起こし、成田で乗客がシューターを使って機外に緊急脱出するという事故があった。その時、シューターで機外に滑り降りた乗客の何人かが降りた時に尻もちをついて怪我をするという出来事が発生した。

というのも、当時、緊急脱出のデモ用ビデオでは、シューターの下で客室乗務員が待機していて、尻もちをつかないように補助していたのである。ところが、安全規程に従い、乗務員は最後に降りなければならないことになっているので、 現実には、シューターの下には誰もいないのである。ビデオを見ていた何人かの乗客は、下に乗務員が待機して補助してくれると思って、思い切って滑り降りたが、誰もいないので、尻もちをついて怪我をしてしまったのである。

その場にいた彼は、機内の安全ビデオの内容がおかしいとクレイムを付けたが、これがきっかけで、緊急脱出規定が変更され、機内のデモビデオも変更(下での補助要員が客室乗務員から一般の乗客に変更)されたのである。それは、非常口付近に着席する乗客は、緊急時に真っ先にシューターを使って機外に出て、他の乗客がシューターを使って滑り降りる時に下で補助する任務を負うことになったのである。その任務を必ず非常口付近に着席する乗客に説明して了承を得る必要があるので、経験したことがある人がいるかもしれない。

彼とは、退職後もおつきあいを続け、年1回はいっしょに食事をして、彼の武勇伝を伺う機会を持っていた。その彼も今や85才を超え、背骨や腰を少し痛め、外に出かけることもあまりできない状況にあるが、電話で話すと今でも昔の元気なままなので、いつも勇気付けられる。今となっては、懐かしい思い出となっている。

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会社対抗ソフトボール大会の思い出

2018年05月16日 22時34分07秒 | イベント
フランクフルト駐在中の大事な仕事の一つに会社対抗ソフトポール大会があった。フランクフルト及び近郊には多くの日本企業がビジネスをやっていたが、年に1回(後半は年2回)親睦を兼ねて会社対抗のソフトボール大会を主催していた。日本人セールスは自分の担務であったので、セールスのためのイベントでもあった。

前任者からの引継ぎで担当することになったが、最大の難関は、会場の確保であった。ドイツ人は野球をやらないので、米軍の野球場を借用することになるが、その交渉はなかなか大変であった。関連会社のドイツ人女性スタッフの彼氏が米軍に勤めているということで、そのチャネルを使って、野球場を借用するのだが、ソフトボールと野球では、ベースの位置が違うので、ベースを移動したり、白線を引いたり、ソフトボール用に作り変える作業やチーム数の関係で、2~3か所のスペースの確保も大変であった。終了後、元に戻す作業もそれなりに大変であった。

赴任した当初は、年1回で10チーム位だったと思うが、その人気が年ごとに増し、1987年からは年2回となり、ピーク時は16チーム、人数にすると応援の家族を含め、400人を超えていた。フランクフルト在住の日本人のほとんどが集まっていたと言っても過言ではない。ファーストリーグ(第1部)とエグゼクティブリーグ(第2部)の2リーグに分けて、リーグ戦方式で優勝を競うが、日頃運動不足の派遣員のハッスル振りとその家族及び同じ会社仲間によう応援合戦も盛り上がり、大会は熱気を帯びて、フランクフルトでは恒例のビックイベントになっていた。その時期になると、日本人が集まる日本食レストラン(レストランもチームとして参加)では、大会の話題で持ち切りであった。強力チームは、ホンダ、YKK、JVC(日本ビクター)等で、多くのチームがグローブやバット等の用具を自前で日本から調達していたほどである。

普段運動をしていない駐在員が家族を前に張り切ってしまうため、ベースランニングで転んだり、怪我をする人も少なくなく、そのため、看護婦さんや救急隊の手配も行っていたほどである。日本にいたら、このような経験をすることはまずできないが、海外だと会社としてはライバル関係にあったとしても、日本人コミュニティーでは和気あいあい、結束はとっても固かった印象がある。数えてみたら、4年在勤中に、6回の大会を主催していた。プラカードを用意したり、賞品を手配したり、ソフトボール用具を確保したり、自分もプレイしながら、大会の運営もやっていたので、大変といえば大変なイベントであったが、皆に喜ばれ、やりがいのある仕事でもあった。今となっては、懐かしい思い出となっている。


写真は、開会式のシーン
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床屋さんにまつわる話

2018年05月15日 20時51分46秒 | 日常

月に1回お世話になっているのが床屋である。軽費削減の観点から、今は、格安の床屋を利用しているが、カットとシャンプーと白髪ぼかしのセットで、2680円である。十数人の理容師がいるが、選べないので、どの人にあたるかで、運、不運を占っている。女性にあたれば、ラッキーという感もあるが、本日の理容師は新人のおばさんという感じの人で、覇気もなく、不安なまま、椅子に座った。案の定、始めようとした時、櫛を落としたが、新しいのに代えるかなと思いきや水でちょっと洗って使い始めた。

白髪ぼかしについては、やったことがないようで、隣の人に液は〜さんに作ってもらいなさいと言われていた。ぎごちない動作でぼかしの作業をしていたが、その間、不安が募り、いろいろなことが頭をよぎった。床屋とは関係ないが、30年前、ドイツの日本食レストランで注文した野菜サラダに虫が付いていたことがあり、クレイムを付けるとウェイター(日本人)は虫だけ取り除いてまた持ってきた。それはないと店長に言って、新しいのに代えてもらったが、そのウェイタ-は翌日からキッチンに入っていた。昔、ドリフターズのコントで「こりゃ駄目だ。。。」というシリーズがあったが、まさに現実に起こるものである。

床屋については、毎月お世話になるので、エピソードというか、床屋にまつわるいろいろな出来事を経験している。いくつかを紹介してみると、

1 学生の頃、新宿のある床屋に通っていたが、10数人いたと思うが、そこの理容師は全員、若い女性であった。理容師というと男性のイメージがあるが、全員うら若き女性だと圧巻である。料金は若干高めだったという印象があるが、腕も確かであったので、よく通ったものである。

2 1988年にユーゴスラビア(現クロアチア)のツレス島というアドリア海にある島に知り合いの別荘があるということで、数日間お邪魔したことがあるが、滞在中、その島にある唯一の床屋に行った。大胆な行動であったが、日本人客は初めてだと言われた。まだ健在であろうか?

3 ドイツに駐在中(1985〜1989年)、床屋にも当然行かなければならない。ドイツ語ができないので、細かい注文は付けられないが、片言のドイツ語の単語だけ覚えて対応していた。床屋での注文は、「シュナイデン(カット)、シャンプー、ラジーレン(髭剃り)、ニヒトゥ・ツ・クルツ、ニヒトゥ・ツ・ラング(短かすぎず、長すぎず)、ビテ(どうぞ)」で通した。何とか通じるようで、大きな問題は発生しなかった。

4 1995年から2,3年の間、友達の紹介でヘアカットモデルをやっていた。モデルといっても、ヘアスタイルのモデルではなく、新米の理容師の練習台となるモデルである。その理髪店は、有名なチェーン店で、毎年多数の若い理容師が入ってくるが、すぐに本番のお客さんのヘアカットをするのではなく、新人同士でモデルになったり、我々のように外部のモデルを利用して、カットの練習を積み重ねるのである。新人だから下手ということではなく、カットに時間がかかるのである。その理容チェーンは、15分カットの先駆者的お店もやっていたので、そういう人材を育てていたようである。通常のお店の奥に特別室があって、そこでカットをしてもらうが、新人がカットした後、店長が直してくれるので、全く心配することはない。当時、その理髪店のフルコース料金が5000円であったが、モデルは無料。理髪店からも感謝され、あまりに美味しいモデル業であったが、妻から床屋代位自分で払いなさいと言われ、理由をつけて卒業することにした。

5 2010年5月にイギリスのリヴァプールに旅行した。言わずと知れたビートルズの故郷である。
ビートルス関連の観光地を見て回ったが、目玉の一つが「ペニーレイン」であった。ペニーレインの歌詞の冒頭に理髪店が出てくる。英語の歌詞は、”
“Penny Lane there is a barber showing photographs of every head he's had the pleasure to know”
とある。ヘアカットする時間的余裕はなかったが、理髪店にお邪魔して、幸いお客さんが誰もおらず、いろいろな話を聞くことができた、そこでカットするとヘアカット証明書がもらえるが、特別にもらうことができた。ペニーレインの歌を聴くたびに思い出す床屋さんである。

写真は、ペニーレインのヘアカット証明書


ペニーレインの音楽: https://www.youtube.com/watch?v=S-rB0pHI9fU 
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浮世絵との出会い

2018年05月09日 21時03分02秒 | 芸術
ドイツに勤務していたある日、ちょっと変わったおじさんがカウンターに現れ、浮世絵の話をはじめた。ミュンヘンで展示会か何かをやっていて、その帰りだという。抱えた風呂敷の中に綺麗な浮世絵がいっぱい入っていて、見せてくれた。それから1年後位にまた現れ、浮世絵の展覧会の話になった。彼としては、フランクフルトで浮世絵の展覧会をやりたいが、協力してもらえないかということであった。

当時、オフィスの引越・改造で、展覧会を開催できるようなスペースができたこと、1988年に日本からドイツへの直行便の就航が予定されていて、様々なイベントが計画されていたこと、自分自身、浮世絵に興味があったこと等開催に向けての環境が整っていった。我が方の協力事項は、展覧会会場を無料で提供すること、ドイツ人・在留日本人への告知、浮世絵の摺り道具・浮世絵自体の無料搬送、関係者の宿泊手配(費用は先方持ち)等であった。

先方は、価値ある浮世絵を提供すること、摺りの実演を行うこと(ドイツでは初めて)、浮世絵の鑑定サービスを行うこと等であった。話はどんとん拍子にいったが、いざ実現しようとすると調整することがいろいろあり、大変といえば大変であった。

先方とは、長野県の松本市にある「日本浮世絵博物館」の館長(当時)で江戸時代から続く酒井コレクションの十代目の方で、海外での展覧会を何回も経験され、国際文化交流に尽力していた。酒井コレクションは浮世絵を10万点も収蔵する世界有数の博物館の一つである。

半年ちょっとの準備期間を経て、実現したのは、1988年11月中旬であった。当初、2週間の予定であったが、地元でも注目を集め、3週間に延長した。その間、ドイツ初となる摺りの実演も何回か行い、ドイツ人に人気を博した。鑑定してもらおうと浮世絵を持参するドイツ人もかなりいた。

この浮世絵展に出品された浮世絵は、すべて江戸〜明治時代に摺られたもので、高いものでは、1点で何百万円もするような作品もあり、保険をかけたほどである。また、浮世絵に傾倒したゴッホが描いた絵画のオリジナル作品も2点(ともに歌川広重)展示し、ゴッホの作品も印刷物であるが、オランダのゴッホ美術館から取り寄せ、比較展示し、注目を浴びた。

印刷物ではなく、現代に実際に摺った作品の販売も1点100マルク(8000円位)で行い、かなりの売り上げを得た。その一部の作品をお礼としていただいたので、今でも大事に保管し、我が家の壁に交代で飾っている。特に、美人画は、色鮮やかで我が家を明るくしている。
この浮世絵展の縁で、帰国後も何年か親しくおつきあいをさせていただいた。松本にある浮世絵博物館にも1990年にお邪魔し、屋根裏にある倉庫にも特別に入れていただいた。展示されていない作品が倉庫に埋もるほど収蔵されていて、とくに春画といわれる世には公開できない芸術作品の本物を拝見させてもらった。その色彩といい、その本物の素晴らしさは驚嘆ものである。ほとんどの絵師は、表の浮世絵と裏の春画の両方を描いているとのことである。例えば、東海道五十三次で有名な歌川広重は、色重という名で春画も多数描いているが、ほとんどの人がその素晴らしい作品を見ることができないのはとても残念であると嘆いておられた。今では、代替わりして、彼の息子さん達が帝国ホテル前と浅草寺参道で浮世絵のお店をやっている。松本の博物館は、孫の代の方が代表理事となって運営されているようである。

画像は、摺りの実演風景


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