ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

過ちを犯さないシステム

2005年04月22日 | 通信-社会・生活

 休肝日明けの昨日(21日)、仕事帰りにスーパーへ寄って酒の肴を物色する。宮城産の生タラ、沖縄産の和牛ロースなどの他に、鹿児島産の新タケノコがあったので買う。タケノコこそ旬。旬に竹冠で筍(タケノコ)とするくらいだ。旬のものを食わなきゃ。
 今までも皮付きのタケノコは何度も買っていて、世間で言われているように皮付きのまま、米糠、または米の研ぎ汁で茹でて、ざるにあけ、下拵えを済ませていた。だいたいそれで、市販の袋詰の茹でタケノコと変らぬ程度に仕上がっていた。その後、下拵えの済んだタケノコに醤油、みりん、酒、砂糖などで味付けして、美味しく食べていた。
 昨夜は、タケノコを美味しく食べるための、世間で言われているマニュアルを全て無視して調理した。皮を剥いて、水で茹でる。新鮮なタケノコはえぐみが少ないと、数日前のテレビ番組で聞いていたからというのが理由の一つだが、えぐみって言ったってそうたいしたことはないんじゃないのという油断が私にあったのだ。未経験なことに対する甘い判断をしたのであった。その後、その茹で汁にそのまま味付けして、食った。
 「えぐい」という意味が、体感として初めて私は知った。それはもう知識として知ったという段階を超えて、自らが説明できるほどに「えぐい」を理解したといっていい。捨てるのは勿体無いと思い、我慢して食ったが、三分の一で限界に達した。口の中が不快。酒は不味くなるし、生タラの天ぷらも、和牛のすき焼風ピリカラ炒めも台無しとなった。
 口の中のえぐみはなかなか消えなくて、もはや酔っ払って忘れるしか無かろうと思ったが、飲む酒も嫌な味に感じて、不快感が増すばかり。しまいには腹も痛くなってきた。
 こうした方が良い、と解っていて人間はバカなことをする。オバー(婆さん)はそう言っていたが本当は違うかもしれない。言うことを無視して試してみよう、なんて思う。戦争は悲惨で、二度と起こしてはならないとオジー(爺さん)が言っても、もしかしたらそれほど悲惨ではないかもしれない、などと思う。バーチャルの世界で暴力に興奮する若者たちに、そんなことを思う人間がこの先、増えていくかもしれない。
 人の思いというのは自由で、統制の効かないものだ。「隣の国なんて、ぶっつぶしてしまえ。」なんて思うのも自由だ。それは過ちなんだが、思うだけの過ちは止めることができない。過ちを行動に移すことができないようにしなければならない。
 日本はこれから将来にかけて二度と戦争は起こさない、と誓った憲法で、過去の過ちを繰り返すことの無いシステムを作った。そうしたことで周りの国々、世界の人々へ、日本は過去に対して深い反省をしているということは十分に理解されているはずだ。
 歴史認識の違いはたいした問題では無い。沖縄で起きた日本軍による沖縄住民への残虐行為なんて、あったことは事実かもしれないが、これから未来にかけては、もうそのようなことは起こらないというシステムが日本にはある。武力を国の力として誇示するような隣国に比べれば、少なくともこれまでの60年間は日本に過ちは少ない。また、これから先の未来(いつまでかは、そのシステムを維持できるかどうかによる)にかけても、日本の方がずっと過ちを犯さずに済む確率は低いものだと思う。

 記:ガジ丸 2005.4.22


ワタルの世界

2005年04月22日 | 通信-音楽・映画

   ワタルの世界

 今朝(18日)、トイレ兼、シャワー室兼、洗面室で歯を磨いている時のこと、目覚ましテレビ芸能ニュース担当、軽部さんの声がかすかに聞えていた。「タカダワタル」という名前が耳に入った。テレビの芸能ニュースで高田渡が話題になるなんて、たぶん、ほとんど無いこと。また何かコマーシャルにでも出演して、それが面白いと評判にでもなっているのかなどと私は思って、急いで口を漱ぎ終え、テレビの前に行く。
 若い頃からオジサンのような顔をしていて、オジサンになってからはジイサンのような顔をしていた高田渡は、おそらく、平均的な人よりもいくぶん加齢の速度が速いのであろうと想像された。で、そうは長生きできない人であろうと私は予想していた。だから、ニュースを聴いた時は、「とうとう死んじまったか」という感想であった。
 とうとう、死んでしまった。・・・思えば去年、燃え尽きる炎の、最後の煌きのように渡は動いていた。『タカダワタル的』というドキュメンタリー映画が上映され、NHKでも高田渡のドキュメンタリー番組が放映された。沖縄でライブもあった。
 沖縄でのライブには私も出掛けた。始まる前からだいぶ飲んでいたのだろう、トロンとした目の渡は上機嫌で、歌を唄い、おしゃべりした。唄いながら、おしゃべりしながらも酒を飲んでいた。前半が終わり、休憩のあと、後半が始まった。後半の舞台へ、渡はなかなか現れなかった。予定より10分か15分位遅れて渡が舞台へ向かった。中央の椅子に座るまで、ほんの4、5mの距離を数分かかった。千鳥足。渡は泥酔していた。
 後半はぐちゃぐちゃだった渡ではあったが、私は十分に満足した。歌を唄っている時だけでなく、おしゃべりしている時だけでなく、高田渡は、ただそこにいるだけで「ワタルの世界」を表現できる人であるのだと、その時感じた。
 長くなるが、そのライブの感想を書いて友人に送ったメールを添付しておきましょう。


   高田渡ライブIN那覇 2004.3.26記

 3月14日、高田渡ライブ。会場のクラブDセットは、泊の実家から歩いて12、3分の、国道58号線から少し入ったところにある。クラシックとジャズ以外の音楽を聴かない時期が長かったので、私はまだ2度目の訪問。昨年、遠藤賢二ライブの時以来。
 何時開演かを覚えていなくて早めに行った。会場には7時に着いた。店の前に告知板があり、開演は8時と書いてあった。あと1時間もある。が、すでに5、6人の客が並んでいた。高田渡ってこんなに人気があったのかいな、と思った。
 ただでさえ並ぶのが嫌いな私は、1時間なんて、とんでもないこと。近くの居酒屋へ行って一杯飲む。正確に言うと生ビール中ジョッキ2杯飲む。10分前位に会場へ戻る。1時間前から並んでいる人たちがいたというのに、会場内は席が十分に残っていた。さすがウチナーンチュなのだ。1時間前から並んでいた人はきっと、他府県出身の人たちであろう。生ビール2杯でほろ酔いの私は、良い席に座れて、さらに気分がいいのであった。
 予定の時間より少し遅れて、大きな拍手と共に渡が登場した。手にグラスを持って、ヨタヨタした足取りで舞台中央の椅子に腰掛けた。私が生ビール2杯を飲んでいる間に、彼はチューハイ5、6杯を飲んだに違いない。酔っていた。しかし、歌はちゃんと唄い、おしゃべりも支離滅裂、なんてことは無かった。6、7曲唄って、前半が終わる。
 前半の最後に渡は、「ちょっと休憩して、後半はガンガン行きます。」と締めくくった。ガンガンというのは、沖縄ゆかりの山之口獏をいっぱい唄うんだろうなと想像して、私は期待した。予定の倍以上の休憩時間の後、後半が始まった。舞台の端に現れた渡は泥酔していた。ほんの数m先の舞台中央までたどり着くのに数分かかった。やっと座ったかと思うと、何やらかんやらブツブツ言って、すぐに寝ちまいやがった。
 それから、スタッフが起こしたりして時々目を覚ます渡ではあったが、歌は唄えなかった。唄わずしゃべらずなのに、しつこいスタッフに怒鳴ったりはした。しばらく寝て、ちょっと起きてを繰り返す。1時間くらいはそれが続いた。そうやっているうちに少しは酔いが覚めたのか、最後に3曲ばかりを唄って、この日のライブは終了となったのである。
 後半は、私の期待通りではなかった。いや、じつは、「ガンガン行くよ」なんて渡が言わなければ私もそうは期待しなかったのだ。高田渡は、渡の感性がなんであるかをそのファーストアルバムで既に完成させていた。渡はまた、そこに存在するだけで高田渡であることの空気を表現している。ライブは、後半メロメロで、曲数は少なかったが、それもこれも全部ひっくるめて、渡の世界を十分感じとることができた。私は満足だった。


 以上が去年のライブの感想。その夜、「ライブから帰って、渡のCD4枚を立て続けに聴いた。バーボンでも飲みながらと思ったのだが、休肝日だったので、お茶で我慢した。」と日記に書いてある。今日も休肝日。だが、今夜はそれを返上しよう。渡のCDを聴きながらバーボンでも飲むことにしよう。私の最も好きな歌唄いが死んだのだ。その供養だと思えば、私の肝臓も多少のオーバーワークは我慢してくれるだろう。
 去年のライブ、渡は最後に「生活の柄」を歌った。最後の力を振り絞るみたいに歌った。で、私も今夜は、去年の8月以来触っていないギターを弾くことにしよう。「生活の柄」を一つ唄ってやろう。CDを聴く前に。バーボンに酔って、指が動かなくなる前に。

 記:ガジ丸 2005.4.18